『「萌え」の起源』を読んで

イル

『「萌え」の起源』を読んで   2018年作

 手塚の功績を上げれば枚挙に暇がないが、作者が特に注目している点は、日本人でありながら、“日本人が一人も登場しないマンガ”をデビュー作にして作り上げたというところだ。

『クレイジーリッチ』と『ブラックパンサー』という映画が今年ハリウッドで大ヒットした。特に『ブラックパンサー』は全世界歴代興行収入九位という快挙を達成した。この二つの映画はストーリーやラブコメ、アクションシーンが評価されたというのも勿論だが、共通してハリウッドの常識を変えたという点が特に評価されている。というのも『クレイジーリッチ』は主要キャストの俳優がほぼアジア系、『ブラックパンサー』は俳優は勿論、監督、製作スタッフすらも大半が黒人であり、どちらもアメリカの映画会社が製作した作品でありながらも、アメリカ人にこだわらずにキャスティングしたことで、多様性の観点から大きな話題となったのだ。

 しかし日本で生まれ育ち、人種差別を身をもって経験していない私にとっては、この偉業の凄さがいまいちピンとこない。テレビでは普段から邦画も洋画も同じようによく見るし、タイタニックに乗っている客が全員白人でも特に何も思わない。日本人の作家が日本向けに書いたにもかかわらず日本人が一人も出てこなくても、そういう話なんだなと素直に受け入れられるのが私たちのある意味普通なのだ。その感性の根底にあるのは手塚が描いたマンガのように、常日頃から人種に捉われない作品に触れていたからではないだろうか。

 そもそも私たち日本人は、島国に生まれながら他国の文化に非常に寛容な人種だと思う。宗教で考えても、元々根付いていたアニミズム、伝来した仏教やキリスト教、最近ではイスラム教の人たちも見かけるようになったが、他国にみられるような宗教戦争などはほとんどない。どころか色々な宗教が混ざって日本独自の文化として定着するほどだ。

 人種の違いに限らず、歌舞伎の女形や宝塚の男役のように、男性が女性を、女性が男性を演じても、私たちはそれをごく自然に受け止めることが出来る。アニメで男の子の声を女性が演じることがよくあるが、あれも女性が男性を演じていることになるが、それを誰も変だとは言わない。そういった点からも昔から日本では作品を作るうえで性別の垣根がほとんどない国だったことがわかる。もちろん手塚も『リボンの騎士』など男装の令嬢の登場するマンガを描いている。

 海外で大きな支持を得ているアニメは多いが『セーラームーン』もそのなかの一つだ。しかしこの作品がイタリアの心理学者から“同性愛”を助長しているとクレームが入ったそうだ。私たちの感覚からは考えにくいが、事実海外の女性同性愛者団体には熱狂的なファンも多いらしい。だが、この作品を作った背景にあるのは特に女性の権利を主張したいだとか、女性同士の恋愛でも認めるべきだとか、そういったジェンダーフリーを意識したものではなく、ただ当時人気だった戦隊ヒーロー物を可愛い女の子でやったら面白いんじゃないか、といったような面白い作品を作りたいという気持ちだけだ。

 前述した『ブラックパンサー』のように今まで白人主義だったハリウッドに黒人が一石を投じるといったことは確かに意義深いことなのかもしれない。しかし一方で、過剰に人種や性に配慮をするあまり、設定的に無理がある作品になってしまうのはどうなのだろう。例えば日本の学校のある教室に日本人と黒人と白人とが男女も偏らず均等に存在する。といった設定があったとして、自然にストーリーに入っていけるだろうか。勿論このストーリーを進めるうえで人種が違うことが鍵となるわけではなく、あたかもそれが自然なことのように話が進んでいくとして、そんな作為的な作品が果たして面白いだろうか。

 対して日本では人種どころか人間か、そうでないかもあまり区別していないのではないかと作者は語っていた。その理由は手塚の作品を読めばわかるのだが、多くの作品の中に動物が、何らかの影響で人間の姿に変わる、若しくは人間のように話したりする、といった擬人化したキャラクターが頻繁に登場するのだ。手塚自身、虫が大好きだったこともあり虫の擬人化もよく登場するし、擬人化されたキャラクター、特に女性のキャラクターはその姿がとても可愛く描かれる。また生物か非生物かすら、気にしていない側面すもある。例えば手塚の代表作である『鉄腕アトム』や『ドラえもん』のように人間社会に自立したロボットが共存する作品というのはとても多く、生きたロボットという設定がなんの不自由もなく私たちには受け入れられている。

 なぜ多様なものを受け入れられるかと言えば、それはマンガが好きかとか、オタクであるか、だとかそんなことは関係なく、日本人が根底に「あらゆるものに好ましさ」、「萌え」を見出す感性を備えているからに他ならない。長年使っているパソコンが調子悪いな、と思ったら「こいつも頑張ったしな」とか、持っていたお守りがちぎれたら「身代わりになってくれた」とか、無機物に対しても精神性を認められるような感性が生まれながらに備わっているのだ。

 手塚もまたその感性を元に様々な作品を作り上げた。そのなかでは、人種も、性も、無機物でさえも、分け隔てなく面白い作品に仕上げるためだけにそれぞれキャスティングされたのだ。

 私は本来の意味で、多様性を認めた作品とは人種差別への反対やマイノリティの主張などを抜きにして、面白い作品を作るためだけに、ごく自然にそうした人たちが登場する、そういった作品だと思う。

 現代のマンガのほとんどは手塚が作り上げた土台の上に成り立っている。しかしそれは無から想像したものではなく、手塚自身も意識していないうちに、日本に昔から受け継がれてきた感性、精神を反映させて造り上げたものだ。

 そして私たちもまた日本の新しい伝統芸能の「マンガ」を受け継ぎ、世界に「萌え」を布教していくのだ。

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