色色模様(短編集)

晴見 紘衣

ドブの幽霊

 ドブの臭いがした。

 刃物みたいな細い月が舗装の禿げた道を照らしてる。人っ子一人いない深夜零時の裏道は風の吹き溜まりで臭いがこもっていた。

 亀裂の入ったコンクリート壁と道の角に捨てられたゴミの正体は、土に汚れたビニール袋となにかの缶詰と片方だけの靴。そのうち死体に行き当たるかもしれないな、なんて思って足が止まる。

 ゴミと一緒になにか大きいものがいた。大型犬ぐらいの黒い塊。生き物の気配がした。

 動けず目もそらせず、もっとよく観察したい気持ちと、関わらないほうがいいという気持ちが同時に生まれる。

 影が動いた。首をもたげた。ふたつのまん丸い目玉が光った。

 暗がりに目が慣れて輪郭が見えてきた。服を着ている。子供だ。犬じゃなくて人間の子供。

 

「……なんだ、なにしてんの」


 たかが子供の影を人間以外のなにかだと勘違いして怖くなってた、ってのを隠したいからできるだけ優しい声できいた。子供は黙っている。暗がりに光る目は執拗にこっちを見ていて、自分に話しかけたやつがどんな人間なのかを探ろうとしているように見えた。敵か味方か、どちらでもないのか。

 

「具合が悪い?」


 うずくまっているからお腹でも痛いのかもしれない。こんな時間に、こんな場所で。家出か。

 

「早く、おうちに帰りな」


 人助けなんて義理じゃない。助けてくれと言っているならまだしも、だんまりじゃないか。先を急ごうと足を動かした。

 それにしても臭い。誰かここで嘔吐でもしたんじゃないか。もしくは排泄。ああ、野良猫とか野良犬とかやらかしてそうだな。

 


 うそつき。



 子供の前を通り過ぎようとしたとき、か細い声が聞こえた。

 振り向くとふたつの目玉が見上げている。探るように。こっちの正体を、本性を、見破るように。

 

「なんか言った?」


 まばたきもしないで、子供はじっとこっちを見ている。ぞわぞわと足元から虫が這い上がってくるような感触がした。不気味だ。

 構うのはよそう。もしもほら、こんな時間だし、もしも幽霊とかそういうやつだったら。いや霊感なんてないけど、でもほら、万が一ってこともあるだろう。

 足を速めて遠ざかる。先の見えない夜道だ。ああ臭い。臭い臭い臭い。鼻がおかしくなりそうだ。

 ドン、と背中に衝撃が来た。

 鼓動が一気に跳ね上がる。胃の裏側がスッと冷えた。息を詰めて振り返る。

 誰もいなかった。

 あの子供に押されたのかと思ったけど、誰もいない。さっきまで子供がうずくまっていたあたりを凝視したけれど、そこにも誰かがいる気配はない。

 サーッと血の気が引いた。やっぱり幽霊だったんじゃないか。

 浅くなってしまった呼吸を無理やり深くする。肺に吸い込んだ空気は埃っぽくて毒みたいで咳き込んだ。咳をするときは下を向け、という祖母の言葉を守って体をかるく前傾させる。

 足元でなにかが光った。弱い月の光を反射している。腰をかがめて覗きこむと、見覚えのある銀色の薄い円盤だった。ついさっき落としたみたいに汚れひとつ無い。

 手を伸ばして拾い上げた。表に返してみると、市販のDVD-Rのようだ。マジックでなにか書いてある。月明かりを探して腕を伸ばした。ようやく読み取ったその文字に、心臓を鷲掴みにされる。


「――は? なんで……」


 何度見直しても、自分の名前だった。


 

 

 持ち帰って再生した映像に刻まれていたのは、ただの砂嵐と信号音だけだった。

 走査線がひっきりなしに這い上がって砂嵐を点滅させるから目がチカチカする。頭が痛くなりそうな一定の高い音が四畳半の部屋を埋める。ビールを飲みながら目と耳に垂れ流して、数年ぶりに涙が出てきた。

 


 ああそうだよ。

 うそつきだよ。


 

 あの目を知ってる。あれが誰だか知ってる。あれは、あの子供は。


 

 子供のころ描いた将来の自分は、こんな自分ではなかった。

 なんにもありはしないな。まさしく砂嵐と信号音だ。

 固く誓った約束を破り続けてる、嘘つきの最低野郎だ。

 幽霊なのはこっちのほうかもしれない。そうだったらいい。

 そうだったら悲しすぎる。

 

  

 ドブの臭いがした。

 窓から入ってきたか。いや、自分からだ。臭いのは自分だ。それじゃしょうがないな。どうりで歩いても歩いても逃げられなかったはずだ。

 もう腐っちまったかな。腐ってんのかな。ああ腐ってるな。腐ってるよ。

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