ドアの話し合い
これは私が今の職場で働くようになって15年が経った頃の話だ。
その日は月末の金曜日ということもあり、いつも以上に仕事が残っていたのでオフィスを出たのは夜の9時を回ったあたりだった。
世間は華の金曜日で、なかなかの賑わいを見せている。駅前の繁華街を歩けば5分に1度は客引きに声をかけられる、そんな中で赤い提灯の立呑屋に見覚えのある顔がいた。
同じ職場のドア科の「PUSH」と「PULL」だった。
2人はまだ若いのに、毎日誰よりも早く出社し、帰宅時は皆が帰るのを見送ってくれる。最近にしては珍しい若者だが、その日の夜は頬杖をつき、ガラスを赤くしてゲラゲラと笑い合う、普段とは違う顔を見せていた。どちらかと言うと職場では寡黙な方で、与えられた仕事をきちんとこなす真面目なタイプだったから、仕事を終えて日頃のストレス発散といったところだろうか。
話しかけようかとも思ったが、せっかくの楽しい時間に水を差す気がしたので、聞き耳を立てるに止まることにした。
「俺はさぁ、やっぱり好きになったらグイグイいっちゃうわけよ。押せ押せっていうの?気持ち伝えなきゃって思っちゃうのよ。」
「いやぁ~、なかなかできることじゃないよ、それ。僕は割と駆け引きするタイプだから。」
察するにそれは恋愛話だった。
彼らもガラスの10代、恋バナが楽しいというわけだ。
「それで、気持ち伝えると相手は意識しちゃうわけさ『そんなに私の事好きでいてくれるなんて嬉しいかも』って。」
「PUSH」は恋愛に対して押せ押せのタイプの様だ。
「時には引くことも大事だよ。押してだめなら引いてみなって言うじゃん。」
「だからまず押すのが大事なんだろ。とにもかくにも『押し』あるのみよ。」
一方「PULL」は逆に引いて待つタイプらしい。「PUSH」と「PULL」名前は似ているのにまるで逆の性格だ。
「そんなに言うならまぁ1回くらいって感じで押しに弱い女の子結構いるんだぜ?好きになったらとことん押して相手が根負けするまで押して、最後は押し倒しちゃったりして!」
「おいおい」
酒も入り、2人がげらげらと豪快に笑っていると、注文したハイボールが運ばれてきた。するとPUSHが「見てなって」とPULLに目配せをした。
「あ、お姉さんめっちゃ可愛いっすね!信子さんっていうの?さっきからバリバリ働いてるの見てすっごいタイプだなって思ってさ!この後仕事終わったら2人で呑みに行かない?」
聞きしに勝るとはこのことで、押して押して押しまくった。この場で女の子を口説き落とそうしたのだ。
「い、いやぁ、私まだバイト終わらないし……」
「え!?バイトさんなの?すごいテキパキ動いてるからてっきり店員さんなのかと!仕事できる系女子だね!きっとお酒も詳しいんじゃないの?逆に教えて欲しいな♪じゃあバイト終わるまで待つからさ!外にBMW横付けするから連絡先教えて!」
「で、でも……彼氏いるから。」
「一緒にお酒呑むだけだよ!そんな後ろめたい事しないってば!まぁ確かにさっきは可愛いくてタイプって言ったよ?でも彼氏いるって分かった子に手を出すほどクズじゃないよ。デートにおすすめの店を知ってるから、俺と試しに行ってみて、良さそうなら彼氏と使えばいいじゃない!きっと喜ばれると思うなー」
「でも……そんなことできn」
「分かってるって、俺のこと薄っぺらい奴だと思ってるんだろ?でもこう見えて強化ガラスでできてるんだぜ?それは横にいるコイツが証明してくr」
「引くわ」
PUSHから放たれるマシンガントークを遮るようにPULLが言った。
その顔はさっきまでバカ笑いしていた人物とはまるで別人だった。
嫌悪感に満ちた顔だった。
今思えばもっと早く私が止めにはいるべきだったのもしれない。そうすればあんなことにはならなかっただろうと反省している。
「お前、やりすぎだよ。押しすぎ。店員さん涙目になってるだろ。正直気持ち悪いわ。」
「おいおい、何だよその言い草。さっきまで楽しく呑んでたじゃねーか。これが俺のやり方だからしょうがないだろ!それとも酩酊してんのか!?」
「だからそれが気持ち悪いっていってんの。恋バナしてる分には面白おかしく聞いてたけどさ、今のお前には嫌悪感しかないわ。」
「なんだよそれ!言い方ってもんがあるだろーが!」
喧嘩は火の着いた導火線よりも早くエスカレートした。
そしてPUSHはPULLの胸ぐらを掴むと店の外に連れて出てきた。
周りの客もざわついている。
少しやりすぎだ、同じ職場の人間としてこれ以上は制止しなければ。
そう思った矢先だった。
ドン、とPUSHがPULLを押した。
酔っていて足元がふらついていたのかもしれない。しかし押されたPULLはふらふらとよろけて、歩道に豪快に倒れた。
「何すんだよ!」
手を出されたPULLも完全に怒り心頭だった。無理もない、倒れた拍子にガラスに傷がついたのだ。
今度は逆にPUSHの体を押した。
「何してんだよ、お前PULLだろうが!PULLはPULLらしく大人しく引いて待ってろよな!押すんじゃねーよ!」
まさに大喧嘩だった。
「おい!お前たち、いい加減にしろ!」
遅ればせながら制止に入った私を見て2人は驚いていた。
「偶然みかけたんで、少し離れたところから盗み聞きさせてもらっていたけど、さっきまで仲良く呑んでいたじゃないか!」
「山内さん……」
「恋バナも結構、酒を呑むのも結構、喧嘩をするのも時には必要だろう。だがな、仮にも会社の玄関の顔であるお前たちが、人様の前でこんなにも罵りあって傷つけあって、それはあまりいいことじゃないな。」
2人は空気の抜けた風船のように俯いてしまった。
「まだ若いお前たちには分からないことかも知れないが、ここは一旦、私の顔を立ててくれないか?」
そう言うと2人はコクリと頷き何とかその場は収拾がついた。
安堵したが、そんなことがあった後に呑む気にはなれず、結局は私もまっすぐ帰路に着いた。
と、ここで話が終われば美談としても話せるのだろうが、この話には続きがある。
翌週に出社したときのことだ。会社前で何やら人だかりができている。
みなうちの会社の社員だ。
もっと押せだとか聞こえる。金曜日の事があったので、押すだの引くだのという言葉にはドキリとしてしまう。
どうしたのかとその中心を覗いてみると、会社の入口、ドアの取っ手にPULLと書かれているはずのところに見慣れない字があった。
『PUSHよりPUSH!』
PULLのやつ、完全に根に持っていたみたいだ。
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