娘が持っているモノを母は全て持っている

 咲奈にとって家族という存在は特別だった。

 双子の姉として生まれてきた亜利沙、妹として生まれてきた藍那の二人は本当に可愛らしい娘なのだ。小学生、中学生、高校生と時間が進むたびに美しく立派に成長していく二人を見守ることが何よりの幸せだった。


 咲奈がそう考えるようになるのも当然で、今は亡き夫が二人のことを心から愛していた。不幸な事故で夫が先立ってしまい、絶望の中に居た咲奈を支えたのがまだ小さかった二人の存在だ。


『そうよね……落ち込んでなんて居られないわ。二人を立派に育ててみせる。あの人が困ってしまわないように、私が二人を――』


 夫の分も自分が二人を守ってみせる、そんな思いで咲奈は二人を育て上げた。

 亜利沙と藍那はそんな咲奈の気持ちに応えるように優しく成長してくれたようにも思える。母である咲奈のことを大切にしてくれるし、今は亡き夫の墓前にお参りをすることも絶対に忘れないほどだ。


 ただの家族という括りではなく、愛していた自分の半身とも呼べる存在が居なくなってしまったことはとてつもない悲しみだった。だが咲奈の傍には愛する娘たちが居る……だからこそ寂しくはなかったが、そんなささやかな幸せを踏み躙ろうとしたのがあの男だった。


『へへへ、良い体してんじゃねえか。旦那はまだ留守かぁ?』


 下劣な声がまだ脳裏に残っている。

 ナイフを突きつけられ恐怖に動けなかった咲奈の体を弄る男の手、気持ち悪さに逃げたくなっても体は動かせない。大きく実った胸を揉まれ、下半身にすらあの男は手を伸ばそうとした。


『あ? おいおい娘も大層べっぴんじゃねえか』


 そして、あの男が娘をターゲットにした時は咲奈の心に深い絶望が襲い掛かった。

 やめてくれ、娘に手を出すな、それなら私を……そうは思っても恐怖に声が出なかった自分を呪ってしまいたかった。


『……助けて……あなた』


 夫は助けてくれない、それでも咲奈は無意識に呟いていた。

 どうせ助けは来なくて自分たちは男の好き放題にされる、そしてその末に殺されてしまうかもしれない……そんな諦めの中、咲奈の願いは聞き届けられた。


『……あ』


 現れたのはカボチャの被り物をした男性だった。

 強盗を見つめるその視線は鋭く、咲奈と娘たちを背に守る姿は本当に勇者のようだった。亡き夫のような大きな背中に咲奈は心から安心感を抱いたのだ。


 その男性は事件の後去ってしまい名前も顔も知ることは出来なかったが、ようやく咲奈は彼に――隼人に会うことが出来たのだ。


「……ふふ、可愛い寝顔ね」


 紅茶を飲んで眠ってしまった彼、自身の大きな胸のせいで少し頭の位置を変えないと彼の表情が見れないのは不便だが、チラッと覗いた彼の寝顔は幼さを感じさせる可愛らしいモノだった。


「……………」


 あの時見せてくれた頼りになる背中、カボチャの間から覗いていた鋭利な瞳からは想像出来ない年相応の愛らしさに咲奈は胸が高鳴る錯覚を覚えた。否、錯覚ではなく確かにそれを感じていた。

 亜利沙と藍那も心を通わせており、それだけで隼人が誠実な人間だということは会う前から分かった。そして極めつけは隼人と初めて会話をした時、この人は信頼できるなのだと咲奈の心は判断を下した。


「……素敵な人ね」


 素敵な子、ではなく素敵な人だと口にした。

 隼人が咲奈の肩に手を置いて言葉を掛けてくれた時、咲奈は本当に夫が帰って来たのではないかと思ってしまった。瞳から感じる優しさと安心のさせ方、その全てが今は亡き夫と被ってしまったのだから。


 それから起き上がった隼人と僅かに会話をした。

 お母さんではなくお姉さんみたいだなと言われた時はそれはもうキュンとした。他の男では一切そんな言葉を聞いて何も思わないのに、相手が隼人というだけで咲奈の中の忘れていた女の部分が顔を覗かせようとしてくる。


「……っ」


 あの鋭い眼光、逞しい背中を想って体を慰める自分を思い出してしまう。薄暗い部屋の中で情けない声を出しながら愛を求める浅ましい姿を思い出してしまう……あの時、自分の体に巻き付いた男の腕が隼人のモノだと想像すると、それだけで目の前に隼人が居るのに体が歓喜に震えてしまう。


 いくら姉に見えるとは言っても咲奈はもう三十代後半だ。こんなオバサンに想われても気持ち悪いだけだと、咲奈は理性をフル動員していやらしい気持ちをどうにか追い払った。それでようやく、咲奈は普通の母親へと戻れたのだ。

 しかし、どれだけ我慢しようとも心は彼を求めてしまう。あの出来事は致命的なまでに咲奈の心に隼人という存在を刻み込んでしまった証明だった。


 そして、隼人から明かされた事実に咲奈はついにタガが外れてしまった。


「その……父と母を早くに亡くしてそれから一人でしたから。この温かさに家族ってこんなもんだったなって思い出しちゃって」


 流れ出た涙を拭いて隼人はそう言った。

 一瞬彼が何を言っているのか分からなかったけれど、それは隼人が今正に孤独を味わっているのだと理解出来たのだ。あんなにも強く、あんなにも優しく、あんなにも頼りになる隼人が見せた弱さ……それを見た時、咲奈の心に宿ったのは抑えることのできない母性と、消し去ったはずの彼を想う純粋な気持ちだった。


 一人の女として彼の傍に居たい、一人の女として彼の不安を消し去りたい、そんな想いが咲奈の中で急激に強くなり大きくなる。娘たち二人も知らなかった隼人の言葉を聞いて何かを思ったのはまず間違いないだろう。


「……えっと、本当にすみません。しんみりさせちゃって」


 空気を僅かではあるが沈ませてしまったことを謝罪し、強がるように笑顔を浮かべるその姿のなんと健気なことか。咲奈は思わず立ち上がり隼人の傍に歩いた。そしてどうしたんだと呆然とした様子の彼の頭を胸に抱くのだった。


「ちょっ!?」

「いいから。このままに甘えてください」


 出遅れたと悔しそうにする娘二人に心の中で謝りながら、咲奈は隼人のことを思いっきり抱きしめた。居心地が悪そうに最初はしていたものの、抵抗するのが無駄だと分かったのか彼はされるがままになった。


「……よしよし」


 結局、彼も同じだったのだ。

 愛する存在を喪った悲しみを知っており、挫けるわけにはいかないと前を見据えて立ち上がったのは咲奈と全く同じだ。だが咲奈と違って彼は今一人、それを考えると咲奈は隼人をこれ以上独りぼっちにするわけにはいかないと思った。


「お母さん!」

「……ズルいわ母さん」


 娘たちに引き剥がされてしまい、残念に思ったが隼人のことがある程度知れたので良しとしよう……咲奈は娘たちにもみくちゃにされる隼人を見て笑みを深めた。


 強盗から守ってくれた凛々しい姿、今のように照れている可愛い姿、家族という温もりを求める幼子のような姿、そのどれもが咲奈には愛おしく思えてならない。


 あぁそうだと、咲奈はここに来てようやくあることを導き出した。


「……私が母になればいいのよ」


 そう、自分が隼人の母親になればいいとそう考えたのだ。

 彼の本当の母親になることは不可能だとしても、彼を癒し寂しさを和らげる家族としての温もりを与えてあげることは出来る。あの寂しさに涙を流すようなことは二度とさせない、自分と娘たちが彼の温もりとなればいい……そう考えた。


「……っ……でも」


 だが、さっきも言ったように咲奈の中には隼人を一人の男性として意識している自分が居るのも確かだ。


 あの助けられた時からずっと彼のことを考えていた。

 来る日も来る日も彼のことを想像し、この身を焦がす熱に耐えていた。


 咲奈は思う。


 私は、彼の母親になりたい。

 私は、彼に尽くす女になりたい。

 私は、彼の子を孕む女になりたい。


 中にはあってはならない数々の欲望が溢れては止まらなくなり、それは咲奈の体に更なる熱を齎す。

 必死に理性を振り絞っても消えてくれない母としての想いと女としての欲望、それに今咲奈は全力で抗っている状態だ。


 既に忘れていた女としての顔が今、自らの奥底から這い出てくるのを咲奈は明確に感じ取るのだった。


「あの人もそう、今回のこともそう……私の大切に想うものを全て奪おうとする。それなら彼のこともひょっとしたら」


 奪われないようにするならどうするか、薄暗い考えに及ぼうとしたところで咲奈は頭を振った。

 そんなものに彼の自由はない、幸いなことに咲奈の中にしっかりと理性は残っていた。


 しかし、彼女が抱く想いは本当の意味で業が深い。絶望の中に希望を見たことで、彼女の中に芽生えたものがそれぞれ娘たちにも受け継がれているなど、彼女はきっと想像していないだろう。

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