満天

ヤマダヒフミ

第1話

 俺は屋上で寝転がって空を眺めていた。授業をさぼって。…ありきたりなシチュエーションというやつだ。

 先輩は色々な事がわかっていたのだろう、と思う。だから屋上からあんな風に落ちてしまったのだと思う。実際には、落ちたのは先輩ではなく、世界の方だったんじゃないか、って俺は思っていた。だけどそんな事を言っても誰にも伝わらないとわかっていたから、黙っていた。

 先輩は美人だった。その事に、自分で嫌悪していた。

 「私ね、自分の顔に硫酸かけてやろうかと思う事があるわ。そしたら、クズ共が寄ってこなくなるでしょ?」

 先輩はそう言った。確かに、やりかねない人だった。だけど先輩は、硫酸をかける前に飛び降りて死んでしまった。あっけない死だった。死体になった先輩にはもう誰も近づかなかった。先輩の言う「クズ」共は一切近寄らなくなった。

 先輩が飛び降りた時、俺は下にいた。先輩は上にいて、俺に目線で合図を送った。あの合図の意味…「あんたもすぐこっちに来なさいよ」だったのか、「あんたはこっち来ないで」だったのか。どっちだったのか、今も俺にはわからない。

 先輩は上から降ってきて…まるで、アニメの少女のように上から降ってきた。だけどそれを受け止める主人公の男の子はいなかった。当たり前だ。現実はアニメじゃない。アニメなんて何の足しにもならない。空想の心地よさは嘘でしかない。現実の重さをより一層強く感じさせるだけだ。

 先輩はぐしゃっと潰れて…それはもう見れたものじゃない体になった。でも顔はうまい具合に髪で隠れていた。何故かわからないけど血は出なかった。そんな事があるのか。即死なのは間違いなかった。蛙の足みたいに全身がピクピク痙攣していた。その動きは生を現しているわけじゃなかった。

 誰も、話さなかった。飛び降りに気付いた生徒は、凍りついたようになっていた。「アッ」と短い叫びを上げた奴もいたが、そいつは動かなかった。みんな動かなかった。動いたら負けのゲームをしているみたいだった。

 俺は先輩に近づいた。…さすがに怖かったよ。昨日まで生きていた先輩が、死んでいるんだから。死の衝撃が俺を襲った。だけどそれは爽やかに俺の中を通り抜けて行った。俺は先輩に近づき、しゃがみこんだ。先輩の体を抱いた。先輩はほのかに温かった。

 (先輩とヤッた時は、冷たく感じたのにな)

 俺は先輩の肉体を思い出した。俺は一度だけ、先輩とセックスした事がある。それは先輩の気まぐれで(この阿呆とセックスしたらどんな気持ちがするのか)というお試しのゲームに過ぎなかった。先輩は当たり前のように、俺に幻滅し「結局、あんたも普通の男だったのね」と言った。まあ、先輩を満足させられる存在などこの世にいない、と今の俺は言う事ができる。その時は随分、自尊心を傷つけられたけれども。

 先輩の体はほのかに温かった。俺は片膝ついて、先輩を抱き上げた。まわりの連中は俺を見守っていた。劇場だった。ロミオとジュリエットだ。馬鹿げた芝居だ。俺は死体に声を掛けた。

 「先輩、良かったね。これで誰も寄ってこなくなるよ。一人で穏やかに暮らせるよ」

 …先輩の額に口づけしようかと思ったが、あんまりだと思って、こらえた。まわりの連中は俺を異常者だと思って見ていた。ふざけるなよ。お前らが異常者だからこそ先輩は自殺しなきゃならなかったんだろうが、と理不尽な怒りを抱えて、怒鳴ってやりたかったが、黙っていた。先輩の死をこれ以上、汚すわけにはいかなかった。俺は先輩を地面に置いた。…それはもうずっと前からそこに置いてあるように見えた。俺は、まわりの生徒に警察を呼ぶように提案した。

 

 ※

 

 先輩の死は異常者の死と捉えられた。それゃそうだ。奴らにも奴らの世界がある。奴らの間抜けな世界がな。

 蟻塚。ただの蟻塚だ。奴らの世界は。世界から落ちて死んだとしても、何の恥ずかしい所もない。異常なのがどっちか、誰がわかるもんか。馬鹿が何十億人固まろうが、馬鹿なのは決まりきっている。奴らは数で勝負をかける。神という一者が消えたから、頭数で勝負をしようって魂胆だ。いくら金を持っているか。いくらフォロワーがいるか。数。ここでも数、あそこでも数。数がなければあいつらの頭は狂ってしまうだろう。自分の頭が存在せず、ただ数列の波に消え去っているのが奴らの自慢なのだ。知った事か。あいつらの生なんぞ。

 先輩は死んでしまった。俺は一人取り残された。どうすればいいか、もうわからない。

 俺は授業をさぼって、屋上でタバコを吸っている。阿呆な学生だ。だがここから世界が見下ろせる。世界が見下ろせるからには、ここは世界の一部ではないのだろう。

 下界では人間共がバタバタと動いている。知った事か。奴らがどうなろうが。

 

 …先輩の母親が俺に会いに来た。飛び降りの一週間後だったか。母親は憔悴しきっていた。母親は俺に感謝の言葉を述べた。

 「マキにとって、あなたは唯一の友達でした。マキはああなってしまいましたが、あの子と遊んでくれた事を私は感謝しています」

 それは奇妙な褒め言葉だった。先輩にはよっぽど友達がいなかったのだろう、と思った。

 だが母親は間違いを犯していた。先輩にとって俺は友達ではなかった。無論、彼氏でもない。先輩の高貴な自意識にとっては、自分と同列の存在は一人もいなかった。俺は見下されていた。それでも少しは認める所はあったのだろうと思う。だからかまってはくれた。でもそれだけだ。先輩は俺を同列とみなした事はない。

 だから、先輩は、自分以外を見下せる場所に立ってそこから飛び降りたのだ。自分と同列に立つものは何者も存在しない場所から、連中のいる下界に向かって落ちていった。高い場所から動く事のできない己を廃棄する為に。…先輩は己の孤独に疲れたのだ。俺はそう思う。世界に対する嫌悪と、孤独に対する疲労は同じ事柄の違う側面に過ぎない。兎にも角にも先輩は飛び降りた。

 そうして、俺だ。俺は一人取り残された。

 今更、飛び降りるわけにもいくまい。先輩の真似事をした所で始まらない。

 とはいえ、雑魚共に混じるのもゴメンだ。あいつらは一生、浮かれて勝手な遊びをしていればいい。勝手にしろ。いいじゃないか、お前らは幸福なんだから。幸福な豚に未来なんぞない。あるのは飼料の未来だけだ。餌の未来だ。何時何分に餌が来るのは確定している。そりゃ、未来は明るいだろうさ。

 俺には何もする事ができない。ただここでタバコを吸っているだけだ。

 タバコはまずかった。だが、現実よりは少しはマシだった。それに少しずつ、毒が体を蝕んでいると思うと、穏やかな気持になれた。

 俺は空を見ていた。空は俺の方に降ってくるように思えた。

 じっと空を見ていると、雲の中で何かが光ったように見えた。(ああ、星だ) 俺は考えた。気がつくと、空は夜空になっていた。真っ暗だった。空には一面の星が光っていた。見た事のない輝きだった。それはあまりにも美しかった。

 (俺は狂っちまったんだな) 俺は考えた。(でも、別にいいや) 満天の星の下、タバコを吸い続けた。そんなにうまいタバコを今まで吸った事がなかった。(ああ、この味、先輩にも教えてやりたかったな) そう思った。その時、涙がこぼれてきた。涙は流星のように頬を流れ落ちて、地面に落ちた。俺は落ちた涙をみる事なく、上を向いたまま、タバコを吸い続けた。星空はいつまでも止む事がなかった。俺は阿呆のようにタバコを吸い続けた。

 

 

 

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満天 ヤマダヒフミ @yamadahifumi

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