Ep.06 号砲と走る喜び

「おばあちゃん、大丈夫っ⁉」


 瑠衣が叫びながら階段を飛ぶように下り、千穂も後を追った。

 二人が交差点まで来たときには、フルフェイスの男は立ち上がり、バイクを乗り捨てて走り出していた。


「待ちなさいよ!」


 瑠衣が制止するも、男は振り向きもせず環状道路を一目散に逃げていく。

 その瞬間、千穂の脳内で号砲が鳴り響いた。


 それに反応するように、太ももが力強く躍動し、ばねのように地面を蹴って駆けだしていた。

 一年前の競技会の予選で、百メートル先のゴールラインをめがけて無心で走っていたときみたいに、小さな視界に男の背中だけが映っている。

 脳が足をあげろ、腕を振れと命令を送っている。

 地面を蹴るたび、少しずつその背中が近づいてくる。

 あと一メートル、五十センチ。

 やがて、千穂の伸ばした右手が男の襟首を掴んだ。

 その瞬間、彼は足をもつれさせて倒れ込む。男に引きずられて転びそうになったのをなんとか堪え、彼の右腕を後ろ手に抑え込んだ。


「いってえぇ!」


 ヘルメットの中でくぐもった声がしたが、構わず男を押さえ続ける。しかし、大人の男の力は相当で、千穂を身をよじって押し飛ばし、もう一度立ち上がろうとした。

 そのとき、勢いよく走り込んできた影が、男の背中に馬乗りになって、さらにもう一人が倒れ込んだ男の肩を押さえ込んだ。


「あなた、ケータイもってる⁉」


 男の背中に乗っていたショートカットの子が千穂を見上げてきいた。


「もってたら警察に連絡して! こいつはわたしたちが抑えておくから!」

「わ、わかった」


 千穂は制服のポケットをまさぐりスマートフォンを取り出したが、指先が震えてうまく画面ががタップできない。まるで脳と体がリンクしていないみたいだった。

 すると、千穂の手の中からスマートフォンがすっと浮き上がった。

 浮き上がったと思ったのは、瑠衣が彼女からスマートフォンを取り上げていたからで、彼女がそのまま警察に電話をしてくれた。


 すぐに警察官がパトカーでやってきて、男はその場で逮捕された。


「後で詳しく事情聴取をすることになるっち思うけど、とにかくお手柄だ」


 警察官はそういって、男を本署に引き渡すため、彼をパトカーに乗せて現場を後にした。

 

「ちぃ、大丈夫?」


 瑠衣が千穂の顔を覗き込んでいる。あのあと、しばらく指先が震えたままだったが、ようやく平静を取り戻していた。


「うん、もう平気。おばあちゃんは?」

「さっき救急車で病院に搬送されたけれど、転んでちょっと擦りむいた程度みたい」


 それを聞いて安堵の息をこぼしたときだった。


「ねぇ」


 千穂に呼びかける声があった。振り返ると、さっきまで男の背中に馬乗りになっていたショートカットの女の子が、二人に近づいてきた。


「あなた、とんでもなく足が速いのね。驚いたわ」

「わたし、陸上部だから」

「三年生?」

「ううん。二年生」


 そう答えると、彼女はちょっとだけ怪訝そうに眉を寄せた。多分、今日も陸上部は部活動をしているのに、現役の部員がこんなところにいることを不思議に思ったのだろう。それを察したのか、隣で瑠衣が彼女にいった。


「ちぃは走ることは好きなんだ。でも、競争するのは嫌いなの」

「どうして、陸上部なんでしょ?」

「ちぃは優しいんだよ」


 少しだけ苛立ったように答えた瑠衣を、千穂が制した。


「わたし、自分が勝つことで、他の何人もの子が悲しい思いをすることに耐えられなかったの。そうまでして走る意味がわからなくなって……」

「勝ったら誰かが悲しむから走りたくないって、あなた何様なの。全力でぶつかって、それでも敵わないなんて、スポーツなら当たり前でしょ。だからこそ全身全霊をかけて挑むんじゃないの? 負けた相手に理由を求めるなんて、優しさじゃなくて勝負から逃げているか、そうじゃなきゃ相手を見下しているかよ」


 ずばりいわれて、千穂はせっかく忘れかけていた思考の迷宮にまた迷い込んでしまった。

 走ることが楽しくて、タイムが伸びて、それを話すと瑠衣が喜んでくれるのが嬉しくて……順位なんて、ただ単に結果を並べただけに過ぎないのに、その数字の大小で価値を測られることに、本当に意味なんてあるのだろうか。

 押し黙る千穂の前に瑠衣が身体を差し入れ、声を荒げた。


「さっきからなんなの⁉ 用がないなら、るいたちのことは放っておいて欲しいんだけど!」

「……でも、部活辞めたいなら好都合ね。あなた、ラクロスをやらない?」


 突然、そう切り出されて、千穂も瑠衣も、頭の上にいくつもハテナマークを浮かべて「は?」と素っ頓狂な声を出した。


「アンタ、重度のコミュ障か!」


 グループの中にいた三つ編みの子が、ショートカットの彼女に鋭い声でいう。

 すると、困ったような表情で、椎名泉美が一歩進み出た。


「ごめんね、いりえる。うちのキャプテン。ラクロスのやりすぎで頭がおかしいらしくて」

 いりえる、というのは瑠衣がクラスでよばれているあだ名だ。

「確か、陸上部の辻井さん、だったよね。同じクラスだけど、別グループだからあまり話したことなかったね。辻井さん、今日は部活に出なかったの?」

「実は先週、次の大会の選抜レースがあったんだけど、わたし、後輩に負けて……それで、なんとなく気分が乗らなくてサボっちゃった」


 正直にそう答えると、泉美は「わかるなぁ」と、大きく頷いた。


「あたしも、試合で負けた次の日とか、部活行くの嫌すぎて、おなか痛くなるもん」

「イズでもそんなことあるの?」瑠衣が聞く。

「当たり前よ。ついこの前だって、いきなり乗り込んできた子との勝負に負けてバスケ部潰しちゃったのよ? なのに、この子たちはあたしについてきてくれた。こんな嬉しいこと、ないよ」


 泉美は困り顔のまま、後ろに控える後輩たちを見遣った。


「でも、だからこそ頑張らなきゃって思うの。それで、もし辻井さんが走ることに意味を見失いそうだっていうなら、試しにあたしたちとラクロスっていう競技をやってみない? って、この言葉の足らないバカキャップの日比井星南はいってるの」

「椎名は言葉が余計すぎる」


 セナと呼ばれたショートカットの彼女が不服そうに反論しつつ、もう一度千穂を見た。


「陸上競技では勝者は一人。残りは全員が敗者よ。でも、ラクロスなら、あなたの走りによって、チーム全員が勝者になれる。あなたが走って勝ち得た喜びは、チームの喜びとして十倍にも二十倍にも大きくなるわ」


 十倍にも二十倍にも……

 そうか。

 千穂はいま、ようやくわかった気がした。

 彼女が走っていたのは、いいタイムをだして、それで瑠衣が喜ぶ顔を見るのが大好きだったからだ。

 もしセナがいうように、千穂の走りがチームの力になって、それが誰かの喜びになるならば、あるいは自分はまだこの先もずっと走り続けていられるのかもしれない。


「でも、わたし……今まで走ることしかできなくて……球技だってやったこともないし、チームで戦うことだって初めてだし……そんなわたしでも、みんなのためになる?」

「それでも、あなたはチームに必要な戦力になる」


 まっすぐに千穂を見る目は、その言葉がうわべだけのものではないと確信させる力強さと自信に満ちていた。


「瑠衣、わたし……」


 千穂はおもちゃをねだる子供のような目で瑠衣を見上げる。瑠衣は、やれやれといいたげに、けれど、ほんの少しだけ安堵したように口元を緩める。


「いいよ。ちぃがやりたいなら、やろう。るいは、ちぃがやるなら一緒にやるから」

「本当⁉」

 千穂は嬉しそうに目をまんまるにした。

「ああ」と小さく返事して、瑠衣は空を仰ぐ。


 ――その笑顔が、るいだけのものじゃなくなるのは、ちょっと悔しいけれど。


 小さく呟いた瑠衣の言葉は、サトウキビの囁き声が春の穏やかな風に乗せてさらっていった。

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