Hiro Suzuki


 作業場の裏手にある少し大きな湖のほとりには貸出用の小さなボートがあった。人気のない湖でボートは旅行客に漕がれることもなく、ただロープに何年も繋がれていた。叔父の棟梁が作業場で荷物を積み終わるまでの間、俺はそのボートを見つめた。冷たい雨の中で俺は目を閉じた。明るい穏やかな柔らかな日差しの中、水の王女が外の世界を一目見ようとし、ボートに近寄る。王女は俺に気付き、水の中から微笑んだ。俺は微笑み返して王女を水から引き上げる。あなたのボートに乗ってもいい?と王女が俺に聞いた。俺は王女に、湖の記憶を忘れないくらいの間なら構わない、と言った。王女は、あまり長くいると戻り方を忘れちゃうから、と確認するように言いながら、湖の外へと裸のまま身体をそらせた。俺は王女の美しい姿が反射する湖面を見つめ、意を決して湖の王女をボートに乗せてあげた。王女と俺はそのまま愛し合い、王女は湖を忘れた。おい、まだ眠いんか、車はよ乗りぃや、と棟梁がエンジンをかけながら言った。助手席に乗り込み、窓の向こう側のボートを見つめた。鳥がボートに寝そべるのが見えた。ナイチンゲールはじっと湖面を見つめていた。帰り方を忘れたんだ、とひとりごとを言いかけて、やめた。早朝にもかかわらず、道は少し混んでいた。俺にずっとナイチンゲールは、行かないで、電話にどうして出てくれなかったの、と責め続けてきた。信号が赤に変わると棟梁は、俺に作業の指示を確認した。やがてトイレに手摺りをつけて欲しいと依頼してきた家主の家の前で俺を下ろし、棟梁は別の現場へと向かった。その家主は昨日の夕暮れどきに工務店に電話してきた。棟梁は、それならうちの若いの連れてきます、38,000円くらいかな、と言っていたのを俺は作業場を片付けながら聞いていた。昔よりもずっと夏は暑く、冬は寒い。いつからか夏と冬だけになった。今がいつなのかなんて考えるのはとっくにやめていた。少し作業を中断すると寒さが襲ってくる。だからきっと冬が始まろうとしているのだろうと俺は思うことにした。どこから来たの?と家主の女が尋ねた。俺はまたか、と思いながら作り笑いをして黙っていた。すると女は、大変ねぇ、と言いながら部屋に引っ込んだ。消耗的なRapが女の引っ込んだ部屋から鳴り響き、俺は耳を塞いだ。昼過ぎには女がひとりで泣きわめきながら誰かと電話していた。泣き声がやみ、やがて女の部屋からホロヴィッツの弾くリストのコンソレーションno.3が延々とリピートされ始めた。夕方になる頃にはなんとか手摺りを完成できた。女に、それじゃあ帰ります、お電話で申し上げたとおり38,000円になります、と言うと女は呆気に取られた顔で茶封筒を俺に渡した。上手ね、日本語。俺は茶封筒の中を確認して、領収書を書き、女に渡しながら愛想笑いをして、また何かありましたらいつでもお声掛けください、ありがとうございました、と言って、女の顔を見た。女の瞳の中には浅黒い少年が俺を漠然と見つめていた。しばらくぼんやりと灰色の雲を見つめて、東の空に視線を向けた。東側は水色とオレンジ色が混ざっている。仲間はずれにされたカラスが他のものたちの後に続くのが見える。少し身体をゆすり雨でどろどろの落ち葉をスニーカーの裏でわざと踏みしめた。どろどろした落ち葉を一枚だけ拾い上げ、寒いよな、とひとりごとを言い、落ち葉を雨の中に返した。ヒラヒラ舞うこともなく、落ち葉が濡れたアスファルトにへばりついたのを確認して、俺は棟梁に電話した。終わりました。わかった。10数分して棟梁が迎えに立ち寄ってくれた。

 ナイチンゲールが鳴かない朝も俺は冷たい雨の中を棟梁の運転する車の助手席でただ黙って座っていた。

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