track.19 鳥籠の中の少女

 突如僕らの前に姿を現したその巨大な狼は、その場の全ての者を威嚇するように、耳を劈くような大きな咆哮を上げた。



 「がっ……くく、来るなぁぁぁーーー!!!」



 興奮した三島は、床に座込んだままガムシャラにナイフを振り回すが、そんなものはもはや何の意味も成さなかった。

 巨大な狼と化した霧島の毛並みは、三島のナイフをおもちゃみたいに弾き、次の瞬間には三島の腹に噛みついて、あの大男を容易く宙へ持ち上げたんだ。



 「い……痛ぇぇー!!! はは、放せ、放せぇぇーー!!!」



 巨大な狼は、三島の巨体を弄ぶように首を上下左右に振り回し、最後には壁に向かって勢いよく放り投げた。

 三島の血が僕の顔にまで飛んできた。当の三島本人は、思いっきり壁に叩きつけられて微動だにしない。少なくとも、複数個所の骨折は免れないはずだ。

 そして尚も狼と化した霧島は、ピクリとも動かない三島の元へゆっくりと向かおうとしていた。



 「き……霧島!! もういい! それ以上やったら、そいつを殺してしまう!!」



 霧島の耳には全く届いていない様子だった。もしかしてこれが霧島から聞いた、人であることの一線を越えてしまった状態なのか?

 であるのであれば、あの時霧島は言っていた。もし自我をなくすようなことがあれば、僕に止めて欲しいって。

 僕は霧島から受取ったイヤホンをポケットから取り出し、まじまじと見つめた。どこからどう見ても、何の変哲もないただのイヤホンだった。

 正直、全く理解の及ばない話だったが、もう考えている暇はない。少なくとも、世界中のどんな陰謀論なんかよりも荒唐無稽な出来事が、今僕の目の前で起きているんだから。



 「あ……あんた、一体それで何する気!?」

 「わかりません、だけど、僕は霧島の言葉を信じるだけです!!」



 僕はそのイヤホンを両手に構えると、もう何も考えず、ただ無心のまま狼と化した霧島へ向かって走り出していた。

 その気配を感じとったのか、霧島は巨大な前足で僕に鋭い爪を突き立てようとする。こんなの普通に喰らったら、一撃で瀕死の重傷もいいところだった。

 だけど、この霧島が魔法の紐グレイプニールだと言ったただのイヤホンは、狼の体に触れた瞬間、その形を変えて応えてくれたんだ。



 「の、伸びた? 拘束するのか?」



 太い縄へと形を変えたイヤホンは、巨大な狼の体に巻き付いてその動きを封じようとする。

 狼は必死に抵抗して嗚咽を上げる。



 「これで……行けるのか?」



 僕はこのグレイプニールに一定の効果を確認する。

 しかし、狼は拘束から逃れようとグレイプニールを握ったままの僕を引っ張りながら、窓の方へと突進して行った。

 せっかく突破口が開けたっていうのに。僕は諦めるものかと必死に狼の背中にしがみ付いた。



 そして、狼は窓を枠ごと破壊して二階から飛び降り、地面に降り立って尚、僕を振り落としてグレイプニールから逃れようと、デタラメに走り回ったんだ。

 巨大な狼の最後の抵抗に、僕は必死に耐えながら、彼女が人間であった時の姿を脳裏に浮かべていた。



 霧島は幼い頃からいつだって自らの運命に縛られ、自由を求め続けていた。

 だからもう、本当は縛られたくなんてないんだ。例え彼女がこんな姿になってしまったとしても……ましてや、彼女にとって希望を奏でるはずのイヤホンなんかに。



 「霧島! こんな物なくたって、お前は自由になれるはずだ!! ロックはお前を縛るものじゃなくて、自由にするものだろ!!?」



 僕はそう叫ぶと、ふと閃いてズボンのポケットに手を突っ込んだ。だが、こんなときに僕のこの行為は致命的であった。

 あれ狂う霧島に、いよいよ振り落とされた僕は、思いっきり背中からアスファルトに叩きつけられる。激痛で気が遠くなりそうだったよ。

 一瞬、もうダメかと思った。本当に霧島に食い殺されるのかってね。でも、ぶっ倒れた僕の霞んだ目に映ったのは、穏やかに光る月明りで、そして聴こえてくるのは優しくて温かなメロディーだった。



 「ああ……何とか成功……なのかな?」



 体中の痛みに耐えながら僕が状態を起こすと、狼と化している霧島は先程までとは打って変わって、しおらしく座り、僕のスマホから流れる曲に聴き入っていた。

 前に霧島に教えてもらい、落としておいたプライマル・スクリームの『カム・トゥゲザー』だった。

 かつて、蓄音機から流れる亡くなった主人の声に耳を傾け、聴き入っていた犬がいたなんて話を聞いたことがある。彼女はそんな犬を彷彿とさせるように、この懐かしくて美しいメロディーに浸っていたんだ。



 霧島 摩利香は強く気高く、美しくて優しかった。彼女は自らに課せられた運命に抗いながら、ただ一人で本当の自由を求めて戦い続けていた。

 だけど、本当は待っていたのかもしれない。鎖された部屋で四角い空を眺めながら、いつか自らを救い上げ、あるはずのない楽園へと連れ去ってくれる誰かを。

 


 僕はやっとの思いで立ち上がると、座って音楽に聴き入る狼の霧島に歩み寄り、その顔を優しく包み込むように抱きしめた。

 何だか獣臭くて、堅い毛並みがチクチクと頬に刺さって痛かったけど、ただそれ以上に愛おしかったんだ。



 「霧島……今はまだ障害も多いけど、一緒に自由を探そう……そうだな、試しに軽音部にでも行ってみよう。最初は怖がられるかもしれないけどさ、きっと皆んな分かってくれるって……大丈夫、僕も毘奈も、赤石だってついてる」



 彼女はクンクンと優しい声で、僕に答えてくれている気がした。

 そしてその精悍な毛並みは、いつの間にか透き通るような白い肌へと変わっていき、僕の三倍以上はありそうな巨体は、強く抱きしめたら壊れてしまいそうな程小さな少女のものになっていくのがわかった。

 


 「那木君……ありがとう、あなたを信じていたわ……でも、このままだと少し恥ずかしい……」

 「え……霧島? 元に戻った……って、何故裸!?」



 いつの間にか霧島は、小柄で美しい少女の姿に戻っていた。

 だけど、あんな大きな狼になってしまったせいで、服やなんかは全部破れてしまっていたんだ。

 それは出るとこ出てるってわけでないけど、しなやかで無駄なのない、まるでアートのような……じゃなくて、僕は慌てて自分が来ていた血のついて擦り切れたワイシャツを脱ぎ、全裸の霧島に差し出した。

 恥ずかしがりながら僕のワイシャツに袖を通した霧島は、これがまたサイズがあってなくて、むしろ着てた方がエチィのではないかとすら思ったよ。

 


 「那木君、私はもう大丈夫よ……天城さんに凄く怖い思いをさせてしまったわ、早く行ってあげて!」

 


 僕の邪念などどこ吹く風、霧島は未だ倉庫の中で気を失っているだろう毘奈の安全を気遣った。

 調度そんなところに、高水さんも下りてきたようだ。



 「そうだよ、あの子なら無事だ、姉さんのことは私に任せて、早く行ってやんな!」

 「た……高水さん!? えーと、これは……その……」

 「心配すんな、よくわからねーが、姉さんのことは誰にも言ーやしないよ!」

 「は……はい、分かりました」



 そう言って、僕は霧島を高水さんに預けると、最後の力を振り絞って再び廃工場の二階へと向かおうとする。

 いや、待て。何か忘れているような気がする。そうだ、絶対にこれだけは霧島に伝えておかないと。

 僕は立ち止まって、霧島の方を振り返り言った。


 

 「霧島! 責任感じて勝手にいなくなったりすんなよ!! もしそんなことしたら、毘奈と一緒にお前の田舎に乗り込みに行くからな!!!」


 

 それを聞いた霧島は、ハッとしていたようだったが、すぐに穏やかな微笑みを返してくれた。

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