第16話:滅びし神
首筋に『止水ノ太刀』を受けた照雲の体は、歪に捻れたまま制御を失い、落下していった。
この高さから落ちれば命はない――が、地面に衝突する寸前で水竜の尾が照雲の下に滑り込み、衝撃を和らげた。
神宿りの面が音高く割れたが、そのおかげで照雲の頭は砕けずに済んだようだ。
水竜から滑り降りた影狼は、照雲がもう動かないことを確認した。
『終わった……のか?』
恐る恐る、幸成がつぶやく。不気味さも漂う強敵だっただけに、油断しているとまた動き出すんじゃないかと、気が気でないのだ。
影狼も息が整うまでの間、照雲から目が離せなかった。
そして長いため息とともに、その場にへたり込んだのだった。
『す……凄いぞ影狼!』緊張から解放され、幸成が子供のようにはしゃぎたてる。『勝ったよ! 勝っちゃったよ! あんな馬鹿みたいに強かった照雲に』
「もう……ダメかと思ってた」
つられて、影狼からも安堵の笑みがこぼれる。
『にしても、一体なんだったんだ? あの最後の一撃。お前神兵みたいな動きしてたぞ』
神速の剣に対する反撃の一刀。卓越した動体視力を持つ幸成ですら知覚できなかったその動きは、普段の影狼ではあり得ないはずのものだった。
「あんまり実感ないけど、『脱兎』って反応速度が上がる瞬間、身体能力も一緒に上がるみたいなんだ。多分あの一瞬だけ、オレは照雲の速さを上回れたんだと思う」
どれだけ反応速度が早くなろうと、身体能力が伴わなければ、到底照雲の剣はかわし切れなかっただろう。『脱兎』は思いがけない部分でも恩恵をもたらしていた。
ある意味、瞬間的に神兵になっているとも言えた。
勝利の余韻に浸るのもそこそこに、幸成は大事なことを思い出して声を上げた。
『そうだ! ゆっくりしてる時間はない。神兵がちゃんと止まってるか見に行かないと』
影狼たちが照雲の所へ来たのは、彼を叩けば神兵が止まると考えたからだ。
しかし推測はあくまでも推測。自分の目で確かめるまでは油断できない。
足早に、影狼が洞窟をあとにしようとした時――
「いいのですか? このまま私をここに置いて」
「!?」
口から心臓が飛び出すかのようだった。
驚いた勢いで影狼は体ごと振り向くが、照雲は倒れたままである。
だが、その目はじっと影狼を見つめている。
「そんな……首の気を断ったのにまだ意識が……?」
空虚な眼差しと生気のない表情のまま、照雲は口を動かす。
「あなたと戦い始めた時から、私はミシャグジを通して自分の体を動かしていました。神兵を操るのと同じです。元からこの体に私の意識はなかったのですよ。今は、ミシャグジの力で首から上を動かしているだけです。体の方は動きません」
「………」
「しかし気を付けてください。ミシャグジからもたらされる神気は、断たれた気の流れを修復し、すぐに体の方も動かせるようになるでしょう」
それがハッタリでないことは、影狼にもすぐに分かった。『止水ノ太刀』で足を斬られた時も、照雲は何事もなかったかのように動き続けていた。
「今のうちに、止めを刺しておくことを強くお勧めします」と、照雲は言う。「勝ったのはあなたですから、遠慮はいりません」
「……他に方法はないの?」
できるはずがない。影狼は自分の心に誓ったのだ。いかなる理由があろうと、人を殺めてはならぬと。そのために『止水ノ太刀』まで身に付けてきた。
「人を殺したくない――というような顔ですね」照雲もその心境を察してか、別の方法を提案する。「分かりました。では私の手にある
影狼は照雲のそばに落ちていた細身の剣を手に取った。
鍔はなく、柄と刃が一体になっている。これだけ激しい打ち合いをしたというのに、刃は少しも欠けていなかった。これも海猫と同じく、仙刀の類なのだろうか。
「これでもう神兵は動かなくなるんだね?」
「ええ。じきにミシャグジとの繋がりも切れ、私も完全に動けなくなるでしょう。ですがその前に……ひとつだけ教えてください」そこに照雲の魂はないはずなのに、その瞳には強い感情が宿っているように見えた。「あなたはなにのために戦っているのですか?」
「……!」
「父影虎の復讐を手助けしたいというのも、一つの理由でしょう。しかしあなたの戦いぶりを見ていると、また別の、大きな目的があるように感じるのです」
影狼はしばしの間、ためらうように黙り込んでいたが、やがて静かに言った。
「鴉天狗のことは知ってる?」
「もちろん。侵蝕人と呼ばれる、邪気に蝕まれた者たちのこと――そしてそれを保護する鴉天狗のことも聞き及んでいます。しかし確か、鴉天狗は幕府に反旗を翻して賊になったとか……」
幕府――正確に言えば、今や幕府は滅び、東国同盟がそれに取って代わっているのだが、影狼は構わずに話を続ける。
「オレも元々は鴉天狗の一員だった。オレがここで戦うのは、父さんを助けるためでもあるけど、鴉天狗の汚名を雪ぐためでもあるんだ。オレはこの戦いで、幕府からの信頼を勝ち取らなければならない。鴉天狗の仲間と侵蝕人たちが、元の暮らしに戻れるように」
「なにやら、複雑な事情があるようですね」と、照雲。「しかし、大体のことは分かりました。戦場の中にあって、殺生を厭うようなあなたの戦いぶりは歪に見えましたが、鴉天狗の者であるならば合点がいきます。命を重さを知るが故のことなのでしょう」
影狼の心情に理解を示しつつも、照雲は――
「ですが、ひとつ言わせていただきます。妖の性質を持つ侵蝕人は、そもそもが人とは相容れぬ存在。人の世で上手く生きていくことなど到底できません。鴉天狗のやっていたことは天の理から外れたことです。こうなるのも必然だったと言えましょう」
それは、影狼も痛いほど分かっていることだった。しかし照雲の考えにはうなずけない。
「鴉天狗は、確かに上手く行っていたとは言えないけど……鴉天狗のやって来たことが無駄だとは思わない。やり方はまずいところもあったかもしれないけど、侵蝕人はほんの少しの間だけでも、人並みに幸せに生きて行けてたと思う」
『……!』
影狼の言葉を聞いて、幸成は今は亡き母のことを思い浮かべた。
あんな最期がよかったとは決して思わない。母の命を終わらせた月光と、それをさせた鵺丸を恨めしく思ったことも何度あったか分からない。だがそれでも、鴉天狗で母と過ごせた日々はかけがえのないものであった。鴉天狗がなければ、侵蝕人は害獣や妖怪と同じように殺されるほかなかったのだ。
黙って話を聞く照雲。影狼は強い意志のこもった声で、訴えかけるように言った。
「そんなふうに、天の理だから仕方ないだとか最初っから決めつけてばかりじゃ、なにも始まらない。なにも前に進まないよ!」
しばし沈黙が流れ、水の滴る音だけが洞窟内に響いた。
それから照雲が、フッと柔らかな笑みを口元に浮かべて言った。
「やはりあなたには驚かされます。どうやら私の考え方は、もう古いのかもしれませんね」
魂はそこになく、作り物じみた笑みではある。目も笑っていない。
だが先程までのような、恐ろしい神のような気配はもう感じられなかった。
「少し、昔話をしましょう」
ミシャグジとの繋がりが薄れ、意識が遠のいているのか、静かな声で照雲は語り始めた。
今から四百年ほど前――日ノ本は二人の皇帝、二つの朝廷が並び立つ動乱の真っ只中にありました。
幾度も激しい戦いを繰り広げた両朝でしたが、多くの武士を味方に付けた北朝が次第に優勢になり、南朝は滅亡寸前にまで追い込まれました。
ところが、南朝はここから怒涛の反撃に出て、一気に形勢逆転してしまいます。
この大逆転劇の立役者となったのが、ミシャグジ神を祀る諏方神社の一門でした。
諏方神社には、古くから伝わる神降ろしの儀式がありました。現人神たる大祝が韴霊剣を手に舞を舞い、心身清らかな神使が太鼓を奏でれば、神宿りの面を被る者たちがミシャグジ神の力を得ることができました。
ミシャグジは弱きを淘汰する自然の神。かつては人の力の及ばぬものとして恐れられていましたが、諏方の一族――私の祖先はこの大いなる力に身を捧げ隷属することで、神の一族として繫栄してきました。
ミシャグジの力はあなたも身を以って知っていることでしょう。神の力を得た南朝軍は、数で大きく上回る敵を次々に撃ち破り、一時は北朝を降伏させることに成功しました。
しかし圧倒的劣勢を一瞬で覆してしまったミシャグジの力は、南朝側からも恐れられるようになりました。北朝の降伏から間もなくして、諏方神社は焼き討ちにされてしまいました。
焼き討ちには北朝側だった武士も大勢加わりました。諏方の一門は激しく抵抗し、戦いは丸一日続いたと伝えられています。しかし朝廷軍の包囲と矢の雨の中で神使も神兵も次々に力尽き、当時の大祝も炎に包まれた社の中で自害しました。
それから時が経ち、足利が南朝を滅ぼし、日ノ本を統一しました。
諏方神社の再建が許されたのはそのあとのことでしたが、神器やミシャグジ神の伝承は散逸していて、神降ろしの儀式のことも長いこと闇に葬られていました。
私は天照大神宮の祭主を歴任する牙門家の威光を借りて、諏方神社を再興しようと試みました。その甲斐あってか、かつてのミシャグジの力を蘇らせることができました。しかし結局、祖先と同じ運命を辿ることになってしまいましたね。
思えば南北朝の時代に諏方神社が滅ぼされたその時から、人が神に隷属する時代は終わりを迎えていたのかもしれません。あの時、人は確かに神の力を克服しました。そして今回も――
本当に恐ろしいのは、人間の方なのかもしれませんね。
* * *
主戦場から少し離れた林の中――
影虎の命を受けて神使を追っていた騎兵部隊は、まだ一人も神使を仕留められずにいた。
だが突然、逃げ回っていた神使たちが次々に転倒していった。
「そこまでだ! 大人しくしろ!」
「なんだこいつら、急に……」
倒れた神使たちは、足を押さえて苦悶のうめきを上げていた。
主戦場でも同じような変化が起きていた。
「ぐあぁあああ! 足がぁ!」
「ぎゃあああ! 腰がぁ!」
神兵と化していた者たちがことごとく地に倒れ伏し、面を付けたまま無様な悲鳴を上げている。限界を超えて動き回った反動が彼らを襲ったようであった。
五百人が一斉にこうなったのであるから、それはもう酷いありさまだった。
「へっ……どうやら、上手くやったみたいだな」
太鼓の音が止んでいることに気付き、影虎は口角を上げる。
自ら剣を取って戦っていた彼の服は血と泥にまみれていた。殲鬼隊に所属していた時も、これほどの死闘は経験したことがなかっただろう。
紋舞蘭、万次郎らの部下も満身創痍で、四千ほどいた兵は三千を下回るほどにすり減っていたが、みな意気軒昂で、突然差した光明に笑顔すら浮かべていた。
一方、牙門である。
「どういうことだ照雲! 私はお前の言う通りにしたぞ! これはどういうことだ!?」
完全に発狂していた。
彼を護衛していた五百の兵は一部の近臣を除き、ほぼすべてが神兵と化したが、それが一瞬にして立つこともできぬ負傷兵となったのだ。今や牙門は丸裸同然であった。
「川で待機している兵はどうした!? 早く加勢に来ぬか!」
「ギャーギャーうるせぇ。てめぇの負けだ牙門」
喚き続ける牙門の前に兵を引き連れて現れたのは、影虎だった。
「クズ野郎に相応しい、お粗末な最期になったな」影虎は冷淡に言い放った。「幕府を裏切り、オレの親父を裏切り、そして今日はオレとの約束も違えた。不義を重ね過ぎなんだよ。てめぇは。報いを受ける覚悟はあるか」
牙門はなにも言わない。
もはやどう転んでも助からないという絶望感。思い通りにならなかったことへの怒りとがないまぜになった、血が上っているのか引いているのか分からない形相で、影虎を睨みつけるばかりである。
「牙門様……ここは潔く……」
「黙れ……!」
近臣の一言にカッとなったのか、牙門はいきなり長刀を引き抜き、力任せに地面に付き立てた。だがすぐに、力なく地面に崩れ落ちてしまった。
「武器を捨てろ!」
すかさず、九鬼兵が投降を促す。
牙門の近臣たちには、主君のために果てる気概はなかったようだ。次々に武器を置いていった。
刀を地に突き立てたまま動かない牙門にも、声が掛かるが――
「おい牙門! 貴様もだ! 武器を――ぐわっ!?」
突如、牙門は刀を一閃し、近付いた九鬼兵を斬り殺してしまった。
身構える九鬼兵。しかし牙門は襲っては来なかった。
幽鬼のようにゆらりと立ち上がったかと思うと、クックックッ――と引きつったような不気味な笑声を漏らしたのだった。
「これは参った……私の負けだ。この首は貴様にくれてやろう。だがその前に、影虎。私と一つ賭けをしないか?」
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