第10話:求道者
「殿。晴賢の相手はどうかこの私に」
前日夜――軍議の場で、万次郎はそう申し出た。
柄にもなく選り好みする腹心を、影虎は不思議がった。
「どうした万次郎。やけにこだわるな。あの爺さんに恨みでもあるのか?」
「いえ。しかし、私は彼のことをよく知っています」熱い情念の光を瞳にたたえて、万次郎は言った。「なにせあの男は……私の剣の師匠のようなものですから」
抜群の攻撃力を持つ百武が攻め手に回るであろうことを、万次郎は読んでいた。影虎の別動隊に加わらずに南岸に留まったのは、そのためでもある。こうして二人の剣豪の対決は実現したのである。
「貴様は……昨日の……」
必殺の剣が防がれた時のことを思い出し、老将百武は敵愾心を燃え上がらせる。
だが万次郎の方は少し違っていた。
「お慕い申しておりました。我が師よ」
「!?」
唐突に師と呼ばれ、百武は困惑に眉をひそめる。
「なんのことだ? 儂は弟子を取った覚えなどないぞ。貴様のことも知らん」
「知らぬのも無理ないことです。私はあなたから直接剣を教わったわけではございません。しかし私は、あなたの斬鉄剣を見て剣を取りました」
百武の眉が、斬鉄剣の響きにピクリと反応する。
「三十年前……先代皇帝の御前で行われた試し斬り試合で、あなたは出場者の中で唯一鉄兜を両断してみせました。私は父の付き添いでその場に居合わせましたが、あれはまさに霹靂が如き一太刀――以来、その剣が私の目標となりました」
「……それで、その目標を超えに来たというわけか」
「このような巡り会わせは不本意ではございますが」
初めて、百武の顔に笑みのようなものが浮かんだ。
「儂を倒して名を上げようという輩は多くいたが、儂を勝手に師と仰ぐ輩は初めてだ。よかろう。貴様の剣が我が弟子と呼ぶに相応しいものかどうか、見極めさせてもらおう」
二人は向き合い正眼に構えると、互いに一歩踏み出した。
次の瞬間には、剣のぶつかり合う凄まじい音がして、両者は鍔迫り合いを始めた。
両者ともが必殺の一撃を叩きこもうとして、予想を超える敵の踏み込みの速さに虚を衝かれて断念したのである。
万次郎、百武それぞれが率いる鎧武者たちは、固唾を呑んで勝負の行方を見守る。
噛み合う刀が外れた瞬間、百武が小さな予備動作から再度打ち込む。
「あ゛あ゛――」
が、万次郎は瞬時に間合いを詰め、刀が勢いづく前に受け止めてみせた。
「
そして今度は万次郎が唸るような掛け声とともに刀を縦に一閃した。
「う゛う゛ん!」
その剣速は百武にも負けず劣らず、鉄兜を両断するに十分な勢いがあるかに見えた。
だが、百武はうなぎが手からすり抜けるかの如く、ぬらりとした動きで必殺の斬撃をかわしてしまったのだった。
「浅いな……その程度で我が剣を理解したつもりか? 儂は長年にわたって理に適った身体の使い方、刀の使い方を探求し続けてきた。阿吽の太刀はそれらすべてを結集したまさに究極の技。発声術は阿吽の太刀を阿吽の太刀たらしめるものの一つに過ぎぬ。貴様のはとても阿吽の太刀と呼べるものではない」
「………」
「だが、剣筋は悪くない。儂から直に教わることなくその域に達するとはたいしたものだ。貴様のその剣に、
「晴賢殿からそのようなお言葉がいただけるとは……光栄でございます」
「ふん、これしきのことで浮かれるな。貴様も武の道を極めんとする者ならば、己の至らなさを悔いよ」
「……肝に銘じておきます」
「さて、これで気は済んだろう。最後に阿吽の太刀のなんたるかを身を以て知れ」
空気が震えたように、万次郎には感じられた。
百武の顔から、わずかながら残っていた柔らかさが消え失せ、代わりに鬼神のような凄味が現れる。
刹那、百武の猛烈な斬撃が万次郎を襲った。
「あ゛あ゛ん!」
受け止めるにはもう遅い。万次郎は反射的に体を反らしてかわそうとしたが、それでも百武の刃は左肩をかすめ、甲冑に亀裂を走らせた。
わずかに血が滲むが、万次郎は構わずに反撃の一刀を叩き込む。
「う゛う゛ん!」
こちらも、刀で防ごうものならもろともに両断してしまうほどの剣勢であったが、百武はぬっと剣の下を潜り抜け、また一振り。
「あ゛あ゛ん!」
「ぬうん!」
万次郎も負けじとやり返す。阿吽の太刀と云々の太刀の激しい応酬がしばし繰り広げられた。
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打ってはかわし、打ってはかわす。互いに防御不能の必殺の剣を持つがゆえの真っ向勝負。
体捌き、斬撃の鋭さ……どれを取っても技の精度は百武が数枚上手。だがどういうわけか、最初に一太刀浴びせてからは百武の斬撃は一向に万次郎を捉える気配がなかった。そしてついに――
万次郎の太刀が、さっきの仕返しとばかりに左肩をかすめた。
「あ゛あ゛ん!?」
肩を拭った手に血がこびりついているのを見て、百武は解せぬといった風な声を上げる。
万次郎の剣速が特別速くなったわけでもない。百武の動きが鈍ったわけでもない。体力の消耗を最小限に抑えた彼の歩法ならば、老いた体などなんの枷にもならないはずだった。
「くっ……抜かったか。だが二度はないぞ!」
原因を己の集中力の欠如と決めつけて、百武は再度打ちかかる。
だが、当たらない。かわせない。百武の鎧にばかり、傷が増えていく。
―――なぜだ……なぜ勝てぬ!? この儂がこんな若輩者に……!
苦渋に顔を歪める百武。その脳裏に呼び起こされるのは、過ぎ去りし殲鬼隊時代の記憶だった。
およそ二十年にも及ぶ長い殲鬼隊活動の中で、百武は一度だけ阿吽の太刀を以ってしても斬れぬ妖怪に出くわしたことがあった。
窮地に陥ったところに現れたのが、
近藤は百武ですら刃が立たなかった妖怪を、ものの数秒でバラバラに解体してしまった。その妖怪は丈夫な甲羅に覆われていたが、動いた時に一瞬生じる関節の隙間に、近藤は刀を巧みに滑り込ませたのである。
そして無様に這いつくばる百武に言ったのだった。
「お前は自分の剣に固執し過ぎだ。なるほど阿吽の太刀は比類なき剛剣だが、隙が大きい上に太刀筋も単純で読まれやすい。そんなものは実戦ではほとんど役に立たぬ。やはりお前は――殲鬼隊には向かぬようだ」
彼から見れば若輩であった隊長の言葉を、百武は素直に受け入れられなかった。
それから百武はこの時の屈辱を糧に、さらに阿吽の太刀に磨きをかけた。斬れなかったあの妖怪をも一刀両断できるほどにまで――
「ふざけるな! 儂の剣は完璧だ! こんな……こんな二流の剣に負けるはずがない!」
心の内に秘めていた激情が、絶叫となってほとばしる。
「あ゛あ゛――」
「う゛ん!」
だが、全身全霊を込めた渾身の一撃も、万次郎には届かない。それどころか、刀を振りかぶった一瞬の隙を突かれて、脇腹を斬り裂かれた。決して大きな隙ではなかったが、完全に読まれていた。その上、万次郎の剣は百武の剣よりも早かったのだ。
「確かに、私の剣の腕はあなたには遠く及びません。流石は我が師。かつて私を魅了した剣は今なお健在……いや、それどころか威力はさらに増しているようにも思える」
師と仰ぐ百武に敬意を払いつつも、万次郎は毅然と言ってのける。
「しかし勝ちは譲りませぬ。私はあなたの剣を基本としながらも、実戦の場で独自に剣を極めて参りました。影虎様の力となるべく――――私の剣は、勝つための剣でござる」
「……!」
実戦において、自分の思い通りに行くことはほとんどない。力の強い者が勝つとも限らぬし、大軍が寡兵に敗れることもある。技の優劣とて同じことである。
どれだけ阿吽の太刀を極めたところで、当たらなければ意味がない。そして凡百の敵ならばいざ知らず、攻撃前後の隙は万次郎ほどの者が相手となれば致命的な弱点となり得る。
対して万次郎は、この弱点を克服するため、剣の速さを諦めて早さを取った。剣の出の早さにおいてだけは、百武よりも優れているのだ。さらには敵の弱点を見抜く観察眼もある。勝つための駆け引きというものを、万次郎はよく心得ていた。
勝つために努力を続けた者と、勝ちよりも技を極めることにこだわり続けた者。
剣の流派は同じでも、両者の立つ土俵はまったく異なっていた。
そしてここは戦場――万次郎の土俵である。
「勝つための剣か……気に食わぬな」口惜しげに、百武は言った。「気に食わぬが認めてやろう。貴様も儂と同じく――武の極みに達した男であるということを」
「!」
「来い万次郎! 勝つための剣というのなら、この儂を斃して証明してみせよ!」
阿吽の太刀の構えで、百武は万次郎を待ち受ける。
この期に及んでもまだ真っ向勝負をするつもりらしい。
師からただならぬ覚悟を感じ取りながら、万次郎は息を整え、正面から斬りかかった。
そのままの阿吽の太刀では勝ち続けるのが難しいということは、分かりきったことである。
しかしそれでも、百武は我道を貫き続けた。
追い求めたのはこの世のすべてを斬り裂く究極の剣。愚直に技を極め続けたその先に、百武は勝利を夢見たのである。
むろん、命尽きるその時まで、己の道を曲げるつもりはなかった。
「あ゛あ゛ん!」
「ぬん!」
万次郎の剣が、袈裟掛けに百武の体を斬り裂く。
血を噴き上げながら倒れ行く百武。だがその顔に後悔の色はなく、すべてを出し切った者にのみ許される安らかな表情が浮かんでいた。
「百武晴賢……我が師よ。最後まであっぱれでござった」
一言だけ言い残し、万次郎は先へと進む。
戦の勝利のために、今は立ち止まるわけにはいかなかった。
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