第9話:天意
「早速お出ましか……」
影虎が苦々しげに呟いた。
牙門を取り囲む陣列の中で、白い影が蠢いている。
両刃の剣に白装束と鬼の面――飛び跳ねるような軽快な足取りで影虎隊に迫り来るのは、神兵であった。その数およそ百。
「勝ち急いだな影虎。開戦早々王手をかけたつもりだろうが、それはこちらとて同じこと。そして我が軍の主力はあくまでもこの神兵だ」牙門は嗤った。「貴様が死ねばこの戦は終わりだ」
「上等だ!」
脅威であるには違いない――が、牙門の本陣に神兵がいるのは影虎も織り込み済みである。
ここに連れてきたのは神兵に抗しうる選りすぐりの戦力。戦う準備はできている。
「後衛は鉄砲隊を近寄らせないようにしろ! 他は全員下馬だ!」
影虎の号令で、前の二百人が一斉に馬から降りた。影狼、蘭、そして影虎自身も徒歩になる。
馬の足は速いが、あらゆる方向から機敏に仕掛けてくる神兵の動きには対応できない。影虎らは一番信頼できる自分の足で戦うことを選んだのだ。
「斬り進め!」
薙刀を手に前進する影虎隊。血に飢えた獣のように群がる神兵。
牙門本陣前はたちまちのうちに乱戦状態となった。
「な……なんだあいつらは!? 我らが神兵と互角に……」
影虎軍の凄まじい奮闘ぶりに牙門兵は絶句する。
中でもやはり三人の力は突出していた。
影虎は地を這うような体捌きで敵の攻撃をいなしては、一撃で首を刎ねていく。
薙刀を振るう蘭は鉄壁の守りで、複数体の神兵を相手取ってもまったく隙がない。
影狼は危うい場面が幾度もあったが、その度に神懸かりな反応を見せて反撃の一閃を急所に叩き込んだ。
「押されているぞ」
その様子を眺めていた牙門が不満げに言った。
圧倒的優勢は揺るがない――が、あえなく撃退された昨日のことと言い、神兵が期待通りの戦果を挙げられていないことに少々怒りを覚えているようだ。
「いえ、敵の前進は止まりませんが……損害が出ているのは敵の方です。彼らが全滅するのは時間の問題でしょう」主君のそばに控える照雲は、乱戦の模様を冷静に見つめていた。「しかし、このまま敵が本陣に到達すれば同士討ちが起こる恐れが……」
「問題ない。続けろ」
いささかのためらいもなく、それどころか酷薄な笑みすら浮かべながら牙門は命令を下した。
照雲の言葉通り、影虎隊は大きな損害を出しながらも着実に前進を続けた。
精鋭中の精鋭とは言え、神兵と一対一で渡り合える者は数えるほどしかいない。大将の影虎をはじめとする強者が危険を覚悟で先陣を切って、ようやくここまで進んできたのである。
「もう本陣だ!」
「うおぉおおお! 殿に続けぇ!」
牙門本陣の陣列に突入する薙刀武士たち。すでに満身創痍の者も、影虎に置いて行かれまいと邁進する。敵陣の中に入ってしまえば、かえって敵兵が肉壁となって神兵との交戦が避けられるはずであったが……神兵はその頭上を越えて、なおも追ってきた。
「な……なんだこいつら!? 味方もろとも……!」
神兵によって斬り刻まれていく人たち。その中には牙門兵も少なからず含まれていた。いや――練度で劣る分、むしろ牙門兵の方が血を流していたのかもしれない。
「やっぱりだ」影虎は言った。「こいつらには人の意識がない。敵味方を識別できてねぇんだ」
影虎隊に群がっていることから、神兵はある程度は攻撃対象が絞れているようだ。しかしそれは敵味方を見分けているわけではなく、例えば術者の指定した場所を攻撃対象とし、その場にいる者を見境なく斬り刻んでいるだけなのかもしれない。
至る所から血飛沫が上がり、悲鳴が上がり、どちらが優勢なのかも分からない。
それはさながら地獄絵図であった。
「なにを怯むか! 逃げる者がいれば殺せ!」そう言ったのは牙門である。「敵の大将がすぐそこにいるではないか! 神兵に斬り刻まれたくなかったら、さっさと影虎を討て!」
その一声で、牙門軍は奮起した。恐怖に震えた喊声を上げて、獣のように影虎隊に殺到する。
依然として牙門軍が優位に立っていたこの状況で敵が死兵と化したのは、影虎にははなはだ意外なことであった。影虎隊の勢いはそこで止まり、押し返され始める。
そんな中でも、一人だけ前進を続ける者がいた。
敵に槍を振るう暇も剣を抜く暇も与えず、持ち前の速さで敵陣深くまで突き進んでいく。
『出過ぎだ影狼! 今すぐ戻れ!』
「嫌だ! こんなこと、早くやめさせないと!」
影狼であった。幸成の制止にもまったく聞く耳を持たない。
『!』
再度、強く言って聞かせようとした幸成だが、周囲を見渡してあることに気付いた。
あれほどしつこくまとわりついてきた神兵が、今はまったく姿を見せないのである。
―――そうか! 味方から離れ過ぎたから、神兵の攻撃対象から外れたんだ……!
まさか影狼はこれを狙っていたわけではないだろう。しかし合点がいった幸成は、
『分かったよ影狼……無茶が過ぎるが、これはそういう戦いだったな』
牙門は影虎たちが押し返されたのを見て、機嫌がよくなっていた。
「影虎も終わったな」
「ええ。神兵がここまで手こずったのは不本意でしたが……」
そう漏らす照雲に、牙門は一つ聞く。その手には護符のようなものが握られている。
「なぜ兵たちに
「はい。しかし霊石は天岩戸近辺でしか採れない希少な石。本陣兵千人に渡すだけでも、あっという間になくなってしまいます。それよりも神宿りの面を多めに作って、神兵の数を揃えた方がよろしいかと」
「確かにそうだな。同士討ちを避けるためだけに持たせるのはもったいない」
と、二人が話している間に戦況はまた変化を見せた。
影虎隊がまた勢いを取り戻したのである。
「ふん、役立たずどもめ。いっそのこと全軍神兵にしてしまおうか」
冗談とも本気ともつかぬ恐ろしいことを言ってのける牙門。
兵たちのざわめきが牙門の耳に飛び込んできたのは、その時だった。
「ああ、牙門様!」
慌てたようなその声に牙門が振り向くと、どこから現れたのか、栗色の髪の少年が小太刀を振るって、まさに牙門に斬りかかろうとするところであった。
ガキィイン!
少年の小太刀は、鏡のような光沢を持つ直剣に止められた。
「またあなたですか……」
小太刀を受け止めた照雲が、怪訝そうな顔で言う。
その少年とは、昨日も一度だけ刃を交えたことがあった。昨日は神使に、そして今、大将の牙門にあと少しのところまで迫った。もはや照雲は、その少年の存在を無視できなくなっていた。そして不思議と、己に近しいものを感じたのである。
「ほう……面白い奴だ。単独でここまで来るとは」牙門も少年に興味を示した。「照雲、そなたは神兵の方に集中しろ。こやつは私がやる」
「恐れながら……それはできませぬ」
「!」
牙門は、照雲の視線が前線の方に向けられていることに気付いた。
そしてそこには――
「お、お逃げください牙門様! 敵がすぐそこまで――ギャア!」
斥候兵を斬り倒して現れたのは影虎と、腹心の蘭であった。
返り血を浴びて赤に染まった服が、激しい乱戦の中を潜り抜けてきたことを物語っている。他に従う者は十人もおらず、ほとんどの兵を置き去りにしてここまで進んだようである。
「終わりだ牙門!」
叫ぶとともに影虎は馬上の牙門めがけて必殺の一撃を叩き込む。
が、牙門は巧みに馬を操り、寸でのところで回避した。
そこへ間髪入れずに、蘭がもう一撃。しかしこれも、素早く抜き放たれた長剣に弾かれた。続けて蘭は一合、二合と打ち合ったが、反撃の一刀で上腕を斬られて後ずさった。
「蘭!」
浅い傷ではあるが、殲鬼隊の中でも定評のあった蘭の守りが、いともたやすく破られたことに影虎は驚いた。
「私が家柄に恵まれただけの凡庸な男だとでも思ったか?」と、牙門。「大名という身分ゆえに殲鬼隊への召集はなかったが、我が剣力は伊勢国随一。陸に上がった海賊風情など敵ではない」
「ほざけ!」影虎が吠えた。「陸に上がったからなんだ? 船の上でも陸の上でも、斬り合いこそがオレたち九鬼の真骨頂だ! これからは山賊と呼んでくれてもいいぜ。あの世でな!」
牙門は苦笑した。どうやら威勢の張り合いでは影虎に敵いそうもない。
そこで彼は、別の切り口で揺さぶりをかけることにした。
「影虎よ、強がるのはいいが、そもそもこの戦になんの意味がある? この八年の間、志摩は我が支配の下で安定し、戦もなかった。今、その平穏を掻き乱しているのは間違いなく貴様だ」
「っ……!」
「復讐のためか? ククク……復讐ほど無意味で愚かしいことはない。九鬼が滅ぼされたのは、強きが弱きを喰らったに過ぎない。これは自然の摂理――すなわち天意なのだ」
その言葉は影虎に向けられたものであったが、照雲と刀を交えていた影狼も自分のことのように感じ、後ろめたい気分になった。
志摩への遠征は父を助けるためなのはもちろんだが、鴉天狗の再興のため、自身の幕府内での立場を強めようという狙いもあった。影狼が戦場に行くことで救われるものがあると、師の柳斎は勇気付けてくれたが、戦に加担しているのは紛れもない事実である。
牙門はしたり顔になって、なおも弁を振るっている。
「貴様は運命を受け入れて、前に進むべきだった。だが貴様は最も愚かな道を選んだ。他にいくらでも道があったろうに、復讐にこだわったがゆえにこの八年間を無駄にした。この戦は――誰も得をしない、無意味な戦だ」
だが影虎の心は微塵も揺るがなかった。怒りに身を震わせながらも、静かに言った。
「今、やっと踏ん切りがついた」
「……?」
「人の大事なものを散々奪っておきながら、いざやり返されると正義面をする――てめぇみてぇなクズ野郎はやっぱり生かしちゃおけねぇ!」
クズ野郎と断じられて、牙門は目の色を変えた。影虎はその目に焼き付けよとばかりに、剣を前に突き出す。
「復讐が無意味なんてのは、復讐をせずとも悪党が正しく罰せられていた平和な世の理屈だ。今は乱世。仇は自分の手で討つ。オレが天誅を下してやる!」
影狼は鬱屈した顔で掛け合いを見守っていたが、父の言葉で気力を取り戻したようだった。
『やっぱり強いな……お前の父さんは』
「うん」
『影狼……お前もこの時のために、わざわざ相手を傷付けない術まで身に付けてきたんだ。もっと胸を張れ』
影狼はもう一度、強くうなずいた。
舌戦が中断され、沈黙の中で宿敵二人の殺気が膨れ上がっていく。
と、そこへ――誰が呼び寄せたのだろうか、六体の神兵が割って入った。
「牙門様、お下がりください。三人とも私が引き受けます」
照雲が言うと、牙門は苛立ちを含んだ声で拒絶した。
「馬鹿を言うな。私にも戦わせろ。影虎だけはこの手で斬り刻んでやらねば気が済まぬ。護符もあるのだから問題なかろう」
「なりませぬ」主君の逆鱗に触れながらも、照雲は頑として引き下がらない。「護符などなくとも、私は神兵と違って敵味方を間違えることはありません。ですが――味方を巻き込まないとも限りませんので……」
その瞬間、コオオッという冷気が吹きつけて来たように、影狼には感じられた。
それは初めて海を見た時に感じた恐れに似ていた。大自然の雄大さを目の当たりにして、己の存在が取るに足らぬものであることを思い知る――そんな感覚である。
神兵からも、少なからずこのような気は感じられた。だが男から発せられる気はその比ではない。いや、そもそも今まで神兵から感じられた気も、すべてこの男のものだったのではとすら思えてくる。
これには主君の牙門でさえも、たじろいだように見えた。
「……分かった。だが影虎はなるべく生け捕りにしろ」
「仰せの通りに」
照雲を残し、牙門は奥へと退避する。
その時、対岸の方から大きな喊声が上がった。
なにが起きているのか、ここからでは分からない。だが牙門は――
「フフ……こうして貴様が手こずっている間にも、戦況は刻一刻と変化している。向こうには百武がいる。その強さは殲鬼隊にいた者ならば誰もが知っていよう。今頃、敵将の一人くらいは討ち取っているかもしれんぞ」
* * *
南岸に残った九鬼軍は、倍以上の兵力で押し寄せる敵軍に対し、方円の陣で防戦していた。
前面は牙門軍と銃撃戦を繰り広げた相模兵がそのまま受け持ち、後背は駿河兵が固めた。
この圧倒的不利の状況では、経験豊富な相模兵はこの上なく頼もしい存在であった。敵の攻勢の大部分を引き受けながらも、心折れることなく手堅く戦った。
だが、不意にその防陣の一角が崩れ立った。
敵勢の中で突出してきた部隊があったのだ。一人一人が武将のような重厚な甲冑を着込んでいて、相模兵を斬り殺しながら淡々と押し進んでいく。
「来たか……」
中央で指揮を執っていた万次郎が、その様子を眺めながらつぶやく。
万次郎は待っていた。あの男が現れる瞬間を。
そして標的を見つけるや否や、わずかな部下だけを連れてその場所へと向かった。
「あ゛あ゛ん!」
唸るような声とともに、胴を両断された相模兵の骸が弾け飛ぶ。
数多の戦を戦い抜いた相模兵も、この異様な集団を前にして心が折れてしまったようだった。特に先頭を行く老人の強さは常軌を逸している。腕に覚えのある者がすでに何人か挑みかかったが、いずれも武器もろとも両断されて、無惨な屍をさらすことになった。
「次は……どいつだ?」
問いかけに応じる者は誰もいない。誰も前に立とうとしない。
つまらぬとばかりに鼻を鳴らし、老人はまた一歩踏み出す。だがその時、老人はふとあるものを目に留めて眉をひそめた。
赤銅色の古風な鎧を身にまとった集団が、こちらに向かってくるのが見えたのだ。
その中の一人に、老人は見覚えがあった。主君から聞いたその名は喜利万次郎。
「百武晴賢殿とお見受けする。お相手願おう」
「………」
老人の眉間の皺がさらに深くなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます