王妃様はお姉様に進化する6


 マーラント伯爵家の別荘で昼食のテーブルを囲んでから、ヴォルフ皇帝レベッカは早々に帰途に着いた。

 途中でエレメンス王国の城を訪ねて、ジルと話をするらしい。

 今後の二人のこと、ヴォルフ帝国とエレメンス王国のこと、そして――やがて生まれてくる子供のことを。

 レベッカを見送って早々、ウルとマイリも王都に向けて出発する。

 マイリは猫悪魔ドンロとともに、ウルの母と散々別れを惜しんでから、見送りに立った彼女が砂粒ほどの大きさになるまで窓から身を乗り出して手を振っていたが……


「――しまった」


 はたと気づいた様子でウルを振り返った。


「よいおねえさんになるにはどうすればよいのか、レベッカに聞くのをわすれたぞ」

「そういえば、お前はそのためについてきたんだったな……」


 そもそもの目的を果たせていなかったことに気づき、マイリはがっかりした様子でため息を吐く。

 ウルは馬車の窓を閉めて彼女を座席に座り直させると、風に吹かれて乱れに乱れたブロンドの髪を手櫛で整えてやりながら提案した。


「では、姉の心得は、やはりアシェラに聞きに行こうじゃないか」

「たわけ。母はならんと言うたであろうが。何度も言わせるでないわ」


 とたんに、マイリのただでさえぷくぷくのほっぺが、さらにぷくっと膨れる。

 ウルはそれを人差し指で突っつきつつ、そのことだがな、と続けた。


「マイリ、お前……フェルデン家に戻らないのは、本当にアシェラの体調のせいだけか?」

「なっ……なな、なにを申すか……」


 とたんに目を泳がせ始めたマイリを、向かい合わせになるよう膝の上に抱き上げる。

 すると、なんとも珍しいことに、彼女は借りてきた猫のようになってしまった。

 隣に座ったドンロが、気遣わしげに二人の顔を見比べている。

 ウルはマイリを両腕で包み込むようにして、そのブロンドの頭頂部に顎を乗せると、ささやかな声で問うた。


「もしかして――弟か妹に妬いているのか?」

「……っ」


 図星だったのだろう。ウルの腕の中のちっちゃな身体が強張る。

 かと思ったら、マイリがいきなりバッと顔を上げた。

 必然的に顎を突き上げられて呻くウルに、掴みかかるようにして叫ぶ。


「わらわっ、おねえさんになるのが楽しみなのは、ウソではない! 弟か妹ができるのがうれしいのも、本当に本当なんじゃっ!!」

「いてて……そ、そうか……」

「けどな? だけどな? 時たま……ほんとーの、ほんとーに、たまにだけなんじゃが……胸が、チクチクすることがある……」

「マイリ……」


 マイリが、弟か妹ができるのを心から嬉しいと思っているのは疑うべくもない。

 だがそれと並行して、下の兄弟に母をとられてしまうような感覚も覚えてしまうのも仕方のないことだろう。

 マイリがアシェラを母として慕っているが故であり、それを責める者など誰もいないし――万が一にもそんな者がいたとしたら、ウルが許さない。


「ウル……わらわ、おねえさん失格か……?」

「そんなわけないだろ」


 いつになく覇気のないマイリの言葉を、ウルはきっぱりと否定してやる。

 それから、自分の胸に片手を当てて言った。


「お前の胸がチクチクするとな。俺の胸も、チクチクする」

「ウルもか? 胸が、いたいのか?」


 慌てて胸を撫でてくるちっちゃな手に目を細めつつ、ウルはさらに続ける。


「マイリが悲しいと、俺も悲しい」

「……なぜじゃ?」

「そんなの、お前が大事だからに決まってるだろ」

「う、うむ……」


 大きな菫色の瞳がぱちくりして、ウルを見つめてくる。

 そのひたむきさに目を奪われながらも、彼は声を落ち着かせて言った。

 

「アシェラも、俺と同じ気持ちだろうよ。だいたいあのアシェラが、我が子が何を考えているのかまったく気づいていないと思うか?」

「……思わん。母は、聡い人間じゃし……それに、わらわのことをうんと愛しておるからな」

「だろう? きっと今頃、アシェラも胸がチクチクしているんじゃないか?」

「それは……いかん。ただでさえつわりでしんどいというのに、母がかわいそうじゃ」


 マイリが弟や妹ができるのを喜んでいることも、母を慮って家に帰っていないことも、弟や妹に嫉妬を覚えてしまうことも、アシェラはきっと全部分かっているだろう。

 だが、それでも……


「せっかく、今代の器は俺以外の人間とも言葉が交わせるんだ。自分の気持ちは、ちゃんと自分の口から伝えるといい」


 ウルの父がヴィンセント国王であった時代、マイリは猫を器にしていた。

 その頃にたくさん可愛がってくれたウルの母に対し、猫の身では十分に愛情を返せなかったという後悔があるのだろう。

 だからこそ、人間の器を得た今、彼女はウルの母に対してあまりにも甲斐甲斐しい。

 人智の及ばぬ存在でありながら、マイリは時に献身的なほどに、人間に対して愛情を尽くそうとする。

 そうして、ウルはそんな彼女に愛されていると自覚する度――同じだけの、いやもっとずっと大きな想いを返したいと思うのだった。


「ウルも……一緒にきてほしい……」

 

 ウルの胸元のクラバットを両手で弄りながらもじもじして言うのに、否などと答えるはずもない。

 ウルはマイリを膝に抱いたまま、馬車の窓を開けて御者台へと声をかけた。


「ケット、城に帰る前にフェルデン公爵邸に立ち寄るぞ」

「御意」




 ***




 レベッカとジルの婚約が正式に発表されたのは、前者がヴィンセント王国を訪れて一月してからのことだった。

 もちろん、国家君主同士の結婚や、週末婚なる前例のない結婚形式に難色を示す者も少なくはなかったが、そんな中、ヴォルフ帝国とエレメンス王国で彼らの結婚を後押しするような奇跡が起こったのである。

 なんでも、両国では自生していない青い花が、ヴォルフ城の湖とエレメンス城に隣接する神殿の庭にて一斉に咲いたらしいのだ。

 まるで青い絨毯を敷いたように見えたというそれは、レベッカがヴィンセント王国を訪れたあの日、マーラント伯爵家別荘の湖のほとりを彩っていたブルーベルの花だった。

 時を同じくして、虫の息だった前エレメンス国王が、まるで神から恩赦を与えられたかのように快復した。

 憑き物が取れたみたいに慎ましくなった前エレメンス国王は玉座をジルに明け渡し、同じく死を免れた妾親子とともに王都から離れた別荘へ移り住んだという話だ。

 加えてウルが、レベッカとジルを知る王立学校時代の級友達に、彼らの結婚に賛同するよう働きかけたことも大きい。

 君主同士の結婚に難色を示していた連中も、大陸中の王侯貴族から集まった二人への祝福を無下にはできなかった。

 そうして、結婚式の日取りも決まった頃、ヴィンセント王国のフェルデン公爵家からもめでたい知らせがもたらされた。

 アシェラが、無事赤子を出産したのである。

 夜中に産気づいて、夜明けとともに産声が上がったと聞いたウルとマイリは、朝食も取らずに馬車に飛び乗った。

 マイリの喜びようはそれはそれは凄まじく、馬車の中でも飛び跳ねそうになるのを宥めるのにウルは苦労した。

 誕生したのは男の赤子――マイリに弟ができたのだ。

 彼女もこの二月前に誕生日を迎え、五歳になっていた。


「ウル……わらわ、ついに! ほんとうに! おねえさんになってしまったぞ!!」

「ああ、そうだな――おめでとう、マイリ」

「うむ! ウルも、おめでとう、じゃ!!」

「ん? 俺もか?」


 首を傾げるウルに、同じように首を傾げたマイリが当たり前のように言う。


「何をほうけた顔をしておる? わらわの弟ということは、当然ウルの弟でもあるんじゃぞ。おぬしも、〝おにいさん〟になったんじゃ!」

「ああ、そう……そうか……」


 ウルは一人っ子で、父がすでに亡くなっていることもあり、今後兄弟ができる予定などないと思っていた。

 だから、こんな風に家族が増えるとは考えたこともなかったのだ。


「そうか、俺が〝おにいさん〟か……」


 とたんに胸に突き上げるような感動を覚え、不覚にも手が震えた。

 それを、ちっちゃくてふくふくの手が握ってくる。


「ウル、手をつないでいてくれんか。わらわ……なんだか、緊張してきた……」

「ああ……」


 マイリからドキドキが伝わってくる。温もりも伝わってくる。

 このちっちゃくてふくふくの手が、これからもまたどれほどの幸福をウルにもたらすのだろうか。

 馬車の窓から差し込む朝日に、マイリのブロンドの髪がキラキラと輝く。

 眩しくて、愛おしくて、ウルはたまらず目を細めた。

 




 隔世遺伝だろうか。

 マイリの弟の髪は、祖父であるフェルデン公爵と同じ黒い色をしていた。


「かわゆい……」


 藤のカゴに寝かされた赤子をうっとりと眺め、マイリが感嘆のため息とともに呟く。

 鬼畜顔の守衛やあらゆる愛らしさを魔界に置いてきたような猫悪魔を可愛いと評するマイリとは、常々美的感覚にズレがあると考えていたウルだったが……


「かわいいな……」


 この時ばかりは、二人の意見は完全に一致した。


「マイリもウルも、眺めるばかりじゃなくて、だっこしてみたら?」


 夢中で赤子を見つめている彼らに苦笑したアシェラが、そう提案する。

 今日ばかりは、憎き娘婿に対する母の眼差しも柔らかだった。

 マイリがおそるおそる、それこそ宝物みたいに大事そうに赤子を抱き上げる。

 さりげなくその後ろから手を添えたウルの幼馴染も、今日ばかりは一端の父親の顔をしていた。


「ごきげんよう、わらわの弟……ああ、かわゆいのぅ……」


 まだ幼い姉が、生まれたばかりの弟の額にさも愛おしげに口付けを落とす様は、なんとも言えず尊いものがあった。

 ロッツもアシェラも、祖父母であるフェルデン公爵夫妻も、もちろんウルだって、思わず言葉を失って見入ってしまうほどに。

 見えているのかどうかは分からないが、赤子も薄らと瞼を開けて自分を抱く小さな姉を見上げている。

 その瞳は、マイリと、ロッツと、そしてまたフェルデン公爵とも同じ菫色をしていた。

 ところが、ウルが目の前の光景に見惚れていられたのもここまでだった。

 ふいに顔を上げたマイリが、彼に向かって赤子を差し出す素振りをしたからだ。


「ほれ、ウルもだっこしてみろ」

「いや、ほれって言われてもな……」

「大丈夫じゃ。わらわが手をそえてやるから、こわくないぞ?」

「いやいやいや、さすがに俺は遠慮し……」


 まだ首も据わっていない生まれたての赤子をだっこするなんて、ウルにとっては冬眠明けの熊と素手で殴り合う以上に恐ろしいことだ。

 しかし、マイリの押しと、娘の好意を無下にしたら貴様目にもの見せてやると言いたげなアシェラの視線には勝てない。


「……お言葉に甘えて」


 しばしの逡巡の後、観念したウルが赤子を受け取ろうと両手を差し出した時だった。 

 薄く開いた瞼の隙間できょろりと菫色の瞳が動き、彼を捉える。

 そうして、目が合ったかと思ったら……




『気安く触れるでないわ、若造』




 赤子がいきなり、しゃべったのである。

 頭の中に直接話しかけてくる系の声で。


「――は?」

「おお、なんと! わらわとウルの弟は、もうおしゃべりできるのか!? 天才じゃな!!」


 ウルは当然ぽかんとし、マイリははしゃいだ声を上げて、今度は赤子の頬に口付けた。

 しかし、二人以外に赤子の声は聞こえていないらしく、フェルデン公爵家の面々はきょとんとした顔をしている。

 ウルとて、生まれたての赤子がしゃべっただなんて、気のせいだと思いたかったが……


『そこな人間よ。おぬし、わしの声が聞こえておるな?』

「わしって……お前、生後ゼロ日目からその一人称でいくつもりか?」

『お前とはなんだ、この無礼者が。口を慎め。おぬし、わしを誰だと思うておる』

「……いや、存じ上げませんけど……どちら様で?」


 小さな姉のキスが満更でもなさそうな赤子が、ふんすふんすと鼻息を荒げてガンガン話しかけてくるのである。

 赤子から大仰に文句を言われたウルは、思わず敬語になる。

 そんな彼に、相手はさらにとんでもない言葉を続けたのだった。



『聞いて驚け。わしは、魔界の主――偉大なる魔王であるぞ』

「――はぁ!?」



 素っ頓狂な声を上げたウルに、赤子の声が聞こえていない他の面々――若かりし頃、うっかり魔界に迷い込んで魔王の右腕として働いた経験がある、などと噂されるフェルデン公爵までもが訝しい顔をする。

 そうして、唯一ウルの気持ちが分かってくれるはずのちっちゃな彼の妃は、にこにこと、それはそれは愛らしい笑顔で言った。



「しかし、弟よ! おぬし――声はおっさんじゃな!」









『第八話 王妃様はお姉様に進化する』おわり

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