第八話

王妃様はお姉様に進化する1


 柔らかな日の光が反射して、風に揺れる新緑はキラキラと輝いていた。

 視界の端に入ったそれに眩しそうに目を細めつつ、サインをした書類を処理済みの山に加えたのは、第百代ヴィンセント国王ウル。

 かすかに覚えた疲労を払拭するように肩を回し、次の書類に手をかけようとしてふと、彼は窓辺に目を遣った。

 開け放した掃き出し窓の向こうには、同じくらいの大きさの背中が二つ並んでいる。

 一つは黒い毛並みの猫――ではなく、猫っぽい悪魔ドンロの背中だ。コウモリみたいな羽根と、二つに分かれた尻尾がゆらゆらと揺れている。

 そうしてもう一つ――ブロンドの髪に覆われた後頭部と、専属のお針子が縫ったワンピースの大きなリボンが付いた背中を向けているのが、第百代ヴィンセント王妃マイリである。

 耳を澄ませば、ドンロの肩を抱いたマイリのご機嫌な声が聞こえてきた。


「のう、ドンロ。知っておるか?」

「んあーん」

「聞いておどろけ? わらわな、実はな……もうすぐ〝おねえさん〟になるんじゃ!」

「なうー」


 マイリの母であり、ウルの幼馴染ロッツの妻であるアシェラ。

 そのお腹に新しい命が宿っているとウル達が知らされたのは、もう一月も前のことである。

 あの時のマイリの喜びようを思い出すと、ウルの頬も自然と緩んだ。

 壁掛け時計に目をやれば、間もなく午後三時――お茶の時間である。

 ウルは新たな書類に取り掛かるのをやめて椅子から立ち上がると、ベランダに並んだちっちゃな背中に声を掛けた。


「マイリ、休憩にするぞ。茶でも飲むか」

「――お茶なら、わらわがいれてやろう!」


 とたんに振り返ってぴょんと立ち上がったマイリが、ぱたぱたと駆け寄ってくる。

 大きく伸びをして欠伸を噛み殺したドンロが、その後をえっちらおっちら付いてきた。

 もう耳に胼胝ができるほど同じ話を聞かされているのに、毎回律儀に相槌を打ってやるこの悪魔も大概マイリが好きである、とウルは苦笑する。


「ウルはそこに座っておれ! わらわもお茶くらいいれられるぞ! なにしろ、おねえさんになるんじゃからな!」

「そうかい、それは頼もしいことだな」


 とにかく弟か妹ができるのが嬉しくてならないらしいマイリは、この一月、口を開けばその話題ばかりだ。

 一人っ子のウルには経験のないことだが、マイリがご機嫌ならば概ねヴィンセント王国は平和なので、彼に厭う理由はない。

 お目付役の侍女頭などは、お姉さんぶりたいマイリが王妃教育にも幾らか前向きになった、とおおいに喜んでいた。ただし、前向きにはなったがさぼらないとは言っていない。

 マイリのちっちゃな手に引かれてウルがソファに腰を下ろすと同時に、見計らったかのように国王執務室の扉がノックされた。

 現れたのは、お茶セット一式を乗せたワゴンと、それを押す守衛のケット。


「――で、当たり前のように一緒に茶を飲んで行くんだな。お前絶対、心臓に毛が生えてるだろ?」

「恐れながら、陛下。私は陛下とではなく、妃殿下とお茶をご一緒しているだけです。あと、心臓は強い方です」


 ちゃっかり国王の向かいのソファに腰を下ろした守衛は、実に堂々としたものだ。

 その鬼畜面の隣に、あらゆる可愛さを魔界に置いてきたような猫悪魔も並んだものだから、とにかく絵面が強すぎる。

 ゴゴゴ……という重苦しい効果音を背負っていそうな一人と一匹に、仕事とはまた違った疲労感を覚えつつ、ウルはさりげなくマイリの持つポットに手を添えた。

 彼女の自主性を尊重してやりたいのは山々だが、熱々のお湯がなみなみと入ったポットはさすがに四歳児の手に余る。

 マイリも大人しくウルの手を借りて、ようやく三つのカップに紅茶を注ぎ終えて満足そうだ。

 ドンロの前にも、ちゃんとミルクの皿が置かれた。


「とてもおいしいです、妃殿下。お茶を淹れるのがお上手でいらっしゃいますね」

「そうじゃろう? なにしろ、わらわはおねえさんになるのだからな!」


 存外優雅にカップを傾ける鬼畜面に、マイリは満面の笑みで答える。

 こんな可愛らしい笑顔が見られるのならば、例え泥水を出されたって飲み干してしまえそう――なんて、頭の片隅に浮かんでしまうウルも大概である。

 ところが、そうまで彼に思わせるマイリの笑顔に、ふいに影が差した。

 ウルは慌ててカップから口を離し、どうした? と声を掛ける。


「ウル……わらわな、おねえさんになるんじゃ」

「うん? そうだな?」

「じゃがな、わらわな、実はな……おねえさんになるのは初めてのことじゃ」

「ああ……そういえば、そうか……」


 マイリの中身は、このヴィンセント王国ができるよりも前からこの地に存在する人ならぬもの。

 家族という概念はあるようで、この世界全ての所有者が父であり、天主たる父より賜った土地にそれぞれ子達が住んでいるらしい。

 マイリは、そんな兄弟の末っ子だという話だった。

 大きな菫色の瞳を不安げに揺らして、彼女は紅茶にぽつりと呟きを落とす。

 

「よいおねえさんになるには、どうすればいいんじゃろう……」


 ウルとケットは顔を見合わせたものの、揃って眉尻を下げた。


「さあなぁ……あいにく、俺も姉にはなったことがないのでな」

「私もでございます。双子の妹なら、いるのですが……」

「……ケット、お前……双子の妹がいるのか?」

「はい、私と瓜二つの。何か文句でもありますか?」


 衝撃の新情報に一瞬絶句したウルだったが、すぐに気を取り直して続ける。


「そうだ、マイリ。アシェラに聞いてみたらどうだ?」

「……母?」

「ああ。よい姉……だったかどうかはさておき、アシェラには弟がいるから姉には違いないぞ」

「おお、そういえば……母も、おねえさんであったな!」


 アシェラには、ジャックという三つ下の弟がいる。いずれダールグレン公爵とヒンメル王国の王配を兼任することになるであろう将来有望な若者だが、幼い頃は姉に弄り倒されて泣きべそばかりかいていた。

 今は、姪の自分にメロメロな叔父の顔を思い出したのだろう。

 マイリのふくふくの頬は一瞬綻びかけたが……

 

「――いや、ならん。母に聞きにはいけぬ」


 まるで自分に言いきかせるようにそう呟くと、小さな口を引き結んでしまった。

 ウルとケットがまた顔を見合わせる。

 無心でミルクを舐めていたドンロも顔を上げ、灰色の目でマイリを見つめた。

 しばし国王執務室に沈黙が落ちたが、そういえば、とやがてケットが口を開く。


「アシェラ様と言えば、妃殿下の時よりもつわりが重いようだ、とロッツ様が心配していらっしゃいましたね」

「つわりか……それは大変だな。マイリ、しばらくフェルデン家に戻って、アシェラの側にいてやってはどうだ? お前の顔を見れば、アシェラも喜ぶだろう」

「たしかに、わらわがいると母は喜ぶじゃろう……しかし、ならぬ」


 ついには口をへの字にしてしまったちっちゃな王妃に、国王と守衛はまたもや顔を見合わせる。

 カップを置いたウルが膝の上に抱き上げてやると、マイリはその胸にグリグリと額を押し付けて、くぐもった声で続けた。


「わらわが側いるとな、母はわらわの母になろうとする。おのれの身体が辛いのもがまんして、わらわの母を務めようとしてしまうんじゃ。だから、わらわは今、母の側にいてはならん……」

「そうか……アシェラを休ませてやるため、か」

「ひぐっ……妃殿下……! なんとお母様想いなのでしょう……!!」


 アシェラを――母を思いやるマイリの健気さに、ウルもケットも胸を打たれずのはいられなかった。

 ウルは胸に引っ付いたちっちゃなブロンドの頭を撫で、ケットは両手で鬼畜面を覆って咽び泣く。

 向かいのソファからテーブルを潜ってやってきたドンロが、マイリの頬をザリザリと舐めた。

 ヴィンセント王国の家主がマイリ・フェルデンの身体を今代の器として選んだのは、ちょうどその時、アシェラの胎に死産となるはずの身体があったからに過ぎない。

 とはいえ、彼女は器の親となったロッツとアシェラのことを、まるで本当の親のように大切にしていた。

 ただの人間でしかないウルには、彼女の全てを理解することは到底叶わないが、情の深さに限れば人間と何も変わらない――いや、それ以上だと感じる時がある。

 それに……とウルが頭の中で続けようとした時、マイリが彼の心を読んだみたいに口を開いた。


「それに、わらわはウルの側にいてやらねばならん。ウルは、寂しがり屋さんじゃからな」

「ははっ……そうですね。陛下はバブちゃんですからね」

「おい、そこの守衛。主君を鼻で笑うな」


 一転ニヤニヤし出した向かいの鬼畜顔を睨んで、ウルは誤魔化す。

 ちっちゃなマイリの大きな愛情が、惜しげもなく自分にも向けられていると感じるこのくすぐったさ、それににやけてしまいそうになるのを。

 さも面白そうに見上げてくるドンロの灰色の瞳から、ウルは目を逸らした。

 そんな中、再び国王執務室の扉がノックされる。

 部屋の主の返事も待たずに扉を開いた無礼者は……


「ああーっ! ズルイ! 陛下、ズルイ!! 僕もマイリちゃんとお茶飲みたいっ!!」


 マイリの父ロッツだった。

 どうやら書簡を届けにきたらしい。

 我が子の前でも恥ずかしげもなくズルイを連呼する彼を、ウルの膝からぴょんと飛び降りたマイリが手招きする。

 

「父も、おいで! わらわがおいしいお茶をいれてやろうな!」

「ぎゃあん! うれしいいいいっ!!」


 たちまち駆け寄ってきたロッツは、持参した書簡をウルの顔に押し付けると、早速マイリの持つポットに手を添えている。

 この騒がしい幼馴染がもうすぐ二児の父になるのかと思うと、ウルも感慨深いものがあった。

 書簡は、飾り気のない封筒に入っていた。

 しかし、その封蝋に押されていた印璽を目にした途端、ウルははっと息を呑む。

 すかさずケットが差し出したペーパーナイフで封を開き、慌てて手紙に目を通した彼は、やがて小さく息を吐いた。

 そうして、ロッツの膝に座ってお菓子を頬張り始めたマイリに向かって言う。



「マイリ――〝お姉さん〟がくるぞ」

「なんじゃと!?」



 これより二月ほど前――年末も押し迫った頃のことだ。

 大陸の北一帯を支配するヴォルフ帝国でクーデターが起こり、そして失敗した。

 クーデターの旗印を務めたのは、かつてヒンメル王立学校で共に学び、同じ寄宿舎で寝起きした仲であるウルやロッツの友人、マチアス・ヴォルフ。

 彼が、わずかな手勢とともにヴィンセント王国の国境まで逃げてきて、ウルとの面会を求めた出来事も記憶に新しい。

 書簡は、そんなマチアスが反旗を翻した彼の姉――ヴォルフ皇帝からの会談の申し入れだった。



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