王妃様とクリスマスイヴ3


 キイ……と小さく、扉の蝶番が軋む音がして、ウルははっと瞼を上げた。

 どのくらい眠っていたのだろう。側のテーブルに置いていたロウソクはすでに燃え尽きてしまっている。

 慌てて飛び起きようとして、ウルは自分が真っ白いもこもこふわふわの猫……ではなく、猫のきぐるみを着たマイリを抱えていることに気づいた。

 マイリは本物の猫みたいに丸くなって、すうすうと気持ちよさそうに寝息を立てている。

 一方、ソファの足元で寝ていたドンロは起き出して、そのずんぐりとした体で伸びをした。

 ウルはマイリを毛布に包んで抱き直しながら、そっとソファの背凭れから顔を覗かせる。

 先ほどの蝶番が軋む音は、この国王執務室の扉が開いたことを意味していた。

 はたしてウルの目は、手燭を頼りに抜き足差し足部屋の中に入ってくる人影を捉える。


「――誰だ」

 

 鋭く、しかしマイリを起こさないよう声を潜めて問えば、人影はぴたりと歩みを止めた。

 そして……

 

「おやおや、起こしてしまいましたか――こんばんは、陛下」

「……フェルデン公爵」


 国王執務室に忍び込んできたのはなんと、先代国王の、そして今はウルの右腕でもある宰相、スコット・フェルデンだった。

 ウルの腕の中ですやすや眠るマイリの祖父である。

 しかし、ロウソクの光で浮かび上がったその姿に、ウルは目を丸くした。


「おいおい……いったい何の仮装だ、それは……」

「ははは……いえ、ソマリ君から事情を聞きましてね。僭越ながら、私がサンタクロース殿の代役に立候補させていただいたのですよ」


 フェルデン公爵は、白い縁取りのある赤い服とトンガリ帽子、それから真っ白いふわふわの付け髭を生やし、白い大きな布袋を肩に担いでいたのである。

 これが、サンタクロースの定番の装いだとソマリから聞いたそうだ。

 マイリがあまりにもサンタクロースの来訪を楽しみにする姿を目にして、迂闊なことを言ってしまったと責任を感じたのだろう。衣装一式は、ソマリが大急ぎで揃えたらしい。


「マイリの願いも、陛下の願いも、こっそり叶えて差し上げるつもりだったのですが……いやはや、見つかってしまいましたなぁ」

「いや、俺は結構だが、マイリのを……その手前の靴下の中だ。メモが入っている」


 ウルの言葉に心得たとばかりに頷いたフェルデン公爵は、クリスマスツリーの方へと足を進める。

 しかし、肝心の靴下を手に取る前に、それはそうと、とウルに向き直った。


「陛下――ヴォルフの皇弟殿下を先方に引き渡すよう、国境警備隊にお命じになったそうですね」

「……いけなかったか?」


 硬い声で問い返すウルに、フェルデン公爵は首を横に振る。

 ロウソクの光に照らされたその顔は微笑んでいた。


「いいえ、陛下のお決めになったことに異存を唱えるつもりはございません。ただ……私に相談にいらっしゃるかと思っておりましたので」


 その言葉にウルは小さく肩を竦め、茶化すみたいに言った。


「へえ、相談してほしかったのか? それは悪いことをしたな。だが、相談したところで、どうせあんたも俺と同じ答えを出しただろう?」

「おやおや……」


 フェルデン公爵は、わざとらしく驚いた顔をする。

 ウルはそれを白々しい目で見てため息を吐くと、それに、と続けた。


「今日の決断を、誰かのせいにしたくない――今日、マチアスを見捨てると決めたのは、俺だ」

「陛下……何もかも、お一人で背負う必要などないのですよ? お父上も――ドンロも、生きていたならばきっと同じことを言うでしょう。私を、お使いなさい」


 自分を気遣うフェルデン公爵の言葉に、しかしウルは首を横に振る。

 そうして、マイリのブロンドの髪を撫でながら、その祖父をまっすぐ見据えて告げた。

 

「あんたのことは信用しているし、尊敬している。だが――今は俺が、このヴィンセントの王だ。俺にとってはもう、あんたも守るべき民の一人なんだ」


 ひゅっ、とフェルデン公爵が息を呑む気配がした。

 国王の仕事というのは思った以上に地味で単調で、それでいて、時に非情な決断を迫られるものだ。

 身分を隠して諸外国を渡り歩いていた頃の日々を刺激的だと感じていた自分が、いかに幼く浅はかであったのか……この日、ウルは思い知った。

 家主であるマイリとの関係が良好なうちは、ヴィンセント王国に大きな禍が訪れることはないだろう。

 しかし、日々起こる小さな問題に対処して平和を保つのは、ヴィンセント国王たるウルの役目。

 目の前にいるフェルデン公爵も引っくるめた民のため……そして、初めての人間の生を満喫する、ちっちゃくて可愛くて、愛情深いマイリのため。

 肉体的にも精神的にも強くあろう――そう、ウルは決意を新たにするのだった。

 そんな若き国王に、フェルデン公爵は柔らかく頬を緩め……


「青いですなぁ、陛下。自分一人で何でもできると思い込んでおられる、その若さゆえの傲慢さ……いっそ羨ましくもありますなぁ」

「……いや、待て。今、褒める流れじゃなかったか?」

「ははは、勝手に一人で背負い込んだくせにしょげ返って、挙句の果ては四歳の女の子に慰められている大の男をでございますか?」

「う、うるせー」


 頼もしい宰相閣下の口から飛び出したのは、実に辛辣極まりない苦言であった。

 しかし、正論である。

 ウルは反論もできず、それこそ不貞腐れた子供みたいな顔をして、フェルデン公爵から目を逸らすしかなかった。

 そんな彼の気も知らず、マイリは憎らしいほど気持ちよさそうに寝息を立てている。

 ウルが癒しを得ようと、彼女のもちもちふわふわの魅惑の頬に自分のそれを擦り寄せようとした――その時だった。


「――いっっって!!」


 突然、短い両腕がしがみついてきたかと思ったら、ガブッと首筋に噛み付かれてしまったのである。


「――まずい」


 可愛い顔をぎゅっと顰めて、マイリが呟く。


「は? まずい? いきなり齧っておいて、まずいとは何だ! おい! マイリ! こら! 起きてるんだろう!?」

「おやおや、陛下……時折、首筋に愛らしい歯形を付けていらっしゃるとは思っておりましたが、なるほどマイリの……。いやはや、お熱いことですなぁ。じーじは目のやり場に困ってしまいます」

「フェルデン公爵! そういうの、いいから!!」

「ふふふ」


 ウルがちっちゃな顎を掴むと、今度はその指をガジガジと齧って、まずい、とマイリがまた顔を顰めた。

 瞼はずっと閉じたままで、どうやら寝たふりをしているわけではなさそうだ。

 ちっちゃな歯形が付いた指を見下ろし、ウルはやれやれとため息を吐く。

 その肩口にこてんと頭を預けて、マイリは再びすやすやと寝息を立て始めた。

 フェルデン公爵は、そんな国王夫妻を微笑ましそうに眺めていたが、やがて当初の目的を思い出したのか、クリスマスツリーにひっかけられていた手前の靴下を手に取る。

 そうして、中から取り出したメモを広げてロウソクの光で照らすと……


「――おや」


 とたん、目を丸くした。


「ふむふむ、困りましたな……これはさすがに私にも、きっとサンタクロース殿にも叶えられないでしょう」

「あんたでも難しいことか? まいったな……」


 もともと自分がサンタクロースの代わりをするつもりだったウルは、マイリの願いごとがどれほど無理難題なのかと慌てる。

 ところが、フェルデン公爵は困ったと言いつつも、なぜかくすくすと笑いながらメモを差し出してきた。

 ウルは急いでそれを覗き込み――息を呑む。

 メモには、拙くも大きく、とにかく自己主張の激しい字でもって、こう書かれていた。



『うるが


 さかなと


 やさいと


 くだものをたべて


 いつもすこやかで


 ながいきしますように』



 ちなみにだが、ウルは確かに肉を好んで食べるものの、別に魚も野菜も果物も食べられないわけではないのだ。

 ただ、どちらかというと食には無頓着で、ヒンメル王立学校卒業後は殊更偏食気味であったことは否めない。

 初めて会った一年前の戴冠式の夜、肉ばかり食ってるやつの血だ、とマイリに扱き下ろされたが、あれからもさほど食生活が改善としたとは言い難かった。

 ばつの悪そうな顔をするウルに、フェルデン公爵はにこにこして言う。

 

「なんともいじらしいではありませんか。マイリの願いを叶えてやれるのは、世界広しといえども陛下だけです」

「……違いない」


 ちっちゃなヴィンセント王妃はすやすやと眠る。

 そのもちもちふわふわの頬に、ウルは今度こそ自分のそれを擦り寄せた。

 フェルデン公爵は、そんな国王夫妻を微笑ましげに見守る。

 そうして、いつの間にか足元に来ていた亡き友と同じ名を与えられた猫型悪魔に目配せすると、こっそりもう一つの靴下に――ウルの願いごとが入った靴下に手を伸ばすのだった。







 

「ほれ、ウル。小骨は取ってやったゆえ、しっかり食え」


 十二番目の月の二十五日目。

 ソマリの前世の世界ではクリスマスなる記念日だというこの日、ヴィンセント国王夫妻の昼食の主菜は魚料理だった。

 小ぶりの白身魚を丸ごと、岩塩とたっぷりのハーブとともに香ばしくソテーした逸品だ。

 その身をナイフとフォークを器用に使ってほぐし、マイリは嬉々としてウルの口に押し込んだ。

 昨夜は寝落ちをしてしまってサンタクロースに会えなかった、と起きて早々べそをかいていたマイリだったが、ウルが朝食の際にサラダを食べ始めると、とたんに涙を止めた。

 大きな目をまん丸にして側に控えていた侍女頭と顔を見合わせ、それから、この日急遽休みをとった彼にずっとまとわりつき甲斐甲斐しく面倒をみている。

 午後からは、二人で城内にある果樹園に赴き、ベリーを摘む予定だ。


「ウル、さんたくろーすは本当におったんじゃなぁ」

「そうだなぁ」


 突然、野菜も魚も果物も自発的に口にする気になったウルを見て、マイリはサンタクロースが願いを叶えてくれたのだと思っている。

 彼女が靴下に忍ばせたメモは消え、代わりにたくさんお菓子が入っていたのだ。

 もちろん、お菓子を入れたのはフェルデン公爵なのだが、これもサンタクロースがくれたものだと疑ってもいないマイリは、侍女や侍従、忠実なる下僕たるケットやソマリに全て与えてしまった。


「わらわは願いを叶えてもらったからな。菓子までは、もらいすぎじゃ」


 なんて言って、愛らしい顔でにこにこする。

 だからウルは、口に突っ込まれた魚にちょっとばかり小骨が残っていようと、そのまま大人しく咀嚼して飲み込むのであった。

 

 ところでである。


 実は一つ、ウルには腑に落ちないことがあった。

 彼はサンタクロースの存在を信じてはいなかったが、マイリに付き合わされて願いごとを書くには書いたのだ。もちろん、それが叶うなどとは露ほども期待せずに。

 ところが昨夜、ウルのそれを確認しようとフェルデン公爵が覗き込んだ時――靴下の中には、もう何も入っていなかった。

 ウルが靴下にメモを入れたのは、猫のぬいぐるみみたいなマイリを抱えて国王執務室で張り込みを始めた時だ。

 それが無くなっていたということは、彼らが寝落ちしてからサンタクロースに扮したフェルデン公爵が忍び込んでくるまでの間に、何者かが抜き取ったということになる。

 しかし、昨夜国王執務室の前で寝ずの番をしていたケットは、フェルデン公爵以外は誰も中に通していないと言うのだ。

 マイリの手前、ウルは自分もちゃんと願いごとを叶えてもらえたと言って誤魔化したが……

 


「メモを持っていったからには、俺の願いも叶えてもらえるんだろうか……」



 彼の独り言を拾ったらしいドンロが、んあーん、と小さく相槌を打つように鳴いた。




 吉報が届いたのは、新しい年が始まってすぐのことだ。


 信心深いことで知られるヴォルフ皇帝は、突然降りた天啓に従い、謀反を起こした弟に恩赦を与えた。




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