名を刻むこと



「落書きする人って、なんで自分の名前を書くんですかね」

 頬の横まで伸びた髪を、くるくると手で弄びながら、後輩は呟く。

 どうしても行きたいと請われて連れてきた水族館なのに、彼女ははしゃぐわけでもなく、平熱のままガラスを眺めている。

 魚を眺めているというよりも、水槽そのものを眺めているように見えたので、楽しめていないのかと心配していたのだけど、全然違うことを考えていたようだ。

 円形のガラスの奥で、ぬぼっとした顔の魚が泳いでいる。ガラスの周囲は劣化しているのか塗装が剥げやすく、少し爪で引っ掻いただけで痕が残る。そこにはいくつもの名前が書かれていた。『マサキ』『アキト』『アイ』『田中』『エミコ』『あいこ』器物損壊の証拠になるのに、なぜわざわざ自分の名前を書くのか、私も不思議に思って考えたことがある。

「消えてしまうからじゃないかな」

「どういうことですか」

 さっきまでクールぶって澄ました顔でガラスを見ていたのに、頭のうえに大きなクエスチョンマークが浮かんでいそうな顔でこちらを向く。水族館の照明は薄暗く、それでも彼女の白い肌は光を反射してほのかに輝いてみえる。

「不安なんじゃないかな」

 少し前ならこんなところに落書きをする人の気持ちなんてわからなかった。でも、今日彼女とここに来て、ちょっとだけならわかる気がした。

「今ここにいる幸せな自分が、すぐにも消えてしまいそうで」

 だからせめて、ここにいたという証拠を残すために、自分の名を刻むのだ。

「こんなことする人たちが、そこまで考えてますかね」

「どうだろうね。無意識かも」

 字を書けるようになった子供が最初に覚えるのは自分の名前だ。何か文字を書こうと何も考えずに手を動かしたら、自然と自分の名前になるのかもしれない。

 自分の名前を書くようなやつは、何も考えていない。なんて決めつけて納得してもいいけれど、私は無意識にでも知性がある方を支持したい。

「無意識に不安を感じてるから、つい自分がここにいたって印を残したくなるの」

 後輩は唇を尖らせて、私の面倒な話を咀嚼している。

「でも、私はもっと、本能のまま生きたいと思います」

「そう、かもね」

 彼女はそういうタイプだ。私と違うから、まぶしく感じる。

「だったら」

 後輩の手が伸びて、私の手に重なる。それからゆっくりと、力が込められた。冷え性と言っていたはずなのに、しっとりと汗ばんでいて、なのにちっとも不快じゃなかった。

「先輩にも、私の名前を刻んでいいですか」

 つい首を縦に振りそうになるが、無意識の理性がそれを押しとどめる。

「二十歳になったらね」

 大人になれば、少し幸せを感じたくらいで、それが消えてしまうことを恐れなくなるのだろうか。ガラスの向こうにいる魚たちと目が合ったけれど、彼らは何を考えているのかちっともわからない。

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