第11話 「ごはんの呪文」〜美味しいご飯が待っている〜
雨の中、
初日の新聞配達へと自転車で飛び出した。
先輩は体が細いのに仕事が早い。
ついていくのに必死な私。
右手と右足が同時に出る。
豪華な新品のレインコートを着ているから
余計である。
どしゃ降りの中、
細野先輩はレインコートを着ていない。
白いTシャツとジーンズだ。
爽やかすぎてまるで雨など降っていないかのようだ。
濡れた髪の奥から私に向かって言う。
「ここが1件目。
このスタート地点を覚えていれば後は何とかなる。」
重要なポイントだけを上手く話してくれる
クールな先輩が私に付いてくれた事に感謝した。
先輩は雨の中、素早く前カゴのビニール袋に覆われた新聞を
一部だけ抜くと、自分を傘がわりにして新聞を守りながら
1件目の家のポストに新聞を入れた。
「こんな感じ。次行こう。」
雨なのにまるで雨が降っていないかのように、
新聞を濡らす事なくサクサクとポストに入れていく先輩。
簡単そうな気がしてきた。
しかし暗い。
家は分かってもポストがどこにあるのか
先輩について行かないと分からない。
一人で配れる日が来るのだろうか?
そろそろ新聞が自転車から無くなりかけた時、
大きなマンションのエントランスに自転車ごと入っていった。
屋根があるので一安心。
おっと、新聞の固まりがマンションの集合ポストの下に
置いてある。
ここか。
ここに先回りして篠ピー先輩は
車で缶コーヒーでも飲みながら
お気に入りの歌でも歌いながら
やって来たに違いない。
ここで細野先輩は自転車を
サイドスタンドからセンタースタンドに立て変えて
自転車を地面と平行にしてから新たな新聞のおかわりを
積んだ。
見事だった。
本来捨てるはずの梱包のビニール袋や
PPバンドだけの利用だけで仕事を完結させてしまう。
骨までスープにしてしまうラーメン職人のようだ。
一切の無駄がない。
しかし私は今、自分がどこにいるのか
さっぱり分からないでいる。
もし今先輩と、はぐれたら
お店にも部屋にも大阪にも帰れない。
この星のどの部分に私は存在しているのか。
真夜中の暗闇での配達に
自分の輝きの足りなさを感じた。
マンションの配達は
いっとき雨を凌げる。
細野先輩と二人でエレベーターに乗った。
シーンとした狭い空間。
私は質問した。
「先輩は学校って行ってるんですか。」
「あー。俺はクラフトの学校。
楽器を製作する人になるための学校に行ってる。」
「なるほど。その手があったか。」
「ん?もともと家具屋で椅子とか作ってたんだけど、
つまんなくてね。ギター好きだったから・・・」
「へぇー!椅子作れるんですね!すごい!」
「いや、誰でも作れるよ。」
エレベーターが停止階に着いた。
手は止めない。
足もだ。
どれだけ早く帰るかが
今後の人生に掛かっている。
自由な時間の確保。
待っている食事。
そんな希望を胸に
いち早く配達を終わらせるのだ。
クラフトマンか。
色んな学校があるのだな。
女の子たちはどんな学校に行ってるのだろうか。
気になる。
そうだ。
私も学校の手続きをしなければ。
色んな事を考えられる仕事だな、
この新聞配達は。
頭の中は全く別の事を考えていられる。
先輩が何か思い付いた雰囲気を出した。
「そうだ。俺5階の配達行ってくるから
3階の306号室に新聞入れてきてくれる?」
先輩はそう言って新聞を1部、私に渡した。
東京で一発目の新聞配達を任命された。
なんとしてでもこの任務は完遂しなければならない。
私は少し興奮して新聞を勢いよく
先輩から奪ってしまった。
新聞を手に取った瞬間に
中に挟んであるチラシがばらけて
床に落ちてしまった。
「・・・。」
先輩は言葉を発する事なく
床に落ちたチラシをさっさと元に戻してくれた。
慣れた手つき。
床は濡れてなかったので助かった。
「新聞を持つ時は左端を持つといいよ。
チラシは左端でまとまってるから。」
「左はし・・・こうですか?」
「それ左上。新聞を読む人の見方だね。
配達する奴は新聞を縦に見てるから・・・
んーと、〇〇新聞って大きく書いてる所が
右下。新聞にチラシを入れる時に新聞を開くだろ?
その時に左の閉じてる側の下だよ。
そこを常に持つようにしないとバラけるよ。」
なるほど。
何気なく簡単そうに仕事しているようで
いろんな上手くいく要素があるんだな。
見て盗むのは至難の技だ。
先輩が新聞の左端を常に持っていたなんて
どうやって気付ける?
どっちから見て左端かも
説明が複雑だ。
ただただポストに新聞を入れていっているのではないのだ。
雨は小雨になっていた。
ほとんど降っていないと言っていい。
私はこの豪華な分厚いレインコートを
脱ぎたくて仕方なかった。
暑いのだ。
汗をかいてしまう。
雨に濡れたくらいの汗が出ている。
なるほど。
先輩が「どうせ濡れるからレインコートは着ない。」
と言っていた意味が分かった気がした。
雨に濡れずに汗だくになっている私に先輩は言った。
「そうだ。新聞を積んだらどれだけ自転車が重たいか
体験しといた方がいい。ちょっとこれに乗ってみ。」
「はい。」
半分くらいしかもう新聞を積んでない自転車に
跨がろうとしてハンドルを持った。
ふと中学生の時にした新聞配達を思い出した。
自転車が重すぎて停まっている車に思い切り倒れてしまったのだ。
車の黄色や赤色のプラスチックの部分が割れて
中の銀色の部分が見えてしまった。
自転車は倒れて新聞も散らばってしまった。
私は惨めな気持ちになり、
車の大切ななど全く分からなかったので、
自転車を元に戻して新聞を積みなおして
その場を去った。
自分が住んでいる団地の隣の棟の駐車場だった。
働くというのは惨めな気持ちになるんだなと思った。
でも学校でも惨めな気持ちにはなる。
同じ惨めならお金をもらえる方がいいのかもしれない。
ウインカーとテールランプを割られた車の持ち主の
気持ちなど一切考える事なくその時は過ぎ去った。
その時の感覚を思い出して
体が硬直した。
絶対に倒れてはいけない。
一気に汗が噴き出る。
膝も肘も真っ直ぐなまま
ガッチリ地面に両足を着いて踏ん張った。
「最初はあまり新聞積まなくていいよ。中継を増やせばいいだけだから。」
先輩!
ずっと私についていてくださいね!
「早く帰ろう。飯が待ってる。」
そうだ!そうだ!
優子さんが作ってくれた美味しいご飯が
待っているのだ!
そう思えば、やり過ごせた。
どれだけ重くても
どれだけ暗くても
どれだけシンドくても
帰ったら優子さんの
「おかえりー!」と
美味しい食事が待っているのだ!
このことがどれだけ
心の支えになったことか。
私の頭の中はもう
暖かい食堂の温かいご飯の風景しか
思い浮かばなかった。
(ごはん、ごはん、ごはん、ごはん、)
早く帰りたい自分に心の中で言い聞かせていた。
きっと先輩も心の中で唱えていたに違いない。
いや、お店の全員が唱えているに違いない。
「ごはんの呪文」を。
〜つづく〜
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