By the way,I love you.

絵空こそら

第1話

 断捨離をした。

 しばらく仕事から帰ってすぐ寝る生活が続いていたから、部屋は酷い有様だった。書類棚からはみ出した、必要か不必要かわからない紙きれや、床に散らばった衣類だの、生活雑貨だの、洗わず放置したテーブルの上の食器…。せっかくの休み、部屋でゆっくりするにも散らかっていたのでは落ち着けない。

 よし、と気合を入れて暖かな寝床から飛び出すと、朝食もそこそこに片付けを始めた。 まずは床の上のものを元あった場所に戻し、ゴミは捨てて掃除機をかける。次に書類の山を必要なもの、不必要なものに仕分けしていき、必要なものからさらに細かく分ける。種類別に空のファイルに入れて、書類棚にしまう。不必要だと思ったものも念のためもう一度目を通す。

 案外片付けは早く終わった。気分がのってきて少し楽しくなってきたところだったので、なんとなく物足りず、綺麗になった部屋を見回す。私の目は、クローゼットとベッドの下にある収納ボックスに留まった。年末だし、大掃除のつもりで要らないものは処分することにした。

 ちょっと流行を過ぎた型のワンピースや、今の年齢では履けないような、丈の短いボトムス、襟が拠れてしまったセーターなどを袋に詰め終えてしまうと、流石に疲れた。

 丸い木製のテーブルの前に座って、珈琲で一服する。ふーっと長く息を吐いて、今し方捨てることにしたものが詰まったビニール袋を見つめる。今更、やっぱり捨てたくない!と思うようなものはないけれど、簡単に手放せたわけでもないのだ。時代遅れなのも、もう着れるわけないことも、とうの昔にわかっていた。それなのに今まで捨てるのを躊躇ってたのは、それぞれに思い出があるからだ。初めてのデートであのワンピースを着た。あのボトムスは、学生時代に色違いで親友と一緒に買った。あのセーターは誕生日プレゼントに貰った。憧れのブランドのものだ。

 去年の私だったら躊躇したかもしれない。でも、今ならば捨てられると思った。秋になって葉っぱが枝から離れるように、心がもう手放せると言ったのだ。そういう時に処分するのが、心の健康にいい気がした。

 もう片付けはやめにしようかと思ったけど、ひとつだけ残しておくのも気にかかる。もう一口熱い珈琲を流し込むと、私は作業を再開した。

 収納ボックスには、思い出の品が入っている。主に手紙が多くて、他は誕生日プレゼント、おみやげなど。

 小さなぬいぐるみ、金属部分が剥げたキーホルダー、日常的に友達と交わしていた短いメッセージを、一つ一つ手に取って眺めて、さよならを言ってから袋に入れる。

 手紙の束の後半に差し掛かったところで、私は首を傾げた。小さな封筒に入っていたメッセージカードに、何も書かれていなかったからだ。隈なく探してみても、どこにも文字らしいものは書いていない。差出人の名前さえ。それは確かに見覚えがあり、懐かしい気がした。よくよく見ると、筆跡らしきものが残っていて、解読しようと目を凝らしていた時、急に思い出した。はっと、息を飲んでしまった。

 これは、康介から貰ったものだ。

 康介は、私が高校生だった時、初めてできた彼氏だった。無口で、数学が得意で、部活が忙しくて一度もデートに行ったことがなかった(彼は野球部だった)。それでも不満に思ったことは無かったし、だからこそたまに一緒に下校できる時が嬉しかった。私は部活に入っていなかったけど、彼の練習が終わるまで図書室で待っていた。

 ある時、彼が帰り道に誕生日プレゼントをくれた。誕生日について話したのは一度きりだったから驚いた。

「気に入らなかったらごめん」

 無骨な黒いリュックから、小さなピンク色の紙袋をとり出すと、彼はそれを私の掌の上にぽんと落とした。彼はばつが悪そうにしていた。

 私は何故だかすごく緊張した。火照った顔から、ありがとうと上擦った声が出た。

 また明日と言って別れた後、彼は言い忘れたという顔をして振り返った。

「誕生日おめでとう」

 照れ臭かったのか、彼はすぐに元の方向に体を向けて、夕陽の中を足速に去っていった。

家に帰って袋を開けてみると、中には人気コスメブランドのリップクリームが入っていた。小さな花が細かく彫り込まれた限定デザインのものだ。高校は化粧が禁止だったけど、そのリップの色はさり気なくて、十分学校でも使えそうだった。

 彼はお姉さんがいるので、彼女にアドバイスを貰ったのかな、と思った。彼の印象はそのリップからそれほど離れていた。練習帰りに買いに行ったのかなとか、それを購入する時彼はどんな様子だったのかなとか想像して、微笑ましく思った。

 私はリップを両手で包んで、胸の前に抱き寄せた。時間がない中、わざわざ私のために買いに行ってくれたのかと、幸福な気持ちがじわじわと胸を満たした。

 袋には、メッセージカードも入っていた。クリーム色の、シンプルなデザインのカードの中央に、赤く四角い字で「愛してる」と書かれていた。愛してる、だって!私はたいそうどぎまぎして、その字をじっと見つめると、封筒に戻して机の引き出しにしまった。


 すぐに思い出せなかったのも無理はない。私はあの時から、今の今まで封筒を開けたことはないのだ。あの時、きっとカードには「誕生日おめでとう」と書かれているんだろうと思っていた。だから、いきなりパンチをくらったような衝撃を受けたのだった。それほど無口な同級生の「愛してる」は強烈だった。家族からも友達からも言われたことのない、映画の中の言葉……。

 きっと赤いペンで書いたから、時間が経って文字が消えてしまったのだろう。でも彼の字の形はありありと思い出せる。

 ふいに玄関で鍵の外れる音がした。思い出に浸ったままぼうっとしていたわたしは、驚いてその方向に目を向けた。合鍵を持っているのは、一人しかいない。

「ただいま」

「おかえりなさい……どうしたの?仕事は?」

 背広姿の彼は不思議そうな顔をした。

「今日は早めに上がるって言ってただろ。一応、帰る前にメッセージも送ったけど」

「ごめん、断捨離に夢中で」

「断捨離?」

 玄関から首を伸ばして、彼が部屋の中を覗く。

「おお、スッキリしたね」

 感心したように言われて、私はえへへと照れ笑いした。

「それは?捨てないの?」

 彼の目は、私が持っていたカードに向けられる。

「あ、うん、これはね……飾っとこうかな」

「ふうん?」

 彼は洗面所に手を洗いに行った。私はもう一度手元のカードを見つめた。



 康介と再会したのは、社会人になってからだ。

 高校を卒業後、私達は自然消滅のような形で別れた。別々の大学に進学した私達は、それぞれの生活が忙しくて、連絡を取ることも少なくなっていった。

 大学を卒業してから入った商社に、取引先の営業として通って来たのが、康介だった。

 彼の雰囲気は柔らかくなっていた。あんなに無口だったのに、気さくに冗談を言って、受付の子を笑わせたりしていた。でもふとした仕草に昔の面影が残っていて、私は無意識に彼を目で追っていた。目が合うと、彼は穏やかに笑った。


「香織はさ、変わったよな」

と、帰りに待ち合わせをして寄った居酒屋で彼は言った。

「そうかな。自分じゃわかんないよ」

「でもなんていうか……嫌な変わり方じゃない」

 じっと目を見てくる康介を、私は見返した。

「康介も変わったよ。なんか、タラシっぽくなったね」

「た、タラシ?」

「そう。昔はもっと硬派だったのにさ」

 彼はショックを受けてる様子だった。それがおかしくて、私は笑った。

「でもなんでだろう、嫌な変わり方じゃないの」


 それから色んな話をした。会わずにいた数年を、どんな風に過ごしていたのか、どんなことがあったのか。何が自分を変化させてきたのか、教え合うように。

 不思議だった。彼との時間はとても穏やかで、自然と言葉が出てくるような、言葉がなくても安心していられるような気持ちがした。高校生の頃は、緊張して声が上擦ってしまうこともよくあったのに。でも、昔のあの、ドキドキした時間も、今の穏やかな時間も、私にとっては大切だ。


 洗面所からうがいをする音が聞こえてくる。

「ねえ、私のこと愛してる?」

 だしぬけに聞いてみた。ごぼっという音がして、康介が噎せている。

「何、急に」

 噎せながら康介が顔を出す。

「愛してるけど」

 なんでもないことのように言う。そんな顔であのメッセージも書いたのだろうか。それとも、悩んだ末に書いたのだろうか。聞くのはもう少し、先でもいい。

「私も!」

 私は笑った。手元のメッセージカードに、赤い文字が光った気がした。

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