第53話 大人の苦悩……桜庭春子の場合⑥

 全国大会への出場を決める試合が行われている体育館までは、短く見積もっても30分以上はかかる。


 私は慣れない運転に四苦八苦しながら、一刻でも早く彼の下へ駆けつけるためにアクセルを踏んだ。


 あんなケガの状態で試合なんてしていたら、何が起こるか分からない。


 最悪、一生体に残ってしまう傷を負う可能性なくはない。


 そんなの、見過ごすわけにはいかなかった。


 教師としても、大人としても、そして、七月君を大切に思う一人の人間としても、私は彼のケガの状態を周りの大人に伝えて、然るべき処置を取らせる責任があった。


 本当は、昨日の内にそうできれば良かった。


 それなのに、私の未熟さのせいで、七月君を危険な目に遭わせてしまっている。


 本当に、本当に、教師失格だと、そう思う。

 

 でも、今それを嘆いていても仕方がない。


 今は、七月君の安全を確保するのが最優先だ。


 それは、私の心からの願いでもあった。


 こんなところで、有望な未来を棒に振ってほしくはない。


 これからも、七月君が頑張る姿を応援したい。


 そんな気持ちが、心の底から溢れて止まらなかった。


 願いを叶えるために、私は車を走らせた。




 長時間の運転のせいか、眼がかすみ、集中力が切れてきた。


 学生の頃に比べると、だいぶ体力も衰えてきたと思う。


 一日、一日が過ぎるたびに、自分が“青春”という言葉とかけ離れていくのを実感していた。


 それは、紛れもない事実なのだと思う。


 体や心の衰えが、その事実を深く私に理解させた。


 私はもう、それらからは縁遠い人間なんだと思う。




 いつか、七月君が言った言葉を思い出す。




『歳とか関係ないと思いますけどね。何かに対して熱く燃え上がるような気持ち。それこそが、青春の正体だと思いますけど』




 それは、優しく気遣いのできる彼らしい言葉だった。


 きっと、私に気を遣ってそう言ったのだろう。


 ありがとう。


 でも、それは違うよ。


 “青春”とは、若者のためにあるべきものだと私は思う。


 そこに、大人が介入する隙なんて存在しないんだ。


 若く、精神的に不安定な時期。


 右も左も分からずに、あてもなく彷徨い続ける時間。


 そんな存在が、必死に前に向かってもがく姿が美しいんだと、心からそう思う。


 それは、若者だけの特権なのだから。


 大人がでしゃばっていいはずがない。


 だから、私は君のヒロインにはなれない。


 これから先、もっと色々な出来事が君を待っているんだよ。


 嬉しい事、悔しい事、悲しい事、楽しい事。


 本当に様々な経験が、君に幸せをもたらし、時には壁となってはばかるのだろう。


 そんな時に、君の隣にいるべきなのは私じゃない。


 肩を並べるべきなのは、共にその感情を分かち合える、“青春”を共有できる若者達だ。


 だから、私は君の気持ちには応えられない。


 本当は嬉しかったし、そう言わなければならないのが残念だけど。


 それが私という教師、そして大人としての義務だし、一人の人間として君を大切に思う私の願いだ。


 だから、ごめん。


 私は、君の願うような存在にはなれない。


 でも、いつだって君を大切に思っているから。


 だから、君の未来を守るためだったら、なんでもしようと思うよ。


 迷惑で、うざったいかもしれないけど。


 それが、私が君にできる唯一の恩返しだから……




 そうして車を飛ばし、ようやく会場になっている体育館に到着した。


 急いで車から降り、出入り口に小走りで進む。


 途中、掲示板に張られているトーナメント表を発見し、私は息を飲んだ。


 右上の、第三シードの枠に当てられた、“七月剣”の文字。


 先端から伸びた黒い線は、上から赤く塗りつぶされて、中央部分まで到達していた。


 それは、七月君が試合に勝ち、決勝戦まで登りつめた事を意味していた。


 本来なら、それは素晴らしい事だし、喜ばしい事なのかもしれない。


 けれど、今回に限っては、まったく喜べなくて。


 むしろ、その事実を知って、私は全身の血液がサーっと引いていくのを感じていた。


 あんなケガを負いながら、猛者達との戦いを、何試合も……


 相当無理しているはずだし、相当体に負担がかかっているはずだ。


 とにかく、一刻も早く顧問の先生に七月君の状態を伝えて試合をやめさせないと。


 そう思い、体育館の中へと急いだ。




 中へ入ると、怒号にも似た声援が会場中に響いていた。


 その声が向けられる方向に目をやると、二人の袴を着た男子が向かい合い、鍔迫り合いをしていた。


 その片方、見慣れた背格好の垂(腰辺りにある、名前が書かれているところ)には、『七月』の文字があった。


 あぁ、まずい、既に試合が始まってしまっている。


 私は急いで中央部分に近づき、人垣をかき分けて最前列へと出た。


 より近くで見る七月君は、面を被っているから表情こそ見えないものの、どことなく余裕がないように感じられた。


 いつもの、何があっても動じないような七月君とは、明らかに様子が違っていた。


 相手が強いのもあるのだろうけれど、きっと、ケガの痛みが彼の足を引っ張っているのだろう。


 そうしているうちに、相手の竹刀が七月君の胴を叩いた。


 審判の人達が旗を上げる。


 どうやら、相手がポイントを取ったらしい。


 昔、保健室で七月君と話していた時に聞いたことがある。


 確か、剣道は二本先取で勝敗が決まるだとか決まらないだとか。


 詳しい事は分からないけれど、そのルールに従うのであれば、七月君はもう後がない状態ということだ。


 きっと、今試合が終わってしまえば、七月君は悔しい思いをするのだろう。


 でも、そんなの知らない。


 丁度、試合が中断されているから、今の内に顧問の先生に事情を説明して……


 そう思った、その瞬間。


 剣を構え直し、臨戦態勢に入っている七月君と……




 目が、合った。




「七月君……」




 その目には、様々な感情が込められていたように思う。


 勝利への強い執念。


 手負いで試合に臨む自分への怒り。


 闘争本能。


 私があまり知らない、七月君の素顔だった。


 けれど、目が合い、私の存在を認識した時の彼の顔は……


 いつもの、保健室でおしゃべりをする時の七月君の表情だった。


 強く、優しく、頼りがいのある、全ての人に安心感を与えるような、そんな顔。


 まるで、大丈夫だよと、そう言われているみたいだった。


 いつも、近くで見てきた顔なのに。


 なんだかそれが遠い過去の事のようで、懐かしくなった。


 そうして、色々な事を思い出す。


 一年生の頃、ボロボロになりながらも、自分の目標のために意思を貫いたあどけなくも強い少年の姿。


 強面のくせに、私の前で時折見せる笑顔が可愛い青年。


「絶対に、次の試合では勝ちたい」と、そう意気込んでいた彼。


 辛い時も、苦しい時も、泣き言一つ言わずに、弱音も吐かず、ただ前を向いて、ひたむきに進んでいた姿を、私は知っている。


 何故なら、一番近くで見てきたから。


 だから、だからこそ、そんな彼の未来をこんなところで潰してはいけないと、大人としても一人の人間としても止めなければならないと、そう決意したはずなのに。


 心に浮かび上がる言葉は、全くの別物で。


 こんな言葉、思ってはいけないはずなのに。


 こんな言葉、口にしてはいけないはずなのに。


 体は言う事を聞かず、言葉は勝手に私の口から飛び出そうとしている。


 心は熱く、衝動が全身を支配する。


 


『熱く燃え上がるような気持ちこそが、青春の正体』




 と、七月君んが言っていた。


 もしかして、これがそうなのだろうか。


 この気持ちこそが、“青春”と呼ばれるものなのだろうか。


 分からなかった。


 唯一分かるのは、私がそれを言ってはいけないという事だけ。


 大人が、みっともなく“青春”にしがみついてはいけないという事だけだった。


 けれど、もう止まらない。


 衝動に、自分の本心に、抗う事はできなかった。




 そうして試合が再会し、再び彼と相手がぶつかり合う、その瞬間。







「負けないで!」







 会場に、良い年をした一人の大人の女の叫び声が響いた。


 それは、自分勝手な願望を叫んだもので。


 幼い子供が、駄々をこねるような戯言で。


 責任も、外聞も、全てを放り投げた、ただ純粋に、自分の気持ちをストレートに伝えた言葉だった。


 自分で言って、本当にみっともないなと、そう思った。


 


 これじゃあ……まるで……




 物語の、ヒロインみたいじゃないか。

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