第52話 大人の苦悩……桜庭春子の場合⑤
化粧台の鏡に映る自分に、私は問いかける。
私は、桜庭春子は、七月剣という人間をどう思っているのか。
教師と生徒ではなく、七月君を一人の人間として考えた時、どう思っているのか。
そんな、教師としてはあるまじき類の問題を、必死に考えていた。
確かに、私にとって七月君は大切な存在だ。
でも、それが生徒としてなのか、一人の人間としてなのかは、良く分からなかった。
まるで弟みたいだと、子犬のようだと愛でて可愛がってきた。
きっと、七月君も私の事を一人の大人として、教師として慕って頼ってくれているんだと、そうだとばかり思っていた。
けれど、実際はそうではなくて、七月君にとって私は“特別”だと、そう言ってくれて。
そんな風に言われて、嫌なわけがないというか、むしろ少し嬉しかった。
生まれてはじめて、そんな風に想ってもらえたから。
はじめて、そんな風に言ってもらえたから。
でも、それは許されない事で。
間違っている事で。
大切だと思えば思う程、彼に間違った、曲がりくねった道を歩ませたくはなかった。
正しい“青春”を歩んでほしかった。
こんな行き遅れの人間に構う時間があったら、しっかりと、自分と同じ時間を生きる人達と交流してほしかった。
私は“青春”と類されるものが大好きだ。
頑張る人、必死な人、ひたむきな人。
そんな人達を応援するのが、支えるのが、好きだった。
何故なら、それらの物は自分にはなかったものだから。
きっと、憧れていたんだと思う。
他者に期待して、想いや努力に相乗りして。
絶対に自分が傷つかない立場から、見下ろして、歪んだ欲望を満たさんとしている。
ずっと、そうだった。
きっと、私は臆病で最低な人間なんだと思う。
傷つくから、怖いから、恥ずかしい思いをするのは嫌だから。
だから、自分以外の誰かに期待して、他の誰かの感動をお裾分けしてもらおうとしている。
もしかしたら、教師になったのも、そんな歪んだ欲望を満たすためだったのかもしれない。
現に、七月君と出会うまで、私は生徒に話しかける事すらままならなかった。
七月君と出会って、勇気を出した自信が、私の糧になった。
あぁ、思い返してみると、七月君に貰ってばっかりだったな……
私が、七月君を導いてあげるんだと、そう意気込んで、そうしてあげてるとばかり思っていた。
けれど、蓋を開けてみれば、私の方が学ばせてもらう事が多くて、沢山の大切な事を教えてもらっていて。
大人として、教師として、やっぱり私は未熟なんだなぁと、そう痛感してしまう。
貰ってばかりだったのに、それでも、七月君は私を慕って、頼って、想ってくれて……
そんな七月君との関係を失って、改めて分かった事がある。
それは、私にとって、やっぱり七月君は“大切な存在”なんだという事だ。
生徒としてとか、男の子としてとか、そんな小さな枠組みで測れなかった。
それらを超越した概念として、私は彼の事が大切だったのかもしれない。
自分でも説明できないくらいに、心の奥深くに根付いた存在なんだと、そんな事を今更理解してしまった。
それが「一人の人間として、どう思うの?」という真紀の問いに対する答えだった。
答えが分かると、次に私がするべきことは、おのずと見えてきた。
軽い化粧をし、パジャマから洋服に着替え、部屋から出る。
「あれ、春姉、そんなにおめかししてどこいくの?」
「う、うるさいな……コンビニでスイーツ買ってくるの!」
「……あはは、よろしく」
リビングを通ると、ニヤニヤとだらしない顔をしながら真紀が聞いてきた。
「あんまり遅くなっちゃダメだよ~」という真紀の声を背中に受けながら、玄関を出る。
事情を察している癖に、あんな風に言うのは意地悪だなと、そう思ったけれど、真紀のおかげで悩みの出口を見つけられた節もあったので、何も言えなかった。
就職祝いに両親に買って貰った軽自動車に乗り、エンジンをかける。
シートベルトを締め、アクセルを踏んだ。
ハンドルに手を掛け、公道を走りながら、彼への想いを馳せた。
私は、生徒としても、一人の人間としても、七月君が“大切”だと、そう理解した。
だから、私はその大切な人のために、自分ができる事をしようと思った。
多分、今も彼は一人で色んなものを背負って、苦しんでいるはずだ。
痛いのも、辛いのも我慢して。
彼は、ずっとそうだから。
自分の目標のために、自分に期待してくれる誰かのために、その身を燃やして頑張り続ける。
不器用で不愛想だけど、優しくて強い子だから。
余計に、自分の身なんて省みずに、奉仕し続けるのだろう。
そんな彼を止めてあげれるのは、私しかいない。
教師として、一人の人間として、私は……
私は、七月君に寄り添い続ける事を決めた。
私は、大人として、教師として、そして、一人の人間として、七月君の下に向かうんだ。
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