第50話 大人の苦悩……桜庭春子の場合③

 七月君と仲違いをし、大切な何かを食い違えてしまったあの日から、数日が経った。


 もちろん、その間、七月君は一度も保健室を訪れなかった。


 ここ最近、ほぼ毎日のように七月君と顔を合わせていたから、桜のない春みたいな、ケーキのないクリスマスみたいな、そんな違和感を覚えていた。


 コーヒーを飲み、はぁっと溜息を着く。


 やっぱり、私が間違っていたのだろうか。


 数日前の七月君とのやり取りを思い出し、自己嫌悪に陥ってしまう。


 日を追う事に、自分の対応が正しいものだったのか分からなくなってきた。


 七月君の悲しそうな表情が脳裏に過って、段々と自信がなくなってきた。

 

 まるで、一年前の自分に戻ったみたい。


 でも、教師として、大人として間違った事は言っていないと思うし……




 そう私が思い悩んでいると、突然、ガララッと保健室のドアが開いた。


 心臓が、ドクンと飛び跳ねる。


 驚くのと同時に、少しの喜びが心の中に生まれる。


 もしかして……七月君?


 と、そんな淡い期待を抱いたからだ。


 だって、こんなドアの開け方をするのは彼しかいないから。


 でも、来てくれたのは嬉しいけど、何て声をかけたらいいのだろうか。


 謝るのは……違う気もするし。


 一体、どうしたら……


 ドアの方向に振り返る一瞬に、そんな妄想で脳内を一杯にする。


 しかし、それらは何の役にも立たなかった。


 何故なら、そこにいたのは七月君ではなかったからだ。


 青い袴を着た、小動物のように小さな女の子。


 ん? ……この子って……




「せ、先生!」




 そうだ。


 この子には見覚えがあるというか、よく知っている。


 ドアの先に立っていたのは、『森原真鈴』ちゃんだった。


 お淑やかで、快活な、七月君に恋する可愛い女の子。


 けれど、今の彼女からは、七月君から聞いていたそんな特徴が見受けられない。


 その表情は、驚くほどに青ざめていた。


 一体何があったのだろうと、恐る恐る、私は聞いた。




「ど、どうしたの? 何かあった?」


「いや、えっと、あの……七月先輩……いや、剣道部でケガが……」




 恐らく、武道館から全速力で走ってきたのだろう。


 息が上がり、パニックになっているのも相まって、聞き取るのがやっとなくらいに言葉に詰まっていた。


 彼女の様子を見ているだけで、こちらにも緊迫感が伝わってきた。


 かくいう私も、“七月先輩”という言葉と、“ケガ”という言葉を耳にし、動揺を隠せずにいた。




「と、とにかく落ち着いて。すぐに行くから」


「は、はい……」




 あわあわとしている森原さんを宥めて、救急箱を手に取り武道館に急いだ。




 武道館に入ると、中心部分に人だかりができていた。


 人をかき分け突き進むと、そこには七月君の姿があった。


 彼の様子を見て、ゾッとする。


 今まで見たこともないくらいに、その表情は青ざめていた。


 いつも、どんな時でも、何があっても顔色一つ変えずにクールに物事をこなしていた彼がこんな顔をするなんて、一体何が……


 揺るがないものが揺らぐ瞬間に立ち会い、思わず心細くなってしまう。


 いや、ダメだ、私がしっかりしないと。


 そう自分に言い聞かせ、七月君の側に寄る。


 庇うように抑えている手首を見ると、赤く腫れ上がっていた。


 私はお医者さんではないから、断言はできない。


 けれど、この状態と、本人の様子を見るに、決して無事ではないという事だけは分かった。

 

 良くて骨にヒビ、最悪折れてしまっていてもおかしくはないだろう。





「わ、私が周りを見ないでぶつかってしまって……それで、七月先輩が体勢を崩して手で受けちゃって……」




 泣きながら、森原さんが状況を説明してくれた。


 どうやら、数人に別れて試合形式の練習をしている際に、七月君と森原さんが接触し、それをきっかけにこのような事故が起きてしまったらしい。




「とにかく、顧問の先生に連絡して、病院に行かないと……」


「は、はい……」


「ま、待て」




 他の部員の子達と話していると、そっと七月君が立ち上がり、部員達を制止した。


 かなり、無理をしているはずだ。


 痛いし、苦しいはずだ。


 けれど、彼は決してそれを顔には出さなかった。




「真鈴、悪かったな。俺がよそ見してたせいだ、すまん。お前はケガとかしてないか?」


「わ、私は大丈夫ですけど……」


「よし、それじゃあ全員練習に戻れ。俺は一応テーピングで固定しとくから……明日の追い込み、しっかりやれよ」


「えっ!?」




 私を含め、その場にいた全員が凍り付いた。


 しかし、当の本人は本気のようで、そそくさと用具箱の方へと歩いて行く。


 混乱して、何も言えずにその場に立ち尽くしていると、私の隣に立っていた森原さんが、わなわなと震えながら七月君に声を掛けた。




「で、でも……七月先輩……そのケガじゃ……」


「大丈夫だから」




 その問いかけに対して、七月君は優しい笑顔を浮かべてそう答えた。


 しかし……




「あと、監督には絶対に言うなよ」




 続けてそう言った七月君の表情には、ちょっとした威圧感というか、絶対に逆らうなよと言った独裁的な感情が滲んでいた。


 それは、私が七月君と過ごしてきた中で、一度も見た事がない表情だった。


 厳つくて、気難しいところもあるのかもしれないけれど。


 決して他人に自分の思惑を強要し、乱暴に言い聞かせるような子ではなかった。


 それは、他の部員の子達もそうなのだろう。


 明らかに普段とは異なる七月君に、戸惑いを隠せずにいるようだった。




「七月君……大丈夫?」




 表情を強張らせる生徒達を尻目に、私は七月君に近づき聞いた。


 大人の私がしっかりしないといけないと、駄々をこねる子供をコントロールしなきゃと、そう思ったからだ。


 それに、もしかしたら七月君は、森原さんや他の部員のために我慢しているのかもしれない。


 自分が原因で試合に出れないなんて事が起こってしまったら、森原さんはそれを一生引きずるだろう。


 それに、顧問不在時にケガをしたなんて事が公になれば、剣道部の活動に大きな制限がついて、他の部員にも迷惑を掛けるかもしれない。


 部長としても顔が立たないだろう。


 色々な要因が折り重なって、それが七月君を苦しめているのなら、なおさら私が寄り添ってあげなければならない。


 七月君は強くて優しい子だから。


 だから、きっと、何か理由があるはずで……




「あ、大丈夫ですよ。すいません先生、忙しいのに」


「いや、でもそのケガ……」


「あぁ、これくらい全然平気です。こんなの日常茶飯時ですよ。それに、明日は大事な試合があるんで……この程度のケガで音を上げるわけにはいかないです」


「でも……さすがにそんな状態なのを見過ごすわけには……」





 張り付いたような笑顔でそう言う七月君に、私は何度も問いかけた。


 けれど、まったく本心を見せようとしてはくれなくて。


 ついこの間までは、何でも私に相談してくれたのに。


 悲しくなって、寂しくなって、しつこく食い下がった。


 すると、七月君も痺れを切らしたのだろう。




「先生には関係ないじゃないですか!」




 そう、私に怒鳴りつけた。




 その言葉は、決定的だった。


 多分、七月君にとって、私という存在はもう、以前とは全くの別物になってしまったのだろう。


 そう思ってしまうくらいに、私達の間には深い溝ができてしまっていた。


 多分、初めてお互いを認識したあの時よりも、心の距離は遠くなってしまっていたと思う。


 失ってしまったものの大きさを思い知り、私は大人げなく、泣きそうになってしまった。


 すると、そんな私の様子を見てまずいと思ったのか、七月君は微妙な表情を浮かべて言った。




「だ、大丈夫ですから……心配しないでください……」




 そのまま、逃げるように背を向け、男子更衣室の方へと消えていく七月君。


 そんな彼に、私は何もできず、何も言えず、ただその後ろ姿をじっと見つめる事しかできなかった。


 こんなの、大人としても、教師としても、あり得ないだろう。


 こんな、生徒と自分の感情に振り回されて……


 そう、分かっているはずなのに。


 体が、その場から動かなかった。


 声が、想いを形にしなかった。


 私は、教師失格だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る