第49話 大人の苦悩……桜庭春子の場合②

 七月君と初めて言葉を交わしたのは、私がこの学校に赴任してから三か月程度の、桜が散り、本格的な夏の日差しが保健室を照らすようになったぐらいの時期だったと思う。


 その頃の私は、右も左も分からないほどに新米で。


 正直、慣れない仕事や新しい環境でのストレスに参ってしまっていた。


 生徒との温かい交流を夢見て養護教諭になったのに、生徒と親密な関係を築くどころか、自分から積極的に話しかける事すらもできずに三か月もの時間を使ってしまい、焦っていた。


 今時の子は結構ドライなのかな……なんて言い訳をして、何とか自分の精神を保つ日々。


 明らかに自分の主体性のなさと要領の悪さが原因なのに、それに目を向けず、そっぽを向いて、現実を誤魔化していた。


 ただ、やっぱり生徒と仲良く話してみたいと言うか、そんな思いは日に日に強くなっていくわけで……


 そう、放課後の誰もいない保健室で、焦りや葛藤に追いやられている時だった。


 突然、ドアが乱暴に開き、誰かが室内に入ってきた。


 驚いて目を向けると、そこには般若のような形相をしたガタイのいい男の子が、かなり不機嫌な様子で立っていた。


 不愛想に浅く頭を下げる彼につられて、思わず私も頭を下げる。


 状況を良く整理できずに、ただただ黙ってその場の空気に身を任せていたけれど、内心ではかなりビビってしまっていた。


 穏やかで優しそうな男性にですら緊張してしまう程男性経験の少ない私にとって、今目の前に立っている彼の存在は異質というか、難易度が高すぎた。


 正直、少し泣きそうになってしまっていた。


 どうしてここにヤンキーが!? 


 そう叫び出してしまいたい気持ちを必死に抑えて、私は彼に声を掛けた。




「え、えっと……ど、どうしたの?」


「……部のテーピングが切れてしまって、包帯とかないですか」


「あ、あぁ、そうなんだ……ちょっと待ってね……」




 死ぬ程低い声で帰ってきた返答に、冷や汗が止まらなかった。


 まるでカツアゲされているような、そんな気分。


 従わなければ何をされるか分からなかったので、私は急いでテーピングとはさみを用意し、治療してあげようとする。


 しかし、彼にはそのつもりはなかったみたいで、また軽く頭を下げて私から備品を受け取ると、黙々と自分でテーピングを巻きつけ始めた。


 保健室に、居心地の悪い沈黙が充満する。


 き、気まずいぃぃ……


 え、ここでやるの!?


 全然いいけど、それなら何か話してくれても……


 いや、私から話しかけるのは絶対に無理。


 だって、怖いもん。


 でも、この子の方から話しかけてくることは絶対にないだろうし……多分そう言うのを嫌う無骨な子なんだと……あぁ、やっぱり、テーピングもぐちゃぐちゃに巻いてるし……

 

 几帳面な性格が作用したせいか、一度目に着くと、彼の適当な治療が段々気になってしまう。


 そうして養護教諭としての責任を感じ、我慢できなくなった私は、痺れを切らして声を掛けた。


 いつもの自分では、あり得ないような行動だったと思う。


 恐らく、恐怖で色々な感情や情緒が麻痺してしまったのだろう。


 多分、この子じゃなかったら話しかける事は出来なかったと思う。




「ね、ねぇ……」




 そうして、私が治療するのを提案すると、案の定その子は嫌がった。


 けれど、私も今更引くに引けないというか、教員としてのプライドがあったので、しつこく食い下がった。


 無意識の内に、このチャンスを逃したら、生徒と上手に会話をできる機会なんて一生来ないと、そう思ってしまったのかもしれない。


 柄にもなくガンガン攻めると、面倒くさくなったのか、彼は私の要求に従ってくれた。


 嫌そうに手を差しだす彼が、最初の印象とのギャップで可愛く見えて、少しだけ余裕が出てきた。


 彼の手は、びっくりとするくらいごつごつと大きくて、豆が沢山あった。


 思い返せば、男の人の掌をこんなに丁寧に触ったのは初めてだったかもしれない。


 平均的な男性の掌というのが分からないので、この子がどんな子で、何をしている子なのかは上手く読み取ることができなかった。


 けれど、掌にある豆と言えば、世間一般のイメージで言えば……




 この子、もしかしたら野球部!?




 そう思うと、目の前にいる警戒心の強い彼が、更に可愛く思えてきた。


 どれだけ厳つい風貌をしていようと、野球をやっている子に悪い子はいないとお父さんが言っていたような気がする。


 確かに、掌がこんなになるまでに何かに打ち込める子は、きっと真面目な子なんだと思う。


 何だ、私の勘違いだったんだね。


 疑って、本当に申し訳な……いや、ユニフォーム着てないし、髪も生えてるから野球部じゃないわこの子。


 袴着てるし……剣道部……かな?


 剣道部……確か、三年生の子の素行はあんまりよくなかったような……


 うわっ!? じゃあ、やっぱりこの子も不良だ!




 予想が外れて余裕がなくなった私は、またビクビクしながら治療を続ける羽目になる。


 しかし、彼の袴の袖を捲った瞬間、それらの事がどうでもよくなってしまうくらいに動揺した。


 肌が青く変色し、ところどころに腫れや傷がついていた。


 こんなにひどい状態のケガを、私は初めて見た。


 明らかに異常だと、そう思った。


 やっぱり、この子は不良なのだろうか。


 喧嘩とか……もしかしたらいじめという可能性も……


 いいや、何があったとしても、生徒が、子供が危険な目に遭っているのだとしら、教師として見過ごすわけにはいかない。


 一瞬で教師モードになった私は、ゆっくりと彼の目を見据えて聞いた。




「これは……部活で負ったケガなの?」




 私が聞くと、彼は静かに頷いた。


 とりあえず、悪い事をしたり、巻き込まれているわけではないと知れて安心した。


 しかし、問題は解決してないどころか、むしろ深刻なようにさえ思えた。


 子供達の自主性や協調性を伸ばし、個性を磨くための部活動で、ここまで追い込む必要はあるのだろうか。


 誰がどう見ても健全ではないと思った、憤りすら感じていた。

 

 場合によっては他の先生に相談して、今すぐに部活動の停止を……とすら思い詰めた。


 けれど、彼から返ってきた言葉に、私は更に頭を悩ませることになる。




「これは、今の自分に必要な事なので」




 そう言う彼の瞳には、確かな決意と、燃え上がるような意思が込められていたように思う。


 理由があって、目的があって、彼は今の状態を受け入れていたんだろう。


 苦しい事、悲しい事、大変な事。


 大人ですら、それらを前にした時には、自分にどれだけ利益があろうとも逃げ出してしまいがちだ。


 けれど、それを成人もしていない男の子が耐えているというのだから驚いた。


 同時に、私は彼になんて声を掛けていいのか、自分がどうしたらいいのか分からなくなってしまった。


 彼が必要だと言っているものを、私の偏見や感情を優先して取り上げていいのかと、そう葛藤した。


 そうして、悩んで、悩んで、悩んで。


 何かあったら、真っ先に私に相談する事を条件に、目を瞑った。

 

 それだけは、譲れなかった。


 この時点で、彼への恐怖は心配へと変わり、目標のためにひた走る少年に好感すら覚えていた。


 まるで、気分屋の飼い猫のような、世話の焼ける弟のような、そんな感情を彼に抱いていた。


「真面目だね」と褒めた時の彼の少しだけ照れたような表情は、いまでも忘れられない。




 それから、七月君は度々保健室に顔を出すようになった。


 多分、備品目当てで来ていたのだろうと思うけれど、それでも、彼と何気ない話をしたり、愚痴を聞いて、アドバイスしたりするのは楽しかったし、頼られるのは嬉しかった。


 教諭としての私の存在が肯定されたような、そんな気がしたからだ。


 七月君と話をするようになってから、他の生徒とも自然な交流ができるようになった。

 

 それもそうだろう。

 

 あんな強面の生徒に勇気を出して話しかけることができたのだ。


 自信もつくし、余裕も持てる。


 もし、あの時、勇気を出さずに、七月君の本当の姿を知らないままでいたらどうなっていたのだろうかと思うと、少しだけ怖くなる。


 きっと、あのまま自分の殻を破る事ができずに、一人寂しく保健室で燻ぶっていたのだろう。


 七月君のおかげで、私は変わる事ができたのかもしれない。


 そう思う時点で、七月君に対して、他の生徒に向ける感情とは別のものを抱いていたのかもしれない。

 

 その感情をなんて呼んでいいのかは分からないけれど。


 きっと、私にとって七月君は……




 『特別』、だったんだと思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る