第10話 少女の恋……森原真鈴の場合②
そうして、七月先輩への想いが更に深くなってから数日が経った日の朝練の後、事件は起きた。
「あーいい汗かいたー」
「お、お疲れ様です」
「おぅ、おつかれ」
朝練終了後、武道館前に設置されている蛇口を捻ってタオルを濡らしていると、不意に背後から胸を躍らせる声が聞こえてきた。
振り返ると、そこには七月先輩がいた。
朝日に照らされた汗が煌びやかに光る首元に手拭を掛け、ご機嫌な様子でこちらに近づいてくる。
基本的に、七月先輩は稽古が終わった後は比較的機嫌が良くなるように思う。
いや、いつもは表面的に機嫌が悪いように見えているだけで、本当に機嫌が悪いわけではないのだけれど、それでも、健全に汗を流した後にはスッキリとしたような、子供のような笑顔を見せがちなのだ。
正直、七月先輩のこの表情が見られるのは、剣道部員ならではの特権だと思う。
普段は怖いのに、ふとした瞬間にこんな無邪気な顔を見せたりする。
これで堕ちない女子など、存在するのだろうか。
いいや、存在しない。
そもそも、七月先輩は相当にモテる。
本人にその自覚がないだけで、私と同じ学年の一年生だけですら、七月先輩を狙ってる子や、憧れている子が多い。
私はどっちに属しているのかと言うと、前者に限りなく近い後者だ。
七月先輩に恋心を抱いてはいるが、自分が七月先輩と釣り合うとは到底思えないという矛盾した感情を抱いている。
そんな風に思ってしまうくらいに、七月先輩はハイスペック過ぎる。
顔もいい、頭もいい、性格も男らしい、剣道も強い、おまけに生徒会副会長だ。
こんな、物語の主人公みたいな人を、私は未だかつて見たことがなかった。
とても、自分が隣に立てるような人間になれるとは思えなかった。
きっと、七月先輩と付き合うような人は優しくて、大人っぽくて、モデルみたいな人なんだろう。
七月先輩はそんな彼女を大切にしていて、真剣な表情で彼女の名前を呼び、肩に手をかけて「お前が好きだ」と言うのだろう。
多分、そうなんだろうと思う。
「真鈴」
「は、はい?」
「おまえ……」
突然、七月先輩がこちらに振り返り、私の名前を呼んだ。
何時になく真剣な眼差しで私を見つめ、肩に手を置く七月先輩。
え……えぇ!?
いや、違う、勘違いするな私!
たまたま、本当にたまたま、私の妄想上の七月先輩と現実の七月先輩がリンクしてしまっただけで。
七月先輩が、私に“好き”だなんて言葉を掛けてくれる可能性なんて、万に一つもあり得ないわけで。
あり得ないはず……なんだけど……
でも、それでも、その万が一、そんな奇跡が起きてしまったら、私は……
「竹刀振りおわった後に姿勢が崩れる癖、また出てたぞ。言っただろ、ポイント取った後も殺す気でやれって」
「…………」
少女の淡い期待はあっけなく砕かれ、王子様から送られた「殺せ」という言葉だけがその場に木霊する。
………………。
……分かってたけど! 分かってたけど!
七月先輩、それはあんまりです(泣)。
でも、仕方ないんだ。
七月先輩はこういう人だし、私はこういう七月先輩を好きになったのだから。
きっと七月先輩に肩を並べられる日なんて来ないだろうし、私がこの気持ちを七月先輩に伝えようと覚悟を決められる日も未来永劫来ないのだろう。
でも、それでいいんだと思う。
このまま、後輩として適度に可愛がってもらえる立ち位置にいれば、必要以上に傷つくこともない。
だから、このままでいいんだ。
いっその事、想いの丈を全て伝えてしまった方が楽になれるのかもしれないけど、私にはそんな勇気はなかった。
現状の、悪くない関係性が壊れてしまうのが怖いからだ。
全て消えてなくなってしまうくらいなら、妥協でできた偽物の感情に寄り添った方がいい。
結局、こんな素敵な人の隣に立てるのは、勇気や度胸のある自立した女性なのだと思う。
どんな時でも、どんな場所でも自分の気持ちに素直になれる、そんな可愛らしく、芯のある女の子なんだと思う。
突然、「あなたが好きです」と、勇気を出して言えるような、そんな人なんだと思う。
……あはは、そんな事、私には絶対に無理……
「先輩」
「んー?」
「私、先輩の事が好きです」
「……は?」
……ん?
…………んん?
………………んんん!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?
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