第9話 少女の恋……森原真鈴の場合①
私、
その人の名前は「七月剣」。
同じ部活に所属する、一つ年上の先輩だ。
地獄のような夏の暑さを抜けて、心地よい風が武道館の窓から通るようになった初秋。
今日も今日とて、私は竹刀を振り、大粒の汗と共に小さな悲鳴を垂れ流す。
こんな苦行にも近い行為を自発的にやっている理由は、実は自分でもよく分かっていない。
元々争い事を好まないような性格だったし、中学生の頃は手芸部に所属していたくらいだ。
それ故に、自分は人と比べても大人しい人間なのだと、そう信じてやまなかった。
ましてや、棒で人を叩くなんて……と、そう震えあがってしまうほどの臆病者。
だから、こんな血で血を洗うような場所に身を置いている今の自分が、正直不思議でならなかった。
どうして、こんな自分の性には合わない、厳しく険しい道を選んでしまったのか。
それは、今、私の隣で一心不乱に竹刀を振るっている一人の先輩のせいだった。
「真鈴!」
「は、はい!」
「稽古中よそ見してると怪我するぞ! 気ぃ引き締めろ!」
「す、すいません!」
武道館に、七月先輩の低く太い声が響く。
打ち込み中、不意に目に入った先輩の姿を追っていると、気配を察知されたのか、すぐさまこちらに振り返って、厳しいお叱りの言葉を頂いた。
さ、流石は七月先輩……五感を超越した何かで部員を監視している……
こういう風に注意を受けるのは、割と日常茶飯事だったりする。
皆真剣に競技に向き合っているという何よりの証拠だし、それくらいに剣道という競技が危険だという事を物語っているので、ピリピリするのは仕方がない。
分かっているし、弁えてもいるつもり……なんだけど。
別に私が憎くて言っているわけではないと、そう頭では理解しているつもり……なんだけど。
でも、それでも、気持ちを寄せる人にそんな風に言われてしまうと、ちょっぴり、ほんの少しだけ落ち込んでしまう。
……だ、ダメだダメだ!
変に落ち込んで注意散漫になると、本当にケガをしてしまいかねない。
とにかく、今は練習に集中しよう。
終わるまで、七月先輩の事は考えない。
あぁ、でも、嫌われちゃったかなぁ……
……あ、ダメダメ!
……でも、見限られたりしたら……
……あ、ダメダメ!
……でも……でも……
……もう、何やってんだろう私……
そうして、心ここに在らずのまま打ち込みが終わり、10分の休憩に入る。
外した面から、大きく乾いた溜息が零れ落ちる。
タオルで汗を拭っていると、力強い足音がこちらに近づいてきた。
驚いて音のする方向に目を向けると、その先には七月先輩の姿があった。
物凄い勢いでこちら側に近づいてくる。
……え、なに!?
私、何かしちゃった!?
あ、もしかしたら、さっき余所見していたのに怒って……
「真鈴」
「ご、ごめんなさい!」
咄嗟に手を体の前に出して降伏のポーズを取り、自分が犯したミスに対する謝罪をする。
そのまま少しの時間が過ぎた後、私は恐る恐る七月先輩の顔を覗き見た。
どんな般若面なんだろうと震えあがっていると、意外にも七月先輩は怒ってはおらず、それどころか、少し困惑しているご様子だった。
「何で謝るんだよ?」
「えっと……さっき余所見してたので、その制裁に来たのかと……」
「はぁ?」
私がそう言うと、七月先輩は困惑した表情を歪ませた。
その形相は、まるで般若のようだった。
……け、結局般若じゃないですか(泣)
「お前は俺を何だと思ってるんだ……」
「いや……すいません……でも、七月先輩いっつも怒ってるから……」
「怒ってないだろ!」
「ひっ! い、今怒ってるじゃないですか!」
「あぁ? あぁ、すまんすまん」
「えぇ……」
全く嚙み合わない言葉の応酬に、二人揃って首を傾げる。
混乱した私が何も言えずにいると、そんなのお構いなしに七月先輩が口を開いた。
「まぁ、なんだ、とりあえず……」
「……?」
「体調悪いなら、無理はすんなよ」
「えっ……あ、はい、あ、ありがとうございます……」
「おぅ」
ポンっと肩を叩きながら、私にそう言う七月先輩。
それだけ言うと、すぐに自分の防具が置いてある位置に戻り、他の先輩方と少しだけ言葉を交わした後、竹刀を素振りし始めた。
……うぅ……やっぱりかっこいい。
確かに厳しいところもある。
表情や言動が荒々しい時もある。
でも、それ以上に優しいというか、そんな事がどうでもいいと思ってしまう程に、七月先輩は部員や後輩思いで、人を思いやる心に溢れていた。
だから、剣道部の皆も七月先輩を尊敬しているし、七月先輩が言う事に誰も逆らわずに、疑いも持たない。
まるで、ツンデレな黒猫みたいな、そんな感じ。
強かな愛嬌と、凛とした美しさ。
その両方を、七月先輩は持ち併せていて……
本当にズルいと、そう思う。
ついさっき、七月先輩に言われた言葉が脳裏を過る。
『体調悪いなら、無理はするなよ』
そう言う七月先輩の表情は、いつも通りの不機嫌そうな仏頂面だったけれど、心なしか、ほんの少しだけ笑っているようにも見えた。
本当に……もう……
普段、怖くて厳しくて恐ろしいけど尊敬している先輩に、そんな赤子をあやすような優しい感情を向けられてしまったら、ウブでお堅い子供の私がどうなってしまうのかなんて決まっている。
……もっと、七月先輩の事が好きになってしまう。
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