あの時の約束
雨月
第1話
「ねえ、あれ買ってきた?」
大晦日の昼下がり。妻のジーナは買い物から帰ってきたばかりの僕にそう訊ねた。
「あれって?おせちで足りないって云うものは大体買ってきたつもりだけど」
「そうじゃなくて。あれ」
妻の言う『あれ』というのは年越しそばの事だった。
しかし、我が家の年越しそばはよそ様とは少し違う。というか、ずいぶんと質素だ。
「ああ、もちろん。だけどあれでいいの?何だったら外に食べに行こうか?」
「だってお店は混んでいるだろうし、それにお店に行ってお蕎麦だけを食べるなんて淋しいじゃない」
ロシアのサンクトペテルブルクで生まれ育った妻は、賑わう大晦日の蕎麦屋に入って、行く年を惜しみそばをすするという風習が分からないのだろう。
「そうかなぁ」
僕はまだリビングに飾ってあるクリスマスツリーを見ながら、少し不満げに言った。
すでにクリスマスは過ぎていたが、ツリーを片付け忘れたわけではない。
妻の故郷のサンクトペテルブルクでは、お正月を過ぎてもツリーを飾っているらしい。なんでもサンタクロースはクリスマスではなくてお正月にやってくるのだそうだ。もちろんその人はサンタクロースという名前ではないのだが。
年末の我が家は日本とロシアの風習が入り混じっていた。
妻のジーナとはロシアのサンクトペテルブルグで知り合った。
6年前。僕は会社の転勤で2年間の期限付きでロシアのサンクトペテルブルグで働くことになった。
北欧の諸国と隣接するその大都市は、僕の思い描く北欧の景色そのものだった。
その街並みを闊歩する僕はその街の美しさに心を奪われながらも、見知らぬ土地で2年間もやっていけるのか不安でいっぱいだった。
大学時代に第二外国語としてロシア語を専攻していたが、実際に話す・聞くとなると怪しいものだ。
そんな不安な気持ちを一掃してくれたのが、同じ会社の支社で現地勤務をしていたジーナだった。
ジーナは金髪で青い目をしている典型的なロシア女性だが、その口からは少し片言交じりだが、日本語を話してくれるので彼女といるときは安心できた。
彼女は自身の仕事もあるのだが、当時その支社で日本語が一番堪能という事で、僕をサポートしてくれる役目となった。
同じ会社とは言え、異国の地で孤独だった僕は、そこではあまり聞くことのない日本語を話す彼女にいる時が一番安らぐことができた。
彼女は日本語が堪能だけではなく、日本の文化や生活にも興味があるらしく、何かにつけて僕に日本の事を訊いてきた。
一方僕は、身近で唯一日本語が話す事のできる彼女に親近感を覚え、現地での生活のほとんどを彼女に頼ることになった。
そんな僕たちは、いつしか自然に惹かれあうようになった。
彼女のおかげで僕のロシア滞在は大変有意義なものとなった。
僕は期限付きの転勤なんてことはすっかり忘れ、彼女との関係が永遠に続けばいいと思った。
しかし、現実はそうはいかなかった。
二年目の大晦日の夜。僕はまだ仕事に追われていた。
来春、日本に帰る僕は、この地での成果や引継ぎの為の資料の作成に追われていた。
ロシアでは、大晦日はもうお正月気分らしい。当然ジーナも家族とゆっくり年末を過ごしていると思っていた。
僕が夜中までパソコンと格闘していると、オフィスのドアが開く音がした。
「だれ?」
僕はドアの方を振り向いて言った。
「ワタシ。マダ仕事しているの?」
見るとジーナだった。
「ああ。そろそろ帰ろうかと思っていた所だよ。ジーナこそどうしてここに?」
「タカシの事が気になってきちゃった」
僕のデスクの回りだけ照明をつけていたため、ジーナが立っているところは少し暗かった。
「タカシの国ではオオミソカでも働くの?」
ジーナは僕に近づきながらそう言った。その時ジーナの表情は少し悲しげのように見えた。
「そんな事はないよ。でも、春には日本に帰らないといけないから書類の整理とかが忙しくて」
「そう」
そう漏らしたジーナの顔は一層悲しげになった。
「でも、ここにはまた何回か来るから、そんなに悲しい顔をしないで」
実際、しばらくはこの街に何回か仕事で来ることにもなるだろうし、プライベートでも来るつもりだった。
それに最近ではネットでテレビ電話だってできる。
僕はそう思っていた。
すると、ジーナは近くにあったキャスター付きの椅子に座り、僕の隣に来た。
「タカシの国ではオオミソカは何もしないの?」
「何もしないって?」
「タトエバ、なにかを食べるとか?」
「う~ん、そうだな。年越し蕎麦を食べるよ」
「トシコシソバ…?」
日本語が堪能な彼女でも年越しそばはわからなかったようだ。
「そうだね。ええとこれ。これを食べるんだよ」
僕はデスクの一番下の引き出しから、いつも残業の時などに食べているカップ麺を出した。
それは今夜食べようと思っていた“緑のたぬき”だった。
引き出しの中にある数種類のカップ麺は、日本のものが食べたくなるだろうとの会社の配慮で、たまに日本から送ってきてくれたものだった。
「オオミソカはカップメンを食べるの?」
「そうじゃないよ。これは蕎麦。ラプシャ(麺)ではなくてグレーチュカ(蕎麦)なんだ。大晦日にそばを食べると、来年は細く長く健康で過ごせるって云うんだよ」
僕は一般的に言う麺と蕎麦が違うと言った。
「そうなの?それでこれ?」
「うん。これも立派な蕎麦だよ。あっそうだ。これ丁度二つあるから一緒に食べようか」
僕がそういうとさっきまで悲しそうだった彼女は少し笑顔になった。
早速お湯を沸かして、お湯を入れて3分待った。
蓋を開けてみると
「コノ薄い黄色の丸いものはナニ?」
ジーナは天ぷらが何なのかわからなかったようだ。
「これは天婦羅」
「テンプラ?ワタシの知っているテンプラは海老とかが入っていて、サクサクした感じだけど」
「じゃ、食べてごらん」
僕がそう云うとジーナは箸を器用に持ちながら、その天婦羅を口に運んだ。
「少し硬いけどサクサクしてる。それとダシにツカッテイル所は良い感じにヤワラカクテおいしいわ」
彼女は天ぷらも気に入ってくれたようだった。
次にそばを上手にすすって僕の方を見た。
「蕎麦のすすり方上手だね。ちゃんとできているよ」
「なんか、日本では蕎麦はこういう食べ方って本に書いてあったから、練習したの」
「日本の事、勉強してくれているんだね。嬉しいよ」
「うん。ワタシ来年のオオミソカもタカシと一緒にこれを食べたい」
来年の大晦日には僕はすでに日本にいる。
ジーナのその言葉に僕は、このままこのサンクトペテルブルグに住もうかと思った。
その時まさかジーナが日本に来てくれるとは…結婚して一緒に住んでくれるとは夢にも思ってもいなかった。
ロシアの大晦日はすでにお正月のようで、うちの食卓にもすでにおせち料理などのご馳走がテーブルの上に、ところ狭しと並べられていた。
その中には場に似合わない“緑のたぬき”が二つ置いてあった。
「これは私たちの約束だから。大晦日にはこれを食べるの」
「もうそろそろ普通の蕎麦でいいじゃないの」
僕はそういったが、彼女は
「約束だから」と言って嬉しそうに笑った。
遠い異国の地で僕を頼りに暮らしてくれる彼女に僕は感謝した。
彼女も僕が初めて赴任したサンクトペテルブルグにいた時のように、不安な気持ちでいっぱいだったに違いない。
毎年この日に“緑のたぬき”を見るたびに、僕は妻への感謝と彼女を安心させられる存在でないといけないと自分に言い聞かせる。
「今年もこれを食べることができたね」
僕がそういうと
「うん、よかった。今年一年もありがとう」
熱いそばをお互いフーフー言って食べるその彼女は、あの時と全く変わっていなかった。
あの時の約束 雨月 @nob-onda
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