濃霧の帝都
水鏡宰
In London/one
ロンドン。ここは1895年現在において、間違いなく世界最強の海洋立国の帝都といえるだろう。
クイーン・ヴィクトリアの治めるキングダム。著しく発展した機械産業により、薄灰色のロンドン・スモッグが街灯を霞めている。この濃霧は発展という名の薬の副作用だった。
圧縮された蒸気が通過する為の鉛色の管が英国中に張り巡らされ、上空から眼下の都市を見下ろすと、まるで人体の毛細血管のようにグロテスクに見える。また、管は大量のガスを送り込む為、時々痙攣するようにピクピクと蠢いているのが気味悪かった。
チャールズ・バベッジの計算機が開発されてからというもの、英国の各家庭に階差機関が設置された。それは小型ながらも稼働には大量の圧縮した蒸気を必要とする。この毛細血管はすべて階差機関に送り込まれ、動力源はもちろん、ROMといった記憶回路や、保存に用いられるのである。ただ、私は機械については疎い。大量の小さな歯車が噛み合う音を出すからくりが、どうして僅か数秒で膨大な計算を行えるのかなんて知りもしない。
朝なのか昼なのかは懐中時計かビッグ・ベンでも見ないと分からないくらい、昼夜構わず空は曇っていた。私は緑色のテムズ川を眺めながら、コートから取り出した葉巻に火を付ける。マッチの炎が私の眼鏡に反射した。
「ハミルトン・フォード教授」
背後で声がしたので私は振り向いた。
「オットー君か。久しぶりだな。どうだ記事は完成したか?」
オットー君はロンドン・タイムズの記者で、二年前までケンブリッジ大学にある私のラボの研修生だった。少女のような顔立ちの青年で、まるで人形みたいに冷たい表情をしていた。私と共にロンドン・スモッグの人体への影響について研究していたが、たいした研究論文も完成しないまま彼は新聞記者となった。
「ええ。我が帝国は遂にアフガニスタンに侵攻したようですね。今日の夕方には軍艦ロイヤル・プリンシプル号の艦隊がインド洋からアラビア海に入るので、それを記事にしますよ」
私はため息を付いた。戦争の話を聞くのは御免だったからだ。
「また沢山の人間が帝国の犠牲になるのかな」
煙を吐き出しながら言った私の皮肉に、オットー君は顔をしかめた。
「御言葉ですが教授、これは聖戦なんですから、そのような発言は控えなければなりませんよ。ロシア帝国が中東地域を統轄するような事態に陥ればいくら我が国でも対応しきれなくなる。僕のチャールズ・バベッジの計算も帝国の戦争の勝利は約束されると結果が出ています」
聖戦か。また、私は煙を吐いた。
「そんなことを私に伝えるためにわざわざ来たのかい?」
いいえ、と言うかのように軽く首を振るとオットー君は何やら懐から封筒を一つ取り出し、私に差し出した。
「僕が社長から預かったものです。これを貴方に、と。差出人は陸軍参謀本部からです」
恐る恐る私は封筒を受け取る。陸軍。あの深紅の軍服にマルティニ・ヘンリー銃を肩に担いだ我が物顔の兵隊たち。なぜだ。こんな大学の一教授である私に軍がいったい何の用があるのか。
「重要書類なので必ず誰の目にも届かない場所で開封してください。では、僕はこれにて」
そう言い残すと、オットー君は濃霧の中へと消えていった。
特大なため息をつきながら私は一人テムズ川の岸辺に立っていた。
濃霧の帝都 水鏡宰 @winter-mute
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