第3話
「まあ旦那かどうかは別にしても……」
ちらりとカレンダーに目をやりながら、同じソプラノの友人が、いかにも女性らしい話題を振ってくる。
「……親しい男の子なんだから、チョコは渡すんだよね?」
「私が? 玲斗に?」
内心では動揺しながらも、わざと不思議そうな表情を作る千代子。
迂闊なことを言えば、からかいの種が増えるだけだろう。そう思って、心にもない言葉を返す。
「そんなつもりなかったんだけど……」
ピアノ椅子に座る先輩の方へ、助けを求めるような視線を送った。
「……同じサークルだし、義理チョコくらいはあげる必要、ありますかね?」
「その必要はないわ」
先輩はにっこりと笑いながら、千代子の期待とは逆の言葉を突きつけてきた。
「うちのサークル、結構人数が多いからね。同じサークルメンバーってだけで義理チョコ送ってたら、キリがないでしょう?」
だから形式的な義理チョコは、パートごとにまとめて行う。千代子の所属するソプラノならば、テナー向けに一箱、ベース向けに一箱。合わせて二つ、ソプラノ全体で用意するだけだという。
「もちろん、個人的に誰か一人に渡すのは、止めないけどね」
先輩の微笑みが、ニヤニヤ笑いに変わる。
最初にバレンタインの話を持ち出した友人も、同じ表情で、千代子の肩をポンと叩く。
「じゃあ千代子は、彼にあげなきゃダメだね。なんてったって、旦那なんだから!」
「何度も言わせないで。旦那じゃない、って言ってるでしょ」
「じゃあチョコもあげないの?」
「もちろん! そんな関係じゃないもの、私と玲斗は」
きっぱりと千代子は言い切ったのだが……。
正直なところ、千代子も前々から「彼にバレンタインのチョコレートをプレゼントしたい」と考えていた。
恋愛感情ではないかもしれないが、いつも二人で一緒に行動するくらい、彼を好ましく思っているのだ。付き合っているように言われたら否定するのは、事実ではないからという理由だけであり、そう言われると少し嬉しくなる気持ちもあった。
千代子にとっての玲斗は特別な友人であり、本命チョコではないにしても、あげるのが当然。千代子はそう思ってしまうが、あくまでも千代子の見方に過ぎなかった。
彼の方はどうなのだろう、と千代子は心配になる。渡した時に「なんで?」と言われたらショックだし、実際そう言われる確率が高いのではないか、と想像してしまうのだった。
そもそも玲斗は、バレンタインのような俗っぽいイベントには疎い男だろう。
早くも将来の研究室を見据えているように、とても真面目な学生であり、千代子は何度も彼の口から「学生の本分は勉強」という言葉を聞かされていた。それが玲斗の、座右の銘らしい。
そんな玲斗が大学のサークルに所属しているのは、千代子には少し不思議に思えた。だから一度、サークルからの帰宅途中に、質問してみたことがある。
「なんで玲斗は、合唱サークルに入ったの? 玲斗にとって大切なのは、学業だけなんでしょう?」
「好きだからね、歌うのが。趣味は気持ちの問題だろう? 大切とか重要とか、そういうのとは別次元さ」
確かに、サークル内における玲斗の様子を思い返してみれば、ただ真剣に歌っているだけだった。飲み会やハイキング、スポーツ大会など、音楽と無関係のイベントには、ほとんど参加していなかった。
なるほど、彼の選んだサークルが『合唱団』ではなく『音楽研究会』なのは、いかにも玲斗らしい。
そうやって考え込む千代子の様子を見て、玲斗は誤解したようだった。
「もしかして、僕が勉強以外に時間を費やすのって、ポリシーに反するように見えるのかい? いいんだよ、人間は矛盾の塊なんだから」
彼の口元に照れ笑いが浮かぶのを見て、「学生の本分は勉強」と言い張る玲斗にも人間臭い部分があるのだ、と千代子は感じる。
言い訳がましく聞こえるのではなく、むしろ好感を覚えるポイントだった。
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