厳冬に偲ぶ
萩宮あき
厳冬に偲ぶ
結露で曇った教室の窓を指で擦り、
「とうとう雪が降って来たよ」
この古びた教室――もとい部室には今日も二人きりであった。
文芸部員は総勢十名。
そのほとんどが幽霊部員である。気紛れで顔を出すような連中も冬休みともなれば足は遠い。それでも僕と栞は学生寮の生徒であるが故、光熱費を浮かせる為にこうして涙ぐましい文芸活動に勤しむのである。
僕は石油ストーブに給油を終え、手についた匂いを気にしながら顔を上げた。
栞はまだ外を見詰めている。
「幾ら睨んでも天気は変わらないよ」
今年はブロッキング高気圧やらラニーニャ現象やら、得体の知れぬ難解なものの所為で天気は大荒れで、近く大寒波が襲来するだろうとニュースでも言っていた。
だからといって世界が滅ぶわけでもない。
部室は変わらぬ平穏の底にある。
「無粋なことを言うと嫌われるよ」
「誰に?」
「そういう所も本当に、無粋」
白い溜息を一つ吐き出すと、栞はストーブの傍に机を構えて悴んだ手を温め始める。
僕は窓の外を見遣った。彼女が何を見ていたのか気になっていた。けれども、そこには見慣れた校舎裏の景観が横たわっているばかりである。
白樫が薄く雪化粧を纏いながら鈍色の空を仰いでいる。雪は本降りであった。その静謐な情景を眺めていると、背中に彼女の視線を感じた。
不意に荒っぽい音を立てて教室のドアが開いた。顧問の高橋である。
「おお、今日は一段と寒いな。これから更に冷え込むらしいから、お前らも風邪を引かんようにな。ストーブを点けて時々換気もすること。あとこれ差し入れ」
矢継ぎ早に言うと、彼は手に提げていたビニール袋を教卓の上に置いた。
「他に何か用はあるか」
この言葉は、毎々繰り返される我が部の合言葉である。
「特にありません、何時もありがとうございます」
「それは何よりだ」
高橋は冷えた手を擦り合わせながら満足そうに頷くと、顧問の役目は果たしたとばかりに疾風のように姿を消した。
彼はバレー部の顧問も兼任していて、どうやらそちらの方に熱を上げている。願ったり叶ったりである。ここに居据わられては息苦しくて敵わない。
「差し入れご苦労であった」
ぼそりと栞が言い、二人して声を殺すように笑った。
「現金なやつだな」
ちょうど小腹が空いていたし、こう寒いと胃の底から温まりたい気分である。僕らはいそいそと薬缶を持ち出してきて、湯を沸かす準備を始める。
今となってはアンティークのようなアルマイト製の黄金色をした薬缶である。
実際、年季が入っていて側面が凹んでいる。築三十余年のレトロな校舎にぴったりな一品である。
「暫し待たれよ」
栞がストーブの上に薬缶を乗せた。
差し入れの中身は何となく察しが付いていた。総じて幾つかのパターンがあって、寒い日は大体これと決まっている。
お茶のボトルが二本、そして言わずと知れた即席麺――赤いきつねと緑のたぬき。諍いを生まぬよう同じものにすべきだと思う傍ら、この二つをセットで買ってしまう気持ちも分からぬではない。
しかし何を以てこのチョイスとなり得たのか。まさかお似合いの二人という暗喩が込められてでも居ようか。いや、あの顧問にそんな繊細な業ができるとも思えない。流石に勘繰り過ぎというものか。
ふと顔を上げると、栞が両手に即席麺を持って赤と緑の表紙を見比べている。どこか思案げな面持ちであった。
「好きな方を選びなよ」
そんな言葉を掛けたが、僕は彼女が赤いきつねを選ぶと思っていたし、普段なら彼女にそちらを手渡していた。栞はそちらの方が好きだと信じていたのである。
だから彼女が緑のたぬきを選んだことが意外でならなかった。
「遠慮することないのに」
僕が言うと、栞は今までに見せたことのない不思議な顔付きをした。伏し目がちに、照れているような、拗ねているような。その表情に、少しどきりとした。
「やっぱりね」
「え、やっぱりって何が」
つい鸚鵡返しに間抜けな返事をしてしまった。
「いつも気を利かせて
思いも寄らなかった。
今まで良かれと思って、剰えその配慮に紳士面まで浮かべながら、勝手な思い違いを押し付けていたというのである。
「言ってくれればよかったのに」
「そっちの方が食べたいとか騒いだら、がっついてるように思われそうで嫌だし」
「女の子はそのぐらいの方がモテると思うけど」
「誰に?」
「その質問は無粋だったはずでは」
「意趣返しよ」
屈託なく笑う栞を見て、僕も自然と相好を崩す。この心地よい旧態依然の関係に何か呼び名はあるのだろうか。
やがて湯が沸いて甲高い音が鳴った。薬缶が熱の息を吐き出す。僕は神聖な儀式の様相で薬缶を手に取り、二つの容器にお湯を注ぐ。後は待つばかりである。
暫し無言となった。
我々は苟も文芸部員である。この時ばかりは銘々の持ち寄った文学作品を颯爽と構え、申し訳程度の文芸活動が始まる。束の間、ストーブの火が揺れる音だけが部屋を満たす。
窓の外では雪が一段と激しさを増し、世界を純白に染め上げている。僕らは二人だけの世界に取り残された。
「よし、きっかり三分」
栞が沈黙を破り、本を閉じた。
この短い間に一体何が読めたというのか。これには漱石先生もがっかりであろう。夏目漱石ならぬ、涙目漱石である。嘆息が聞こえてくるようだ。否、これは嘆息ではない。栞が蕎麦に息を吹きかける音である。
栞は一足先に蓋を開けて食べ始めていた。何とも無邪気な顔である。僕は少々観察の目を向けた。なるほど、彼女は天ぷらを先に入れるタイプであった。つゆに浸して柔らかくし、それを
気まずくも有意義な二分間である。僕は本を読んでいる振りをしながら、栞が蕎麦に食らい付くのを見ていた。中々旨そうに食べるではないか。
「じっと見ないで。本を読みなさいよ」
気付かれてしまった。
「見てないって、気にし過ぎだよ」
「無粋。無粋だからね」
僕の視線から逃れようとするかのように、彼女は話の舵を切った。
「それにしても、私が饂飩好きと思われるような素振りなんてしたかな」
「してないよ」
「じゃあ何でいつも饂飩を渡してきたのよ」
「饂飩というより狐好きの印象が強かったからかな。キーホルダーの飾りも狐のキャラクターだし、ペンケースの柄もそう、ヘアピンも時々狐のやつ付けてるよね」
「ああ、なるほどね」
彼女は暫し口を噤み、やがて独り言のように呟いた。
「全く、どうしてそんな細かい所まで見てるのよ」
それは無論――
つい、思っていることをそのまま口に出してしまった。それを聞いた彼女は目を見開いてこちらを見た。その頬が薄紅に染まる。
その初々しい表情に改めて恋に落ちる思いがした。彼女も動揺することがあるのだなと、どこか不思議な充足が胸の中に溢れた。
「納得した?」
栞はあらぬ方へと視線を逸らすと、平静を装いながら、か細い声で応じた。
「なら、お互いさまってことか」
饂飩が出来上がった。
そうして黙々と食べた饂飩の味を、今でも良く覚えている。
◆
――そんな学生時代から二十余年。
大寒波に伴う大雪の恐れがあるとかで、今日は残業もなく定時で上がることができた。これが金曜日であったのは不幸中の幸いである。積雪後の出社は控えめに言っても地獄。土曜日勤務の諸氏には心より同情申し上げる。
ふと顔を上げると栞が駆け寄って来るのが見えた。
今日は彼女も定時で上がれるというので、折角だから待ち合わせをした。職場が違うので中々こうして連れ立って歩く機会もない。もう手を繋いで歩くような歳でもないが、どこか若い頃が偲ばれる。
「ああ寒い、この寒さはあれだ、学生の頃の大寒波のとき以来ね」
「懐かしいね、無性に饂飩が食べたくなる」
「あの顧問が持って来てくれたら良いのに。誰だっけ、あの金剛力士像みたいな」
「高橋だろ。今頃何してんのかな」
「まだどこかで威勢よく教師をやってるんだろうさ」
遠い日々を味わうように、暫し二人して黙り込んだ。あの形ばかりの文芸部を思い出す。この目は最初から活字など追っていなかった。彼女はどうであったろうか。
それを考えることにもう意味はあるまい。
「他に何か用はあるか!」
高橋の声真似をすると、栞がぎょっとして顔を上げた。
「何もありません。ていうか、本物が来たのかと思った」
「それは何よりだ」
栞が買い物をしたいと言うので、道すがらコンビニに寄った。店内は眩しいほど明るく、外の宵闇が一層暗く際立っている。
手持ち無沙汰であった。
何となく外の様子が気になって、いつだか彼女がしていたように、結露した窓硝子を指で擦った。そして、目を凝らして静かに覗き込む。
そこに見えたのは外の景色ではなく、硝子に反射した妻の姿であった。
なるほど、お互いさまってことか。
火照った頭を冷やそうと外に出た。
ひと時、星のない曇り空と見詰め合う。やがて会計を終えた栞が出てきて、嬉々としてビニール袋の中身を見せびらかしてきた。
「つい買っちゃった。きつね饂飩とたぬき蕎麦、それから豚カレー饂飩」
「あいつは父親に似て饂飩派閥だからな」
「貴方と違ってブロッコリーは好きだけどね。今日は部活ないって言ってたから、もうお腹空かせて待ってるはず」
「三者三様、早めのディナーと洒落込みますか」
白い吐息を棚引かせながら二人が歩き出すと、丁度、今冬の初雪が舞い始めた。
厳冬に偲ぶ 萩宮あき @AK-
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