青年と女性。
アラタ ユウ
青年と女性。
一人の青年が、十一月の京都の通りを身を縮めるようにして歩いていた。青年は真っ黒な背負い鞄を身につけていて、最近の若者がそうするように少々大きめの服と、硬めのワックスを頭に塗っていた。
青年は学生だった。京都のそこそこ名のある私立大学に、親から高い学費を支払って貰って通っていた。しかし、青年は大学が嫌いだった。
そのわけは、青年が文学というものが好きだったからで、また物書きになりたいためだった。好きだった、とは言っても寝食を忘れて傾倒するほど愛していたわけではない。読むのにも一苦労する難解な読み物が好きというわけでもない。青年は他人よりも少し、物語が彼に提供する虚構の世界に憧れていただけだった。
「それがなんだ」
青年は吐き捨てた。道端の猫が飛び上がって青年を見た。
「インテリの養成学校みたいな授業をしやがって。面白くもなんともない。授業料を返せ」
青年は目的地の鴨川が見えると、ゆっくりとスロープを下っていった。愚痴は止まらなかった。
青年の通う大学は、いわゆる名門校と呼ばれる学校だった。高い学費で賄われる学内施設は素晴らしかったが、見るからに高級そうな服装の学生や、知識をひけらかし見下してくる同回生がいたし、授業でもたかがプレゼンに何万かかっているか分からないギターセットを持ち出してくる輩や、いまだ受験気分で学歴の話で盛り上がる者もいた。
田舎から出てきた青年にとっては、こうした上下関係の争いごとは縁がなかったものだった。
青年は鴨川を見下ろす位置のベンチに腰掛けた。デルタでは、もう冬になろうとしているのに肉や魚を焼いている髪の明るい若者達がいた。青年は彼等に見られている気がしてどうにも落ち着かなかったので、自己を奮い立たせるために一言呟いた。
「俺はちがうぞ」
もう一度言う。
「俺は違う」
俺は、あんな将来の心配もろくにしていないような能天気な輩とは違う。見ろ、あの男の下品な笑顔を。女の尻ばかり追いかけているからああなるのだ。俺はそういう事に全く縁がないわけではないが、しかし己を深く戒めている。物書きになりたいからだ。文章を書いて、人の心というものを動かしてみたいからだ。
そこでちょうど、川の向こうの若い女性と目があった。彼女はじっとこちらを見つめていたが、青年は居心地悪くなって目を逸らした。それでも青年はぼやいていた。
俺は高校の時から軽文芸ばかり読んでいた。それは確かに、文学を読んでいたとは言いがたいのだろう。けれども、好きなことをしていて何が悪いのか。アレはアレで、読者を楽しませるのに特化した読み物だし、他のどの分野よりも人間が生きている。プロットの精密さでいえば、探偵小説に近いものもあるのではなかろうか。
だから、馬鹿にされる道理は無いはずなのだ。もちろん物書きを志望する身としては「ならばお前が書いてみろ」とは決して言うつもりはないが、少なくとも漫画やゲームよりかはずっと頭に良い。うんそうだ。きっとそうだ。
水面を睨んで青年がそんな事を考えていた時、脳天を清流で叩き落とすような声が響いた。
「そんなところで何やってるの」
青年が顔を上げると、先ほど目があったあの女性がいた。黒のぴっちりとしたスキニーを履いて、シャツに薄いカーディガンを羽織ったきっちりとした佇まいをしている。青年はぶっきらぼうに言った。
「見ればわかるだろ。座っている」
女性は答えた。
「一人で?」
青年は不機嫌そうに頷く。
「ああ。一人だ。いつも」
女性は少し首を傾げたあと、やはり不思議そうに聞いた。
「どうして? 気の合う友達はいないの?」
青年は押し黙った。最近、興味本位で入ったサークルに失望して辞めたばかりだった。また、青年は学内に友人と呼べるものがいなかった。
女性はしばらく青年を見つめて、それからよっと隣に座った。そしてまた横顔を見つめた。
「ねえ、何か嫌なことでもあった? 話だけなら聞くよ」
青年は女性の滑らかな髪を見て小さく嘆息した。それは諦めからだった。
「話してもわかることじゃあない」
女性は首を傾げた。
「どうして、分からないと決めつけるの?」
青年は間を置いて答えた。
「自分が理解されるとは思えないからだ」
すると女性は少し身を乗り出して、青年の焦茶色の瞳を見つめた。
「どうして、理解されないと思うの?」
青年はまた押し黙って、そして言った。
「今まで、理解してもらえなかったからだ」
「誰に?」
女性は鋭い目を青年に向けた。まるで青年から何かを掘り出そうとしているかのような目だった。
青年はしばらく考えて、力なく首を横に振った。
「誰にも。相談したことが無いから」
「なんで?」
女性が聞くと、青年はうなだれた。
「そんな友人はいなかったからだ」
「いなかったの? 本当に?」
「ああ。悩みを打ち明けるほど、深い関係に至った友人はいない」
すると女性は少し困ったように微笑んだ。
「君はいま、私に悩みを打ち明けてるじゃないの」
「それは、あんたが俺に無理やり吐かせたからだ」
青年はそう信じ切っているようだった。
女性は大きなため息をつく。
「確かに、こんなに話していて楽しくない相手は初めてだ。友達ができないわけだよ。まだあっちの金髪のほうが、楽しませようと努力していた」
青年は真顔で聞き返した。
「楽しませるために、努力をするのか」
「したこと無いの?」
女性は驚いたように言った。青年は強く頷く。
「そんな他人の為に生きるようなことは、俺は絶対したくないし、これからもしない」
しかしそう言った瞬間、何かがおかしい事に気がついた。女性はめざとく青年の表情の変化を見つけ、言う。
「しないの? 本当に?」
青年は黙り込んだ。自分が考えたことと、言っていることが完全に矛盾したと思ったからだ。
「俺は物書きになりたくて、大学に入った」
青年はゆっくりと言った。女性は唐突な話の変化に、なんの驚きもなく付いてくる。
「どうして、物書きになりたいの?」
「人の心を動かしてみたいからだ」
言って青年は、自分の両手を見つめた。
「人を喜ばせたい、悲しませたい。同じ想いを共有したい。俺はその為に物書きになりたかった」
間髪入れずに女性が聞く。
「なら、どうしてあんな事を言ったの?」
青年は片手で頭を掻いて言った。
「分からない」
女性はふむと白い顎に手を当てて答えた。
「つまり、やりたい事と実際にしていることが噛み合ってないんだ」
すると青年はうなだれた。
「どうすればいい?」
女性ははっきりと言った。
「目の前の物事を正しく認識すればいいと思う。君は、あまりに世界を暗く捉え過ぎている」
青年は目をしばたかせた。
「どういうことだ?」
女性は根気よく説明した。
「世界は、君が考えているほど辛い場所じゃないよ」
青年は首を振る。
「いや、ここはひどい場所だ。日常に嘘と忖度が付き纏い、相手を常に意識していなければならない」
「でも、嘘がなければ世の中は回らないよ?」
女性は遥か昔、人類が生まれた時代を覗き見ているかのような遠い目をした。青年は目を逸らす。
「確かにそうだが、俺はそんな不誠実に生きたくはない」
女性は青年に少しだけ近寄った。
「不誠実って何? 相手を傷つけないように、大切にしようとしてるのに、それのどこが不誠実なの?」
青年は頑なに首を振った。
「嘘をつくことは悪いことだ」
女性はもう少し近づいて、青年の太ももに手を乗せる。
「嘘をつくことで、救われる人もいるよ」
青年はまた黙り込んだ。女性は青年の髪の本数を数えられる程まで近づくと、厳しい声で言った。
「人と関わるということは、嘘をつき続けるということだよ。例えそれが家族や、親しい友達でも。それを君は否定するの?」
青年は下を向いてため息をついた。
「……俺は、嘘で塗れた人生なんて送りたくない」
すると女性は青年の前髪を白い指でかき上げて、くすと笑った。
「虚構で人の心を動かしたいって、言ったくせに」
青年は反論できなかった。誘われるように女性の瞳を見つめ、頷く。
「その通りだ」
女性は薄氷のように微笑んだ。
「なら、諦めるしかないね」
「何を?」
青年の頬に手を当てて、女性は言う。
「どちらかを。嘘を付かずに世界から弾かれるか、嘘を付いて世界に溶け込むか。どちらか一択だよ」
「どちらかしか選べないのか」
青年が顔を青くして言うと、女性は反芻した。
「どちらかだよ」
青年は考えた。
生まれてからいままでの過去を振り返り、これから先の未来を思った。青年はこれまで過去ばかり見てきて、未来を見ようとしたことはなかったので、自分がこれからどうなるのかを想像して愕然とした。
女性は言う。
「嘘をつく事を選べば、君は晴れて正式な人間の仲間入りだよ。君は大抵の人と同じように賢いから、物書きにもなれるだろうし、この先友達も、恋人だってできるだろう」
女性は続ける。
「だけど、正直であり続ける事を選べば、君はたぶん道を踏みはずすだろう。何故なら君はひどく人を疑っているから。人の悪いところばかり見て、文字通り、転落の毎日だよ。失意のどん底さ」
青年は二つを見比べて迷った。
一方は軽い失望の中で、夢を叶える可能性がある。しかしもう一方は、何も無い。懸命に想像しても思い浮かぶことは一切なかった。
女性は青年の両頬に手を当てて囁いた。
「ねえ、どっちにする?」
青年は呟いた。
「さて、どっちにしようか」
青年は迷いながらも、嘘をつく方を選ぼうとしていた。しかし、自分の中の価値観のみに従って生きる方にも魅力を感じてしまう。
散々悩んだ挙げ句、青年は目の前の女性に助けを求めた。
「どっちがいいと思う?」
女性は青年の瞳を見つめながら言った。
「人の人生を勝手に決めるほど、私は落ちぶれていないつもりよ」
「そうか」
青年はそう言うと、あっさりと嘘をつく道を選んだ。青年は人間になり、女性は消えた。
彼は頬に残った感触を惜しんで、女性が触れていた場所を何度か撫でた。その部分だけ、冬の寒さに負けないくらい熱がこもっていた。
青年は立ち上がって、大きく伸びをした。日は傾き始めていた。
デルタを見ると、肉や魚を焼いていた若者たちは消えていた。代わりに季節外れの花火を楽しむ他の若者が増えていて、青年は彼等に嫌悪感を感じなかった。
「何かを諦めることが、大人になるってことなのかね」
青年はそう言って、真っ黒な背負い鞄を身につけようと手を伸ばした。しかし、か細い鳴き声がしてぴたりと動きが止まる。
背負い鞄を持ち上げてみると、牛乳のような白い毛並みの子猫が一匹、茶色い目で青年をじっと見上げていた。
「よう」
自然な笑みが青年の口から生まれて、子猫がもう一度小さく鳴いた。
どうやら捨て猫らしい。拾わなくては。
青年は両手を伸ばして、子猫を拾い上げた。すると、何か確固たる色付きガラスのような塊が、青年の心の中にコロンと入り込んだような気がした。
青年は言った。
「そこまで固く考えなくてもいのかもな。もっと力を抜いて生きた方が楽なのかもしれない。だけどやっぱり、こうしていた方が楽しいんだろうな」
青年は白いタオルで子猫を包むと、自宅への道を歩き出した。
子猫が一つ、タオルの中ではっきりと鳴いた。
青年と女性。 アラタ ユウ @Aratayuu
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