赤いきつね派
脇役筆頭
第1話
どの位経ったのだろう。
鼻をすすりながら眠りにつく我が子を前に、行き場のない怒りを感じていた。
怒りの矛先は、原因だと思われる夫へと向かう。
思い返せば何かと気の利かない男だった。
何をやるにしても私の意見を仰いでくる。自分で決めればいいのに、私を頼ってくる。言われなければやらない事ばかり。
言い返してくれば多少は気が晴れたかもしれないが、口答えなど一切しない。へこへこと謝ってくる女々しい男。
ぎろりと寝室からリビングを睨んでみる。…どこにもいない。
突然我が子を大泣きさせた夫はどこへ?ここに居たところでなんの役にも立たないが、だからといって…。
プツリと何かが切れたような気がして、気が付いたら人気のない道をトボトボと歩いていた。
この先やっていけるのだろうか。離婚を考えたとき真っ先に思い浮かんだのは、自分の両親ではなく、夫の両親だった。
私は幼いころに両親を亡くしていたため、義父と義母の温かさが非常に身に染みた。二人は私を我が子のように迎えてくれた。
これだけ無能な夫と、懸命に頑張る私を見たらどちらの味方をするのだろうか。
『いつでも連絡して頂戴。』
寝かしつけたばかりの我が子を置いて、家を飛び出したばかりなのだ。冷静な判断などできるわけがなかった。義母の言葉を思い出して、私は電話を掛けていた。
1コール。冷静さを取り戻す。
2コール。切ろうか迷ってしまう。
3コール。早く出てくれれば、後に引けなくなるのに。
4コール。手が震えて、涙が出そうになった。
「もしもし?凛さん?」
包み込むような優しい声。大きく深呼吸する。苦しんでいることを声で悟られたくない。
「もしもし。夜遅くにすいません。」
そこから言葉が続かなかった。
私は何をしているのだろう?夫と私を比べる?
そんなもの実の息子が大事に決まっているではないか。
「大丈夫?何かあったの?」
「いえ…。」
今になってわかった。私を大事に思ってくれる人など…。
「ごめんね。うちの息子、何の役にも立たないでしょ。」
望んでいた言葉ではあった。しかし、素直に喜べない。これは言葉通りの意味ではない。社交辞令に似た何かだ。
「…いえ。」
そんなことはないです、よい夫です。
言えなかった。苦しかった。
「…あの子、何も考えずに楽しているように見えない?」
その通りだ!
「どうして言われないと何もしてくれないんですか!?」
ああ、もう止められない。
いや、止められるが、止めたくない。今この場で全て吐き出して、慰めてもらいたい。…実の母親のように。
「何をするにしても私に聞いてくる!何色がいい?いつがいい?どこがいい?どうしたい?何食べる?どうすればいい?なんでもかんでも私を頼らないでよ!」
夫がしたいことがわからない。始めは夫にも聞き返していた。
「俺はなんでもいいよ?どうでもいいの間違いでしょ!距離を感じるの!誰でもよかったんでしょって…。…もう…疲れました。」
閑散とした夜の住宅地。パッと近くの窓の明かりがついてびくつく。
長い沈黙の中で、ようやく自分の荒い息遣いに気付いて虚無感に襲われた。
急に寒さを感じてその場にしゃがみ込む。やってしまった。
優しい義母は、なんて返すのだろうか?全く想像がつかない。
ただただ恐怖を感じる。
「…あの子、小さい時によく物をなくしたの。」
何かをなくしやすいなど、聞いたこともない。夫が何かを忘れることなど一度もない気がするが…なんの話だろう?
「ある日、近くの公園で野球するっていうからこっそり見に行ったのよ。また何かを無くされたら困るって。」
ふふふと笑いながら静かに話す義母。安心からか、私は音を立てないように話に聞き入る。
「そしたら巧のボールじゃなくて別の子のボールが川に落ちて流されてったのよ。私はうちの子のボールじゃなくてよかったって。」
巧とは夫の名前だ。
「ボールを無くした子がね、わんわん泣くのよ。気持ちはわかるけどどうしてあげることもできないと思ってたらね、あの子が自分のボールをあげちゃったの。」
「え?」
「帰ってきた巧にボールどうしたのって言ったら無くしたっていうのよ。」
見上げた正義感。自己犠牲だ。私は内心いじめられてたのではと思ってしまう。
「見ていたよ、なんであげたの?って聞いてみたのよ。」
「なんて答えたんですか?」
「知らないって。」
「知らない?」
「それからは物を無くさなくなったから、それ以上は聞かなかったわ。」
「…。」
「自分で考えないのか聞いてみたらどうかしらね?」
突然背中に温かさを感じて立ち上がる。いつの間にか背後には、汗ばんだ夫が立っていた。背中に感じたのは夫の上着だった。
「すいません、かけなおします。」
「いつでも連絡して頂戴。」
「疲れたよね。今日は簡単に済ませて早く寝よう。」
家に帰ると、カップ麺が机に置いてあった。私は呆れてしまう。やはり夫は夫だ。きゅんとした自分が情けない。
「これは?」
私は知っている。私も夫もうどんが好きでそばはあまり好きではない。にもかかわらず夫は赤いきつねと緑の狸を買ってきていた。気が利かない。
「さっき買ってきた。どっちがいい?」
なるほど、いなくなったのはそういうことか。私が疲れることを見越して…。
「赤。」
「じゃあ食べよう。」
うどんが食べたかったくせに、嬉しそうにいただきますと手を合わせる夫。
『自分で考えないか聞いてみたらどうかしらね?』
私も面倒臭いと思い聞いていなかったな。夫は何を考えているのだろうか?
「巧もそばよりうどんの方が好きだったよね?どうして緑も買ったの?」
「そうだったね、気が利かなくてごめん。」
気が利かない?違う。夫は私がうどんが好きなことぐらい知っているはずだ。夫はわかった上で損をしている。
「謝ってほしいんじゃない。あなたの考えを知りたい。」
夫は恥ずかしそうにそっぽを向いたかと思うと、自分の天ぷらを私のうどんの上にのせてきた。普通に嬉しいが…。
「…天ぷら好きじゃなかった?」
「…。」
好きだけど…まさか、だから緑を買った?
「お袋との話、聞いちゃった。」
急にまじめな顔でこちらを見つめてくる。やはり聞いていたのか。
「どうでもよくなんてない。俺は凛と一緒だから何でもいいんだ。凛といるだけで幸せだから。だから凛のやりたいことをしてあげたかったんだ。」
私は思わず夫の顔を叩いてしまった。
「油揚げも食べたいからあげない。」
すかさず緩んだ表情を見せないため、犬のように赤いきつねに顔を埋める。
「…じゃあ、半分もらってもいいかな?」
私は箸を止めて顔をあげる。
「食べたいんじゃん。全部あげる。」
私は油揚げを、私を大事に思ってくれる人のそばの上に乗せた。
赤いきつね派 脇役筆頭 @ahw1401
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