第48話 しあわせ

 希星は、少しだけ不安そうに笑う。

 自分でしょうもない家出と言っていたから、話を聞いた俺が支援の打ち切りを言い出すのではないかと不安になっているのかもしれない。


「……とりあえず、俺は間違いなく、希星の支援を続ける。それは安心してくれ」

「……心配してませんよ」 


 さて、その言葉は本当か否か。

 改めて確認はしないけれど。


「そっか。ならいい。まぁでも、希星は家出をして良かったと俺は思うよ」

「……青野さんがいなかったら破滅してましたけど?」

「まーな。何かしら調整は必要だったと思う。けどさ、自分を奪われずに済んだことは、本当に良かったと思うんだ。

 世の中、明らかに間違っていることなら、そうとわかるんだよ。親が虐待してきたとかなら、その親は間違っているとわかる。


 でも、将来のためにと、躾と洗脳の中間くらいで緩やかに子供の心を殺していく親ってのは、結構いると思うんだ。

 それは正義とも悪ともはっきりしないことで、間違っていると断罪することもできない。だからこそ、周りも子供も、親の言うことを聞くのが正しいんだろうってぼんやりと判断して、いつの間にか自分の中にあった色んな物をなくしてしまう。

 あれが好きだった、これが好きだった……でも、それは不要だって言われたから切り捨てた。そんなんばっかりじゃないのかな。


 昔は誰でも絵を描いた。でも、大人になって絵を描く人は少ない。

 親からだけじゃなくて、色々なところから、絵を描くなんて意味がないってメッセージを受け取ってしまう。

 別に、意味なんてなくて良かったのに。お金にならなくてもいいし、上手くなくても良いし、自分が楽しければそれで良かったはずなのに、いつの間にか、それではいけないと思うようになってる。


 希星の親は、きっと悪じゃない。でも、決して正しいわけでもなかった。

 俺はそう思うから、希星が今こうして独立した生活を送るのは、正解だったと信じる。


 希星はもう子供じゃないけど、まだまだ大人の助けも必要だ。

 俺はいつでも助ける。経済的にも、そうじゃない面でも。

 自由と自分勝手は違うから、自立するっていうのはすごく大変だ。でも、希星なら上手くやれると思う。これからも頑張ってくれよ。応援する」

「……はい。頑張ります」


 ふと、希星が上を向いてすんすんと鼻をすする。

 また、目尻から涙がこぼれ始めた。


「お、おい……。どうした……?」

「……なんでしょうね。私、幸せだなぁって、思っちゃって」

「なんでだよ……」

「だって……ちゃんと私と向き合ってくれようとする人がいるんです。他人のことなんて本心ではどうでもいいって思っているのが大半で、友達だって深いところではどこか溝があって、すごく寂しい気持ちになってしまうのに……。青野さんには私の言葉が届いていて、私と真摯に話をしてくれます。

 すごく、嬉しいじゃないですか。幸せって、こういうことでしょう?」


 幸せの滲む顔で、希星が微笑む。

 そこだけふと灯りを灯したように輝いて、思わず視線を奪われる。

 この笑顔が俺に向けられていることも、この笑顔を俺が引き出したということも、俄には信じがたいことだった。


「……ちょっと照れくさいが、うん、きっとそうだ」

「青野さん、私と出会ってくれて、ありがとうございます」

「……それは、こちらこそ、だけどな」


 自分の存在が、誰かにとってとても大切なものになる。

 そんな瞬間は、人生のうちにそう何度も経験できることではない。

 何となく誰かを支援できて、何かをできているつもりになれれば十分だったのに、こんな気持ちになれるなら、見返りとしては十分すぎる。

 冷たい夜風が吹き抜ける。寒さは感じない。むしろ少し火照った体を冷ますのに丁度良い。

 カフェラテを一口。こちらも少し冷めている。これも丁度良い。

 しばし無言のまま、ぼぅっと空を眺める。何か言うべきかと思ってちらりと希星を見るが、やんわりとした微笑みに迎えられるのが気恥ずかしく、目を逸らした。

 まぁいいや。言葉を交わすだけが、一緒にいるということではない。

 俺はベンチに少し深く腰掛けて、ゆるりとした時間に身を委ねた。

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