第2話 大丈夫


 俺の住む安アパートは、隣室の生活音が少しだけ聞こえる。

 だからといってあえて聞き耳を立てるつもりはないが、自然と耳に入ってくるくらいは致し方ない。中でも、どうやら水道管の配線の関係なのか、風呂に入っているタイミングというのが完璧にわかってしまうのは考え物だ。

 俺はもうおっさんなので、あの女子高生が今頃お風呂だな、なんてことでいちいちドキドキすることはない。ただ、まぁ、ふーん、とは思うのである。毎回毎回、ふーん、とは思うのである。

 今夜は特に、ただのお隣さんから藍川キセと名前がついてしまったので、余計にふーんと思っていた。


「っていうか、キセってどんな字だろ? あんまり聞かない名前だ」


 確か、妹の名前はシユだったはず。それが本名なのか愛称なのかは不明。漢字も不明だ。


「まぁ、漢字を確認する機会もないだろうな……」


 自室で一人、レンタルしてきた漫画をのんびり読みつつ、そんなことを呟いてみる。別に寂しいとかはない。元々関わるはずのない相手だから。

 でも、ついさっきまで本当にしんどそうにしていた藍川キセのことは気になる。

 思えばいつも夜は遅いし、土日も不在にしていることが多い。土日は遊びに行っているものだと思っていたが、もしかして、バイトに行っていたのだろうか。

 まさか、二人暮らし分のお金を女子高生一人で稼いでいるとかはないよな? 安アパートといっても、ここ家賃は月三万五千円程。その他水道光熱費や食費、学費その他の諸経費を考えると、月十万以上は最低限の生活に必要だろう。毎日働く社会人なら当たり前に稼げる金額だけれど、生活の基本が勉強である高校生からすると、コンスタントに稼ぐのは難しい金額だ。できなくはないかもしれないが、相当無理をしていることだろう。


「……大丈夫かな」


 俺の勝手な妄想だったらそれでいい。しかし、藍川キセの限界が近い、というのを予感する。よくよく思い返すと、二ヶ月前、ここに来た当初にはもっと頬のラインが柔らかかったように思う。


「……放っておきたくはないが、かといって変に関わろうとするのも、怖がられるよな」


 相手が男子高校生だったら、男同士の友情ということで何かしら話を聞いたり、必要な支援をすることもできるだろう。

 しかし、今回の相手は女子高生。おっさんが下手に関わると不審に思われるばかりだろう。最悪、警察のお世話になってしまうかもしれない。こちらに下心はなくても、他人はそう思ってはくれまい。

 であれば、俺からはもう何も手を貸せないか。使い道のない貯金なら多少は持っているし、給料の手取りも二十三万はあるから、多少の支援くらいできるんだが……。


「……しょうがないか」


 会社でもらったお土産の余りを装って、お菓子をあげるくらいが関の山。俺は俺の生活をして、藍川家は藍川家の生活をする。それだけだ。

 そう思っていた、翌日の夜。


「ええ……ちょ、またかよ……」


 今夜も帰りは九時過ぎだった。今夜は残業ではなく、会社帰りに駅近くの古本屋で立ち読みしていたら遅くなった。遅くなった分、また格安の弁当が買えたのはよいことだが、お腹は空いている。

 それより、また階段に腰を下ろしている藍川をどうにかしないと。

 警戒心を抱かせない程度の距離を置いて近づき、声をかける。


「藍川さん、大丈夫? いや、大丈夫じゃないよね?」


 反応がない。どうやら階段に座って手すりに階段を預けた状態で、眠っているようだ。


「……女子高生が、夜の屋外で無防備に寝るなよ。しかも、ここはそんなに人通りもないんだぞ」


 治安が悪いという噂は聞かないが、だからってこんな無防備な女子高生がいたら、襲ってくださいと言っているようなもの。普段は温厚な人間だって、変な気分になることだってあるかもしれない。いや、断じて俺のことではないが。


「……まったく。無茶してんだろうなぁ。っていうか、こんなとこで寝たら風邪引くぞ」


 気温はまだ十六度くらいはある。極寒ではない。が、寝ていたら流石に風邪を引く寒さだ。

 とりあえず藍川を起こそう。しかし、昨夜の帰宅直後の様子から察するに、妹には心配かけたくないのだろう。大声は出さない方が良い。かといって、耳元で声をかけるなんて気持ち悪い。

 少し考えて、スマホを取り出す。アラームの音量は最小にして、それを藍川の耳元で鳴らした。

 ビクッ、と藍川の体が震え、キョロキョロと周りを見る。俺の姿を認めると、一瞬怯えたような顔をしたが、直後にどこか安堵の顔を見せる。不審者と思ったらお隣さんだったから安心した、という具合か。


「おはよう。こんなところで寝てたら風邪引くぞ」

「あ……ご、ごめんなさい」


 藍川が立ち上がる。ふらついた様子はないので、しばらく休んだ後なのだろう。


「……バイト帰り?」

「あ、はい。そうです……」

「そっか。頑張って働くのはいいことかもしれないけど、体を壊しちゃ元も子もない。休むのも仕事の内、ってのは本当だぞ」

「……はい」

「ん。じゃあ、体も冷えてるだろうし、早く帰って温まりな」

「はい……」

「荷物は俺が持つよ」


 鞄と買い物袋を持ってやる。今夜は安売りの総菜か……なんて、相手の生活を覗き見るものでもないな。

 のそのそと階段を上る藍川。二階まで上がるだけで辛そうというのは、疲労もピークに違いないよな。……すごく、心配になってきた。

 階段から転げ落ちないように見守りつつ、拒否されることを前提に提案してみる。


「……月五万。藍川さんが嫌じゃなければ、利子も返済義務もなし、見返りなしで支援してもいい」

「……え? ど、どういうことですか?」


 藍川が立ち止まり、不審そうに俺を見る。急にこんな提案されたら、おかしいと思うよな。


「俺は君の家庭の事情は知らない。でも、今がすごく大変らしいのは見ればわかる。月にいくら必要で、どれだけバイトをしないといけないのかも知らないが、月に五万円無条件で手に入れば、バイトはだいぶ減らせるはず。

 俺はただのお隣さんだが、大人として、藍川さんがボロボロになっているのを見過ごせない」

「え、で、でも、お隣同士っていうだけで、そんなことをしてもらうわけにはいきません……。それに、これは、私がやり遂げないといけないことなんです……」

「……そうか」


 拒否されるのも当然か。いくら口では無条件で支援といっても、後々何を要求してくるかわからない。それに、何か引けない事情もあるようだ。


「お気持ちだけ、ありがたく受け取ります」


 藍川が階段を上る。そこで、またふっと体がふらつく。それをとっさに支えた。

 ……拒否されればもう放っておこうと思ったけれど、やっぱりダメだ。このままだと、たぶんこの子は本格的に体を壊してダメになる。学校にもバイトにも行けなくなる未来が容易に想像できた。


「……藍川さん。君の事情は知らない。どんな想いがあるのかもわからない。ただ、客観的な意見として、これだけは言える。君がこのままがむしゃらに頑張っても、君の望みは決して叶えられない。本格的に体を壊して、学校に行けなくなる。バイトもできなくなる。そして何より……妹さんをものすごく心配させる。それでも、このまま破滅の道を突き進むのか?」


 藍川が泣きそうな顔をする。このままではダメだとうことは、本人が一番よくわかっていたのだろう。ただ、それを受け入れることが難しかっただけで。


「なんで……そんなこと言うんですかっ。私はやれますっ」


 絞り出す言葉が痛々しい。大丈夫だ、君ならできる、と言ってやれば、藍川も多少は気が紛れるのかもしれない。

 でも、俺にはそんなことはできない。社会人も五年目で、頑張りすぎて体を壊したり、精神を病んでいった人のことも身近に見てきた。

 人間は、頑張りすぎてはいけない。あるいは、頑張り方を間違えてはいけない。

 だから。


「本当はもうわかってるだろ。君がやろうとしていることは、君一人の力では達成できない」

「な、なんでそんなこと……っ。私は……私は……っ」


 遂に泣き出してしまった。元々限界が近かったのだろうな。


「気持ちだけでどうにかなるほど、世の中は簡単じゃない。そして、今の君が限界を迎えていたとしても、それは君の人生の失敗を意味するわけじゃない。

 仕事だって、トライアンドエラーを繰り返して少しずつ改善していくもんだ。君は今、どうしようもなく行き詰まった。なら、別の道を探せばいい。たったそれだけの話なんだ。それに必要なお金なら、俺が支援してやれる。自分の人生を本当に良くしたいなら、間違いを受け入れて、頑張り方を変えてみるんだ」


 藍川は答えない。唇を噛みしめてハラハラと涙を流すのみ。

 女性をこれだけ本格的に泣かせるなんて初めてのこと。泣きやませるにはどうしたらいいのだろうか。全く見当がつかない。そもそも、泣きやませるのが正解かもわからない。

 一度、思い切り泣かせてやるのもいいのかもしれない。たぶん、辛くても泣けない日々が続いていただろうと思うから。


「……これは単なる偶然だが、君を無条件に助けてもいいと思っている変人が、ここに一人いる。だから、大丈夫だぞ」


 とりあえず励ましたけれど、涙は止まらない。俺にはこの事態を収拾できない。

 誰かに見られたら通報されないかな……と不安になりながら、俺はただじっと泣き続ける藍川の隣に佇んでいた。

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