真夜中のメザノッテ
ななないなない
真夜中のメザノッテ
Ⅰ、夢
メザノッテは、こんな世界は間違っていると思っていた。
なぜか?
それは、彼女にとって気に入らないことばかりが起こる世界だから。
彼女が楽しいと思うことを、してはいけない世界だから。
「善いことも、悪いことも、そんなことボクには関係無い。それが人の迷惑だろうと迷惑でなかろうと、ボクはボクのしたいことをして生きて行けたらいいのに。」
――だいたい、悪いことって、善いことって何なのかな?
メザノッテが考えると、大きな烏が答えた。
「そんなものはどこにも無いのだよ、メザノッテ。」
「じゃあ、なぜ『悪い』『善い』の区別があるの?」
「それは、言葉の問題だ。結局は同じものでも、見た目が違えばそれぞれに別の名前が必要になるだろう?猫も、犬も、鳥も、結局は生き物であることに違いは無いのに、別々の名前で呼んでいるのと同じことだよ。」
――同じものなら、どうやって区別するんだろう?
メザノッテが考えると、角の生えた蛇が答えた。
「簡単なことさ、メザノッテ。」
「簡単なの?」
「もちろんさ。大多数の人間が『好ましい、して欲しい』と思うことが『善いこと』。大多数の人間が『好ましくない、して欲しくない』と思うことが『悪いこと』なのさ。人は『善いこと』が好きなんじゃない。好きなことを『善いこと』って呼んでるんだ。『悪いこと』だってそうさ。人は『悪いこと』だから、それを嫌うんじゃない。人が嫌うからこそ、それは『悪いこと』って呼ばれるんだよ。」
「人の好き嫌いで決まるものなの?」
「そう。大多数の人の、ね。」
「大多数の人間って、大多数じゃない人間はどうなるの?」
「それは、諦めるしかないね。」
「じゃあ、ボクはこの世界にいてもつまんない。」
「そうかもしれないね、メザノッテ。でも、きみが諦めなくちゃいけない少数の人間たちの一人だったとしても、遠慮することは無いんだよ。きみがつまらないと思うってことは、この世界が間違ってるってことなんだから。」
――じゃあ、ボクは『悪いこと』をしてもいいの?
メザノッテが考えると、黒い
「この世界では、駄目です。」
「駄目なの?」
「駄目です。」
「でも、蛇さんは『遠慮することは無い』って言ったよ?」
「もちろん、遠慮をする必要はありませんよ。あなたはあなたの好きなように振舞えば良いのです。あなたは、紛れもなくあなたであって、他の諦めなくてはいけない人たちとは違うのですから。でも、この世界では、駄目です。」
「じゃあ、どこでならいいの?」
「あなたが望む場所でなら、どこででも。」
「乃亜、そろそろ起きないと学校に遅れますよ。」
その日、少女は母親の声で目が覚めた。
のたのたと制服を身に着け、時計を見ると、本当にぐずぐずしている時間など無い所にまで針が足を進めているのが目に入った。彼女は階段を駆け下りると、パンを一切れ引っつかんで足早に家から出て行った。
Ⅱ、涙の国
その時、メザノッテがぐっすりと深い眠りについていると、大きな烏が尋ねた。
「メザノッテ、眠れないのかね?」
「ボクは、眠ってたの。」
「そうかね?そうは見えなかった。」
「今も、ほら、眠ってるでしょ?」
「そうか。それではベットから出ておいで。」
「どこかに行くの?」
「いや。もうすぐ、『涙の国』がここへやって来るのだよ。」
ベットから体を起こすとメザノッテは部屋のドアが、いつもとは違った形になっていることに気付いた。烏はそのドアの鍵を開けると小さな声で囁いた。
「こ…ぜっ…なみ…は…め…よ…。」
「何て言ったの?」
「足下に気をつけなさい、と言ったのだよ。」
なるほど、ドアの向うに続いている長い廊下は、いたる所にぬるぬるとした苔が生えていて歩きにくかった。それでも、目の前をチョンチョンと進んで行く烏に遅れまいと、メザノッテはなるべく慎重に足を運んだ。
「メザノッテ、そんなに急ぐと危険だ。もう少し、ゆっくりと歩きなさい。」
そんなメザノッテを見兼ねたのか、烏が真直ぐ前を向いたままで口を開いた。
「だって、ゆっくり歩いてたら烏さん、先に行っちゃうでしょ?」
「そう思うのなら、もう少し速く歩きなさい。」
廊下が終わり、メザノッテの部屋と同じ位の広さの空間に出ると、烏は彼の帽子を取りながら言った。
「ここが、涙の国だ。」
「随分と小さな国だね。」
「それが、そうとも言えないのだよ。メザノッテ。」
「どうして?」
「その質問には、ここに来る王様が答えてくれるだろう。」
そう言いながら、烏は何処かへ姿を消した。烏の言葉が小さな空間の間を漂って、響きが消えるか消えないかの内に、メザノッテの後ろから王冠を頭に載せた牛がやって来た。牛は、メザノッテの前にどっかりと腰を下ろすと、自分が『涙の国』の王だと名乗った。
涙の王は、メザノッテを舐めるように(実際に少し舐めた)じろじろと観察すると、安心したように喋り始めた。
「大きくなったものだな、メザノッテ。お前がこの国を出てから、一体どれほどの時間が流れたのだろう。今、お前を見るまで、ここにお前が帰ってくるなどということはどうしても信じる気になれなんだぞ。」
「ボクは、この国に来たことなんかないよ?」
「忘れたかな?メザノッテ。おおよそ全ての人間は、この涙の国を第二の故郷として成長していくものなのだよ。」
「こんな狭い所が、全ての人間の故郷だなんておかしいよ。この国にはどんなに詰め込んだって、十人がいいとこだよ?」
「お前は見えるものしか見ていないな?メザノッテ。涙の国の領土は、ただ見えないだけであって、実際には人の涙に濡れた場所の全てがそうなのだよ。そして、どんな涙にせよ、曲がりなりにも涙をその瞳から流した者は、涙の国の住人も同じなのだ。つまり、お前も涙の国の国民だったというわけだ。」
「ボク、泣いたの?」
「どんな人間でも、成長していくために泣かねばならない時というものがあるのだよ。それに、成長してから涙の国に再び戻って来たのだとしても、それは少しも恥ずべきことではない。むしろ、涙の国の住人であると認められるということは、名誉なことなのだ。齢を重ねれば重ねるほど、人は無感動になっていく。涙を流すことも簡単には出来なくなるのだからな。」
「涙を流さなくなるのは、その人が強くなるからだと思うよ?大人が泣いてばかりいたら、ちょっと可笑しいもの。」
「メザノッテ。それは、お前の国の馬鹿どもが、お前の頭に植え付けた間違った認識だよ。涙を流すことの出来なくなった、心の井戸が枯れ果てた人間が、自分の欠陥を弁護するために考え出した詭弁にすぎん。わかるかな?メザノッテ…」
メザノッテと涙の王の対話は、途切れる気配を見せなかった。幾度となく二人の間を言葉が往復した後、涙の王が、さらに言葉を続けようとした時に烏の声が広い広い涙の国に響いた。
「王よ、もう時が尽きました。これ以上、メザノッテをこの国に留めておいては、彼女のためになりません。」
その言葉を聞くと、涙の王は悲しそうな目をメザノッテに向けて言った。
「メザノッテ、忘れないでおくれ。涙を失った人間という存在ほど、哀れな者はないのだということを。お前は、涙を大事にするのだよ?」
「わからない。でも、王様の言ってることは、わかる気がする。大事にする、涙。」
「また、いつでも訪ねて来ておくれ。わしは、いつでもお前を歓迎するよ。」
「うん。約束する。きっと、また来るよ。」
メザノッテは、涙の王に見送られながら、長い、ぬるぬるとした廊下を進んだ。振り返らずに、真っ直ぐと前を見て進む彼女の瞳の端には、優しい温もりを感じさせる一粒の涙があった。普段であれば、すぐに拭い去られるであろうそれは、いつまでも拭い去られることは無かった。
メザノッテの部屋に戻ると、烏は涙の国へと続くドアに鍵を掛けながら
「王様の言葉を、忘れてはいけないよ?では、起きなさい、メザノッテ。お前は、この夜と引き換えにするには十分過ぎるほどのものを得たはずだ。得たものは、無くしてはいけない。引出しの一番奥に、大事に仕舞っておくのだよ?」
と、言った。その日は、それで終わった。
Ⅲ、予言
その日、眠るメザノッテの傍らに蛇が来て尋ねた。
「メザノッテ、きみは予言というものの実在を信じるかい?」
「予言って、何?」
「これから起こるであろう未来のことを、あらかじめ自分の都合のように決めておいて、それを実行することだよ。」
「便利だね。」
「便利だけど、そうでもないんだ。あんまり、自分ばかりに都合のよい予言だと、神様が認めてくれない。現実にそうなるのは、ほとんど『悪いこと』だからね。」
「『嫌いなこと』が起きるの?」
「そうだよ。」
「なぜ、神様は『好きなこと』が起こるようにしてくれないのかな?」
「神様について、今ここで説明することは許されていないんだ。それよりも、ほら、元帥がやってきたよ。」
蛇がそう言ってドアの方を見ると、背の高い青白い顔をした男が、メザノッテの部屋の前の廊下を通り過ぎようとしているところだった。蛇は、その男の側へ這っていって何か話をしていたが、しばらくすると蛇はそのまま部屋の外へと姿を消し、代りに『元帥』と呼ばれた青白い男が、部屋の中へと足を踏み入れた。
元帥は、部屋の入り口から離れようとせずに、その場所からメザノッテに言葉を投げかけた。メザノッテも、ベットの上から体を起こすことなく、その声に答えた。
「こんにちは、メザノッテ。私はビロンという者だよ。」
「こんばんは、ビロン元帥。ボクはメザノッテっていうの。」
「知っているとも。君は、知っていたかね?」
「知ってたよ。」
「メザノッテ。聞くところによると、君は予言というものが何たるか、よくわからないということだが?」
「別に、そんなことないよ?ただ、『悪いことばかりが本当になる』っていうことが不思議だっただけ。」
「ふむ。人を不幸にする予言というものが、なぜ、成就され易いかというとだね。
その予言と関係する者が、その未来が不幸となることを望んでいるからなのだよ。」
「その不幸になる人の知り合いが、不幸になるといいなって思うと、そうなるの?」
「そうとは限らない。人間を不幸や破滅へと導く予言に関る人間という者は、やはりその人間の知り合いであることが多いのだろうが、まったく知り合いでない者が予言に関ってくることもある。それに他でもない自分自身である場合もないとは言えないのだからね。人は、意識無意識下に関らず他人の、ともすれば自分自身の破滅を望むという、おぞましい一面を持っているのだよ。」
「そうなのかな?雪の日に、滑って転んでる人を見ると、なんだか楽しくなるのと同じ?」
「程度に差はあっても、根本的には同じことだ。そうなることを望む気持ちが、その場に居合わせた人間の中にはなかったかな?」
「うん。ボクは、雪が降るといつも誰か転ばないかな、って思う。」
「そういった人の『思い』の力が、言葉によって紡ぎ出された予言の元へと不幸を呼び寄せるのだよ。人は、自らの希望によって幸福に満たされた日常を捨てることも多々あるということを、ここでは覚えておいて欲しいね。」
「それは、『予言』に限定されたことじゃなくって、全てに対して言えるってこと?人の思いが人を不幸にしているの?神様じゃなくって?」
「確かに、そうだとも言える。」
「変だよ。それじゃあ、どうして『悪い予言』ばっかり現実になって『善い予言』が本当にならないの?確かに、人が『失敗したらいいな』って思う気持ちの方が大きいだろうって思うよ。でも、いくら心に占める割合は小さくったって、不幸を望まない気持ちだってどこかにきっとあるはずだもの。ね、神様が予言をどうこうするんじゃないなら…」
「神は、それを望まないのだよ。」
「どうして?」
「どうしても、だよ。メザノッテ。神が望まぬことは、その存在が神の知らないものでもない限り、絶対に成就し得ないのだ。」
元帥が、言葉を続けようと息を吸い込んだその時、メザノッテのベットの下から這い出た蛇がそれを遮った。
「元帥。処刑の時間が近づいてきたよ。早くしないと、始まっちゃうかもしれない。」
「まさか、そんなこともあるまい。処刑される当人がいないのに、どうして処刑が始められるものか。」
「それでも、時間だってことに変わりはないだろ。」
元帥は、蛇の言葉を後ろにして、ゆっくりとメザノッテの方に向き直り
「メザノッテ、今日は私の処刑される日であったよ。」
と、告げた。
「処刑って、殺されちゃうの?」
「それが今の私の仕事なのだし、そうされてしかるべきことを私はしたのだから、しかたがないのだよ。メザノッテ、今日の首切り役人こそは、
メザノッテは「行かないで。」とは言えなかった。元帥は何か言いたそうに口を開きかけた。しかし、メザノッテが黙って自分を見ていることに満足気な面持ちで頷くと、それ以上、言葉を続けようとはせずに、蛇に促がされるまま廊下を歩いていった。部屋の中に一人取り残されたメザノッテには、蛇の「早く、早く。」と急かす声が随分と遠い場所から聞こえてくるような気がした。
どれくらい時計の針は歩みを進めたのか、ちょうど、メザノッテが目を覚ましかけた時にやっと蛇は戻ってきた。彼は、ドアに鍵を掛けながら、こう言った。
「元帥はね、メザノッテ。『ブルギニョンの一撃さえ免れることが出来れば、王になることができるだろう。』っていう予言を受けているんだよ。でもね、何回処刑されてみたところで、今日も斧を持って出てくるのはブルギニョンさ。」
言葉と鍵を掛け終えると、蛇は「フン。」と鼻を鳴らした。
そして、鍵穴から、メザノッテの部屋の外へと出ていった。
Ⅳ、嘘
「嘘は、悪いことでしょ?」
「いや、善いことの時もあるのですよ。」
駱駝は、可笑しそうに微笑みながら言った。
「なんで笑うの?そんなに可笑しいかな?」
「失礼。別に可笑しくて笑ったのではありませんよ。メザノッテ。ただ、あなたの言葉がのどにつかえてしまったものですから…」
「大丈夫?」
「もう、大丈夫ですよ。」
「嘘は、悪いことでしょ?」
「確かに、嘘を嘘として見れば、そうかもしれませんね。でも、嘘が本当に嘘とは限らないでしょう?」
「嘘は、嘘だよ。」
「それを言うのなら、真実こそが真実なのですよ。嘘が嘘なのではありません。」
メザノッテが、反論しようと唾を飲み込んだ時、駱駝の姿はそこには無かった。その代り、火のついた尻尾を持つ一匹の鹿が薄笑いを浮かべて立っていた。
「相変わらず、面白いことをいう子だね。メザノッテ。」
そう言ったかと思うと、鹿の薄笑いは本当の笑いへと変わった。
「何が面白いことなの?」
「嘘が、嘘だって言ってたことがだよ。」
「違うの?」
「違う違う。さっき、あいつが言ってた通り『嘘が嘘とは限らない。』のさ。簡単に言ってみれば『虚偽は真実たり得るが、真実は虚偽たり得ない。』ってことかな?」
「全然簡単じゃないよ。」
「じゃあ、『夢は現実たり得るが、現実は夢たり得ない。』でどうかな?」
ふるふるとメザノッテの髪が揺れる。
「『人は神たり得るが、神は人たり得ない。』は?」
ふるふる。
「…『卵はにわとりになるが、にわとりは卵にならない。』」
「どんどん、わからなくなってく。」
「…つまり、卵を嘘だとしよう。にわとりは真実。これは、わかるよね?」
「うん。わかるよ。」
「朝、卵を食べるだろ?その卵を食べないで温めると、それからは何が出てくる?」
「ひよこが出てくるんでしょ?ボク、学校で習ったから知ってる。」
「そのひよこは、何になる?」
「にわとりだよ。でも、アヒルの時もあるね。」
「そうそう。つまり、卵はにわとりになれるわけだろ?これが、『虚偽は真実たり得る。』ってことさ。じゃあ、にわとりはどうだ?卵になれる?」
「なれないね。」
「そう。だから、『真実は虚偽たり得ない。』。わかった?」
「でも、にわとりは卵を生むよ?それも、沢山。」
「そうだよ。『真実は虚偽を生み出す』のさ。それも、沢山ね。」
メザノッテが『わからない』表情をしたのを見ると、鹿はその笑いを一層と大きな笑いに変えて続けた。
「わからないことだらけのメザノッテちゃんには、真実と現実が何なのかってことから教えなきゃいけないみたいだね?いいかい?真実とか現実とかって呼ばれてるものは、どこをどうひっくり返してみたって一つだけしかないんだ。最初から最後まで、この世界はたった一つだからね。でも、『真実は人の数だけ存在する』って言葉があるのは知ってるだろ?」
「うん。聞いたことはあるよ。一つの物事についても、それを見る人の立場とか、見る角度とか、ちょっとした違いで全然違うものみたいに見えるってことでしょ?でも、真実が一つだけしかないものなら、これって嘘なのかな?」
「嘘、じゃないけどね。当たってるとも言えない。」
「ちょっとまって。じゃあ、『現実』はどうなの?やっぱり、人の数だけあるのかな?」
「それはないね。現実は一つだけさ。まあ、真実だって一つだけなんだけどね。結局の所、人が現実を個人個人の望む姿に変換して認識したものが『真実』なのさ。現実も真実も同じ一つのもの。ただ、片方はたった一つで、もう片方は沢山あるように思われているだけなんだよ。『人の数だけある真実』って言葉の意味は『人の数だけ嘘がある』ってことと同じさ。でもね、メザノッテ。人は、その『嘘』をその人の『真実』に変えることができる。この世界の真実や現実を変えることは出来なくても、それなりの手順を踏んで、それなりの苦労を味わえば『嘘』を『真実』に昇華できるんだよ。」
「それがつまり…」
「そう。『虚偽が真実たり得る』ってことだね。」
そういうと彼は、これ以上嬉しいことは無いとでもいうように口の両端を吊り上げて微笑んだ。メザノッテには、それが見た目より、もっともっと獣地味たものに見えた。
「少ししか無いものから、」
さらに言葉は続く。
「少ししか無いものから、人は多くを創り出すことができるのさ。そして、多くのものを少しのものに変えることもできる。それを、神という見物人が、短所だらけの人という存在に与えてくれた数少ない貴重な長所の一つだと思っている奴もいるみたいだね。」
「ねえ、じゃあ、嘘は善いことなのかな?それとも、やっぱり悪いことなのかな?」
「嘘は、嘘さ。」
「だって、さっきは違うって。」
「メザノッテがいってたことは、間違っていたけれども、間違っちゃいない。嘘は、結局の所、嘘なのさ。」
鹿の薄笑いは、最後の最後まで消えることはなかった。最初、メザノッテは、この見様によっては向けられた相手が不快を感じるであろう笑いを、ただ、じっと眺めていた。だが、その笑いが変化の無いものだとわかった時、その笑いの持ち主も、本当はここにいないのではないだろうかという気がした。目の前にいる鹿が、それそのものではないような気がした。
その瞬間、メザノッテは、自分がひどく頼り無いもののように感じた。恐ろしかった。自分を取り囲んでいるのが、全て自分以外のもので、その全てが自分を嘲笑っているように見えた。
彼女は、急いでベットの端の方に丸まっていた毛布を手繰り寄せると、それで自分の身体を自分の周りから隔離した。優しい月の光も届かない毛布の中で、メザノッテは、ただひたすら目が早く覚めてくれることを祈っていた。
Ⅴ、光を含んだ闇
一人の少女が深い眠りにつく度に、闇の中で密やかに独りの少女が生まれた。彼女の部屋には多くの友人が訪ねて来た。しかし、彼女は殻に閉じこもることで、彼女が望まないものの全てを拒絶することが許されていた。だから、彼女は自分がどんな存在であろうとも、例え、その『真夜中』の名前が示すように限られた時間の中だけに生きること、そして、在ることが許された存在であろうとも、もう一人の自分を羨んだことはなかった。日の光が、その下に生きる命を傷つけることはあっても、月の光が、その下に生きる命を、少なくとも、この一人の少女を傷つけたことはなかった。
猫は、天窓からじっと少女の瞳を覗き込みながら、誰にいうとも無く呟いていた。
「闇だったのだろうか?それとも、暗黒だったのだろうか?ただ、それが明るい光ではなかったことだけは確かだった。光は、紫炎に彩られた強過ぎるそれは、かつて、そして今も生命の敵であった。光は、慎ましやかなそれは、かつて、そして今も生命の糧であった。そう、月の光は、地獄の劫火の残り火に、じりじりと身体を焦がされ続けている私たち子供を優しく包み込んでくれる。暗黒ではなかった。それは、闇だったのだ。光の闇。不確かな、それでいて確実に存在する光を含んだ『闇』。闇、闇であった。闇であったのだ。彼女は、自分自身のためには何一つ生み出そうとしなかった。他人のために全てを生み出すもの。そう、他者にとっての母だった。暗黒ですら、その腕に抱きしめられて美しい少女へと姿を変える。月の光は、そして闇は、暗黒から生まれ落ちた代行者の、あの眠たそうな眼をした一人の天使のあくびによって、堅く閉ざされていた瞳にうっすらと火を燈す。燈された火は、やがて全てを平等に包み始める。背の高いものにだけ注がれる光や、疑問も持たずに、ただ従うだけの盲人どもに注がれる太陽のそれとは違う。望むものにも、望まぬものにも、全てに対して平等な、光。いや、平等という言葉は適当ではない。それに相応しい言葉など存在しないかもしれない。存在していたとしても、その言葉を見つけることはできない。それはそれと知れない姿でひっそりと息づいているだろうから。」
蛙は、屋根の上で呟く猫の言葉に耳を傾けながら、それに続くであろう言葉を紡いだ。
「我々は、知らず知らずの内に彼女によって養われている孤児なのだ。神は、忌々しい自分勝手な見物人は、役者が自分の思い通りに動く劇を望んだ。つまらない劇だ。この上もなく、つまらない喜劇。独り善がりの脚本と、独り善がりの演出に彩られた、この広い広い舞台が、それだ。今、この今という時に、そして、今という場所に、空間に、私という蛙がいて、その蛙がブツブツと言葉を並べている姿でさえも、あの見物人が退屈を紛らわせるためにあらかじめ予定していた演目の一つに過ぎないのだ。今は誰も気付いていない。彼らは、自分たちがその劇の主役に祭り上げられていることに、気が付いていない。いや、そんな劇が繰り広げられていることすら、彼らは知らないのだ。かつて、この世界という舞台の上で、彼らと同じく知らず知らずの内に主役を演じさせられていた竜たちが、滅びの間際になってようやくあの見物人の存在を知ったように、誰もがその舞台を降ろされる間際にならなければ気が付かないだろう。そんな時、彼女は教えてくれる。その命の行く末を。我々の進むべき道、そして、避けるべき道を。疲れ果てた我々を、あの見物人は嘲笑と侮蔑をもって迎えるだろう。我らがいくら機嫌を取ろうと苦心に苦心を重ねようとも、決して賞賛の言葉は得られない。そんな時、彼女だけが、用済となって舞台裏へ下がる我々を、優しく慈しんでくれる。労いの言葉を掛けてくれる。それが、我々の母。誰の母でもない、我々を包んでくれる、我々の母なのだ。」
メザノッテは、その時、屋根の上で猫が鳴いているのを聞いた。庭の池で蛙が鳴いているのを聞いた。そして、自分も楽しく歌を唄っているだけで時を過ごせたらいいのにと思った。だが、そんなことはできないと知っていた。じっと、黙ったままで朝までの時間を過ごさなければならなかった。太陽が、遠い東の空に現れるまで、彼女はただ耐えなければならなかった。
Ⅵ、真夜中
眠りに就いたメザノッテの部屋のドアが、微かな木の軋む音とともに開いた。
「入ってこないで。」
――何故だね?
厳しい拒絶の声をあげたメザノッテに、ドアの向う側にいる『黒い』何かが尋ねた。その音は、冷たくもなく、温かくもなく、言い様のない暗さを練り込んだような音だった。
「ボクは、独りで眠ってたいの。誰ともお話なんかしたくない。」
――独りで眠れるのかね?お前は。付き添いがいなければ何処にも出かけることもできない小娘が、たった独りで眠れるのかね?
「眠れるよ。」
――それは、嘘だな。
「知らないの?嘘は、嘘だとは限らないんだよ?」
――嘘は、嘘以外の何物でもない。小娘殿には、それがわからんらしいな?
「キミは、誰?ボクは、キミが誰か知らないし、それに、ボクは小娘なんていう名前じゃないよ。」
『黒いもの』はしばらく黙り込んだ後、今までとは違う凍えるような音で、メザノッテを包んだ。暖かさは、微塵もなかった。ただ、その音には冷たさがあった。
「怖い、怖いよ。やめて、やめてってば。」
彼女の叫びも、その音を退けることはできなかった。ただ、冷たさがあった。冷たさは、それは、メザノッテを彼女の父親のように見つめていた。
――小娘よ。お前の今宵の話し相手は『影』だよ。
影は、芝居がかった調子の音で、メザノッテの頬を撫でた。
――お前が、そういうのなら無理に部屋へ入れろとはいわんよ。ところで、小娘よ。お前はどうしようもない馬鹿だな?
「ボクは、馬鹿じゃない。」
メザノッテは、影と話をするのは嫌だった。影から聞こえる音は、相変わらず冷たかったし、何よりも自分が頼んでいるのにその音を止めてくれないことが腹立たしかった。
――何をすねているんだね?
「何で、ボクが頼んだのにやめてくれないの?みんなは、ボクが嫌がることなんて絶対しなかったのに。」
――お前が、そんな減らず口を叩いている限り、この音が快く感じられることなどないだろうよ。この音を快く感じたかったら、今まで話してきた時のように、もっと素直な心で、素直な言葉を紡ぐことだ。
冷たい、影の答え。ただ、その音は今までの音と比べて、幾らかでも温もりを帯びているように感じられた。
「だって、みんなはボクの嫌がることなんてしなかった。」
メザノッテは、少しだけうれしかった。
――うれしいのかね?
「うん。少しだけ。」
――なぜかね?お前は冷たいこの『影』が嫌いではないのかね?
「嫌いだった。嫌いだったよ、さっきまではね。」
――どういうことかね?
「だって、あなたがボクを包んでくれたような気がしたの。さっきの音は、少し温かかった。ボクは、お日様の光を浴びたことはないけど、浴びたらこんな感じかなって思ったの。」
「ボクは、独りぼっちだった。」
唐突に、メザノッテの口が紡いだその言葉が、彼女の瞳から涙を引き出した。
「独りぼっちじゃないよって、みんなは言ってくれた。でも、ボクはやっぱり独りぼっちだったと思う。誰もいないの。ボクの周りには、誰もいない。でも、あの子の周りには、いつも誰かがいた。誰かを見てた。誰かと話してた。誰かをさわってた。」
暗い、いつもの部屋。そして、天窓から覗く、形が違うだけでいつもと変わらない月。それが、彼女の一日の始まり。そして、瞼の裏側にある暗黒。それが、彼女の一日の終わり。側には誰もいない。確かに、時には多くの訪問を受けることもあった。だが、確かに独りだった。誰かと話をしている時ですら、彼女はたった独りだった。
「どうして?同じなのに、顔も、身体も、髪の毛の色も、声だって、同じなのに。ただ、周りと名前だけが、違う。同じヒトなのに、同じ人なのに、同じ…」
それが、冷たさの染み出てくる場所だったのだと、彼女は気付いていた。冷たさは、影がメザノッテに与えたものが最初ではなかった。冷たさは、最初からそこにあった。彼女とともに、メザノッテという、真夜中に月の光を浴びて薄っすらと朧気な姿を浮かび上がらせる彼女とともに、そこに在った。影の音は、ただそれを明確に浮かび上がらせただけにすぎなかった。
「全部、違う?名前だけじゃなくて、周りだけじゃなくて?全部違うの?ボクとあの子は同じじゃないの?じゃあ、何で、何で…」
メザノッテは、泣いた。
――お前は、自分が独りだと、そう言うのかな?
「だって、そうでしょ?」
メザノッテは涙を仕舞い、笑いながら言った。
「ボクの周りは、ボクのことを笑ってる。みんなとは違うんだもの、当然だよね?」
――何が、違う?
「だって、そうでしょ?」
――そうではないよ。
「そうではなくないよ。結局、ボクはあの子の形をした幻。心を持った形。形は確かに同じだけど…。違う。やっぱり違う。ボクは、ボクだよ。あの子なんかじゃない。あの子のことを羨ましいなんて、少しも思ったことないもの。本当だよ?羨ましくないもの。」
――確かに、お前は、お前だよ。メザノッテ。だが、お前は幻ではない。ましてや、心を持った形などでは決してない。お前は気付いていないだけだ。お前という形に、そして心に。この部屋をごらん、メザノッテ。ここは、お前の生まれ故郷。お前以外の存在など、何処をどう探した所で見つかりはしない。全てが、お前という無数の振動が織り成す存在の、欠かすことのできない破片の一つなのだ。全てが、お前自身なのだよ?今、お前とこうして語り合っているこの『影』でさえも、ここに存在している以上、お前の一部であることに変わりはない。お前の『影』なのだ。いつも、お前とともにいただろう?この『影』は、一度たりともお前の側を離れたことはない。闇の中で、暗黒という色のない色に彩られた『影』は、確かに見つけ難いものであったかもしれん。だが、眼を凝らせば見つけることができたはずだ。お前が見ようとしなかっただけ、お前が気付こうとしていなかっただけで、この『影』は常にお前とともに在った。どんな時も、過去も、未来も、そして現在も。『影』はお前を独りにしたことなどなかったはずだぞ?
そう、この今という一瞬も、『影』はメザノッテとともにいた。天窓から優しく降り注ぐ光が、いつも彼女を見つめていたように、確かに『影』はメザノッテとともにいた。その音は、メザノッテの部屋の外、ドアの向うから響いてくるかもしれない。だが、確かに『影』はメザノッテの傍らにいた。
「独りじゃ、ないの?」
――独りではない。独りではないよ。例え、これから後にお前が独りになる時が来たとしても、それは決して永い時ではない。跳ねる魚の巻き上げた飛沫の中の一つ。粒となって中空を舞う円に捕らえられた光が、一瞬間、強い輝きを放つ閃きにも似たものにすぎないのだよ。お前自身が望むのなら、地中に埋もれたまま一生を終える
Ⅶ、朝
少女はその時、目覚めとともに何かが変わっているように感じた。だが、しばらくしてそれが何か、ではないことを知る。変わったのは自分だった。昨日までの、眠りにつく瞬間までの自分が、自分に良く似た違うもの、心を持った人形のようなものであったような気がした。不意に『目覚めは、眠りの始まり。』そんな言葉が一瞬ではあったが、少女の記憶の片隅に浮かんだ。何となく、心を温かく包んでくれる誰か、不思議と落ち着きを感じさせてくれる誰かが、自分の傍らにいて見守ってくれているのがわかるような気がする。顔を上げれば、天窓からは暖かい光が差し込む。眠る子供たちを揺り起こす母親のように暖かで、父親のように力強い光がそこにいた。
彼女はゆっくりと寝巻きを脱ぎ捨て、その光を受け止めた。こんなことをしたのは、随分と久しぶりのこと、子供の頃にした記憶があるだけだったが、光の方は屈託なく少女の身体を抱きしめてくれた。布団に包まって味わうまどろみも捨て難いが、こうして光に抱かれて向かえる目覚めも、それに比べて些かの勝り劣りもなく心地のよいものだということに驚く。いや、そのことを忘れていた自分に、驚いたのかもしれない。ただ、抱きしめてくれる光と、その光を愛しいと感じることができるようになった自分自身を、彼女は好きになっていった。
――幻なんかじゃなかったんだ。
今ならば、信じるに足りる事実として受け止めることができた。全ては幻などではなく、実体を伴った一つの命であったということを。生命という、仮初めの衣を身に纏った無数の『光』たちが、輝きを増しながらも『闇』という温もりに安らぎを覚えたその瞬間、全ての暗黒の中に、その光と闇が弾けて融け込んでいく様を感じることができた。いや、自らが融け合うことを拒んでいない限りは、自身がその一つであることすらできた。それに答えるべく、そして、それを確かめるべく、少女と少女に注ぐ光は、しばらくの間、四肢を絡め合った。
存分に光を浴びた少女は、ゆっくりと制服を身に着け始めた。胸のリボンを結びながら、今日はのんびりと学校までの道を歩いて行くことができそうだと思った。
「乃亜、朝ですよ。」
階下から届く母親の声が、いつもと同じ様に今日も一日の始まりを告げる。
「もう起きてるよ。」
いつもとは違う少女の答えが、光の中を舞った。
真夜中のメザノッテ ななないなない @nintan-nintan
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