風呂の悪魔
@otyn0308
風呂に入るのは怖い
風呂には悪魔がいるのである。
あれは本気で私にささやきかけてきた。
「風呂に入るのだ。人間として生まれた以上、風呂から逃れることはできない。絶対に身体をきれいに、清潔にしないといけないときは来る。」と、私が風呂にいると考えている悪魔は寝室にいる私にまで届くように頭の中に話しかけてくる。こいつのことを風呂の悪魔とでも名付けてやろう、と密かに考えた。こうでもしないとこの悪魔に吸い込まれて気が狂いそうだ。
「でもそんなことを言われたところで風呂に入るのは本当に嫌いなのよ。だってあらゆる工程が面倒くさいし、風呂では急にいろんなことを思い出すの。走馬灯みたいに。」私も負けじと反論する。しかしこの言葉への返答はなかった。
「なんのつもりなんだよ」私は既に少し疲れていた。
風呂への意思を固められずにいると風呂の悪魔は再度話しかけてきた。
「それはそうと、そろそろ風呂に入る時間が迫ってきているのではないのか?このまま風呂に入らなければこの家にいられなくすることだって小生には可能なのだぞ。」この悪魔の一人称は小生なのか。生まれてどれくらい経っているのかは知らんが随分年季が入っているな。
「ひどいことを言いますね。入りますよ。どうせ私には今から風呂に入る以外の選択肢はないのだから。」
私は風呂に入らなければならない。このことは変わらないのである。一瞬気合を入れるために風呂場を見に来てみた。なにか視線を感じる。排水溝だ。排水溝から誰かが見ている。あれは風呂の悪魔だと考えて良さそうだ。風呂に入りたくないな、とふと思ったとき、目線とその威圧感が急激に増し、私は動けなくなっていた。
あの目で見られたとき、わたしは、わたしは、わたしはあの目を知っている。
そう、あいつの目だ。忌々しいあのひとの。ひとを、あの目で見るのである。呆れとも落胆とも言えるような様々な感情が入り混じった目だ。
ここで風呂に入らなければ確実に風呂の排水口の奥底に飲み込まれると確信した。深淵は常にこちらを見ているのである。私はあちら側が見ていることにもう気づいてしまっていた。
ほんとうにたすけてほしい
すみません。風呂に入ります。誓って。
そうして私は風呂に入ることを決めた。
風呂に入るにあたって、タオルを用意する、服を脱ぐ、頭を洗う、頭の水気を切ってタオルを巻く、体を洗う、風呂に入る、風呂から上がる、体を拭く、服を着る、頭を乾かす、といった一連の動作が必要になる。
風呂に入るのが本当に怖い。そういえばこの家にはドライヤーがないのではなかろうか。髪どうしよう。まあ風呂に入らないと風呂に棲み憑くあの悪魔に息の根を止められてしまうのである。こんなことは二の次だ。
今の私はさながら蛇に睨まれた蛙のようだ。そう、今の私は風呂に睨まれているのである。
そろそろ時間が差し迫っている。そう、風呂の時間だ。とりあえずそこらへんに落ちているタオルを手に取り、浴室に向かう。
まずは、震える手を抑えながら服を脱ぐ工程にかかる。
服を脱ぐと一言で言ってもこの作業は大変である。眼鏡をかけているためそれが引っかからないように先に眼鏡を外す必要があるとか、冬の時期は寒いため寒いと思いながら自分から寒い状態に身を置きに行かないといけないとか、とにかく少し考えるだけでもこれだけ面倒くさいと私に思わせてくる理由を挙げることができる。「いやだよー。」と言いながら身体は恐怖で勝手に動かされていく。このとき恐怖によって身体が動かないといったことが起きなかったことが救いだった。大体自分の身体を動かない状態に至らしめる理由は恐怖であった。それにさっきは身体が硬直して動かなくなってしまっていた。またあれが起きたらどうしよう。ずっと不安感に苛まれながら風呂に入る気持ちを出しつつ準備を進めていた。
そして風呂のドアに手を掛ける。これも本当に怖い。風呂の深淵とご対面の時間だ。なにしろその場には二人(悪魔の単位って人でいいの?)きり、一般的に言われるところのドキドキが発生することもなく、動悸がしてくるだけだった。わたしはあれに睨まれているのである。うれしいドキドキが起こるはずもないだろう。「よし、行くぞ!」と喝を入れ、勢い良くドアを引いた。「入ってしまった!!!」ついに入ってしまった。あの恐ろしい排水口の奥に潜む風呂の悪魔の波動を感じる。いまにも排水溝から出てきそうだ。心なしか排水口の蓋がガタガタと言っているような気がする。
なるべく排水口に目を向けないように気を配りつつ、私はシャワーの蛇口をひねる。温度を二つの蛇口をいい感じにひねることで調節する。私は風呂の中でこの工程だけは好きだと思える。よし、ちょうどよい温度になった。足から順にシャワーの水をかける。暖かくて気持ちがいい。この後体を拭かなければならないということに目を背け、全身をお湯で湿らせてゆく。よし、ここまでようやくやってくることができた。私はできるぞと心を落ち着かせる。
続いてシャンプーに手を掛ける。シャンプーの工程は嫌いとも好きとも言えないが、完全に嫌だと言い切ることはできないくらいの曖昧な感触がある。私は頭皮があまり強い方ではないのでマッサージの意味も込めて入念にシャンプーをした。どうしてこんなにめんどくさいことをしなくてはならないのだろうか。誰も答えちゃくれない。そうわかっていても口に出さずにはいられないのだ。風呂の悪魔は無口だ。このとき、少し話してみたいな、と少しづつ思い始めていた。さて、リンスとかコンディショナーとか、そういった局面まで風呂を追い詰めることができてきた。あとは時間の問題である。この工程ではいい香りがするし髪がサラサラしてくれるように思うので割と好きだ。私ってもしかして風呂のこと好きなのかもしれないとだんだん錯覚してくる。そんなことはないんだよと自分を取り戻させる。リンスとかそういったたぐいのものを手にとって髪になじませる。きれいな髪になるようにやや祈っておく。スルスルと手の指を使って内側にもなじませる。この工程ではリンスなどをつけたらしばらくそのままおいておくことに決めているのでそのまま顔を洗う。顔を洗うのはあまり好きではない。今までずっとこの手法を取ることでなんとか顔を洗うことに成功しているが、何も変わってくれなかった。もうどうせ肌の質は変わっちゃくれないのだ。どうして私がこんな苦痛を被らなければならないのか、苛立ちがつのる。人間として、特にこの性別に生まれてきたことを呪った。そう思いながら髪と顔を洗い流した。あとは髪にタオルを巻いて水気を取りつつ体を洗うだけだ。そういえば今日は湯船にお湯を張っていた気がする。寒いからな。寒いと頭がシャキッとしてくれて気合が入る。私の風呂への気持ちもシャキッとしてくれればいいのにと思った。
身体を洗うことはただの作業だ。遂行にあたって特筆すべき問題はない。マニュアルに書かれていることを空で読んでいるかのように作業を進める。これのおかげで体表の皮脂が洗い流され、風呂に入った後のさっぱり感が生み出されるのだろうか。考え事は尽きない。尽きるはずがない。私は考え事をして今まで生きてきたようなものだ。様々な読んだ本や自分が喋ったものが次々と頭に浮かんでは泡沫のように消えていく。ここまで考え事を繰り返していたら身体を洗い、それを水で流すところまでできた。わたしは体を洗うとき、ついでに足の裏とふくらはぎをマッサージらしき行為をすることでなんとなく健康になっていっているように思えるように意図してやることにしている。気持ちが悪いわけはないんだ。どれだけやってもいいだろう。今日は少しその工程を念入りにやった気がした。
ようやく湯船に浸かることができる。本当は入浴剤などを入れて更に自分を大切にしているかのような気持ちにさせていきたいものだが、入浴剤は手元にないので私の願いは叶わなかった。あとで買いに行こうと心に決めた。私は風呂に入るとき、どれだけ入ったかわからなくなったり一分や二分で上がってしまったりすることがあるのでスマホのストップウォッチ機能を用いて時間を図るようにしている。だいたい十分以上入っていられるように心がけている。特に今は冬の時期であることから、身体を温めておきたい。風呂に浸かって一息つく。ようやく各工程を済ませることができて安心していると同時にここまでの工程を済ませた自分に対して賞賛の言葉を与えた。
湯船に浸かると、身体が一気に弛緩し、これのためなら風呂に入ることも
ここでまた突然風呂の悪魔が話し始めた。安心できたと思ったらまたこれだ。私はつくづくこの悪魔から逃げられないのだと悟った。
「走馬灯か、風呂ではいろいろなことを思い出す人間がいることも知っているが、それは悪い思い出だけではなかろう。」風呂の悪魔は男のような声で話している。人間で言うところの男性なのだろうか。さっきの話の続きのようだ。
「でも嫌なんだ。風呂に入ることが突然嫌なことを思い出させられる可能性をはらんでいるというのは本当に苦痛だということがあなたにはわからないの?」
「いや、小生とて嫌な思い出を想起するようなことを好き好んでやるような人間ではなかった。」
「人間だったの?」
「ああ、口を滑らせてしまったな。随分昔のことだ。」
「ごめんなさい、もしあまり言いたくないことがあったらそう言ってください。」
「なにを改まって言い出すかと思えばそれか。今まで小生のことをなんだと思っていたんだ。」今にもため息が聞こえてきそうなセリフだ。声は聞こえないので脳内に直接文字列が送り込まれてくるためため息が聞こえないのが惜しいところだ。
「私は悪魔って言われて森の妖精みたいにその場所で自然に生まれるものなのかなと思っていたの。風呂の悪魔だってその例外にはならないように、そう考えていた。」
「ふむ、割と人間に近い存在にいる悪魔は人間によって概念が作り出されることはわかっているだろう?そうだな、餓鬼は知っているか?」
「うん、名前と何をしてそう成るのかぐらいは。」
「なら話は早いな。あれだって人間の恐れと信仰が生み出したものだろう。伝承として語り継がれていくなかで本当にいるように感じてしまう。神だってその例外ではない。」
「じゃあ風呂の悪魔もそのように今まで語り継がれていたっていうわけ?」
「小生の場合は違うな。小生はお前の意思そのものだ。お前の意思からこう成ってしまった。私はお前のおかげで悪魔として成ったのだ。」
「えっ、それってどういうこと?わたしが強く信仰していたとでも言うつもりなの?」これを口にして思ったが信仰とは違う気がする。ただの恐怖だけではなさそうだがそれを言語化するだけの力は私にはなかった。
「そういうことになるな。小生とて自分から大手をふるって悪魔に成るわけではない。」
「うーん、なるほど」
「風呂が嫌い過ぎるあまりに悪魔を作り出してしまうというのはよほどの嫌悪感があるのだろう。並大抵のそれではないことは小生にもわかっている。」
「私もほとんどの悪魔や妖精が多くの人間の信仰によって作り出されて力を持つようになることくらいわかるんだけど、それを作り出すきっかけになるほど私が嫌がっていたということだと考えていいのかしら。」
「そうだな。なにもお前だけが小生を作り出す原因になったわけではない。他にもたくさん風呂に入れないやつはいる。そういう奴らの気持ちや怨念が集まって小生が生み出された。」
「ふーん、他の人のこともわかるんだ。確かにインターネットとかで風呂に入れない人を何人か見たことはあるけれど。」
「風呂の悪魔のなり損ない共と風呂の悪魔ネットワークを介して互いの情報を交換し合うことができるからな。」
「随分悪魔界も発達しているのね。」
「それは人間界も同じだろう。」
「まあそれもそうか。それで、その悪魔ネットワーク?を介して話をしているというわけなのね。」
「風呂の悪魔ネットワークだ。風呂の悪魔とそれに近いものにしかアクセスできない特別な通信網だ。あまり間違えないでくれ、風呂の悪魔にとってこれくらいしか使える自由はないんだ。」
「ごめんなさい。風呂の悪魔ってできることは本当にそれだけなの?この、風呂に入れない人たちに話しかけて脅かすのと風呂の悪魔同士での情報伝達だけだなんて……」わたしは本当にびっくりしていた。もっと自由にやって悪魔ライフを満喫しているものだと思っていた。
「小生たちより上位の悪魔が決めることだからな。我々悪魔界庶民の権限など無に等しい。」
「悪魔って、なんて言えばいいんだろう、とても困窮しているのね。そんなこと知らなかった。」
「知る由もなかろう。悪魔との会合だってこれが初めてなんだろう。」心なしか伝える声のようなものが優しくなるように感じた。
「そうだけど……、まあもう悪魔に会うなんてことはないようにしたいわね。どんな悪魔がいるのか興味はあるけれど、それに手を出せるほど勇気がある人間にできていないわ。」
「まあそういうことだな。小生にとってもそれが最善だ。小生はお前が風呂に入れるようになって、小生のことを考えもしなくなった頃にはいなくなっていることだろう。大概の悪魔は役目が尽きたらそこで消滅する定めにある。」
「わかったわ。どれだけ時間を費やしたとしても最終的には風呂への恐怖がなくなってくれるように私も頑張ってみるわ。」こうは言ってみたもののわたしはその自信がなかった。なにせ今まで風呂への恐怖がなくなったことがないのである。どうせこの先数年は風呂及び風呂の悪魔におびえて暮らすことからは逃れられないのだろうな、とやや気持ちが沈んだ。
ストップウォッチに目をやると三十分を指していた。私はこんなに話し込んでいたのかとかなりびっくりしたが、湯船のお湯の冷め方から見て否定することはできなかった。身体が冷めることはなかったのでこのまま風呂を上がって身体を拭いて頭を乾かした。頭を乾かすのはあまり得意ではないが、考え事にふけっているときは一瞬で終わる。この体感速度の違いは何なのだろうか。二十年近く生きているがわからないままだった。子供の頃から風呂はあまり好きではなかったなと今になって思い出した。
しかし風呂が嫌いというだけで風呂の悪魔を顕現させることができてしまうとは夢にも思わなかったし、第一風呂の悪魔ってなんなんだ。ちょっと怖すぎやしないか。私はそういった信仰のたぐいに関してはとても薄いほうだと思っていたから内心(内心じゃなくても驚いており、あの悪魔にも既にバレている気がする。)とても驚いていた。今頃あの悪魔たちも実体を持つことができたことに驚いているんじゃないかしら、と自分がやってしまったことを棚に上げて勝手に妄想した。妄想はしているだけなら楽しくて好きだ。私の考え事もこういうところから来ているのだろうとなんとなく感じていた。浮かんでは消えていく妄想を紙に書き取ることも考えてはいたが、妄想だけにそれほどの労力をつかっていられるほど私は器用ではなかった。器用になりたいものだ。
まあそんなこんなでわたしは風呂を完遂させるに至った。
しかし一度風呂に入ってしまえば身体がさっぱりして気持ちが良くなる。私があれほど嫌がっていた理由がわからなくなってくる。しかし、ここまでうだつの上がらないことを言ってきてしまったことだし、本当に怖いのは事実だ。風呂の悪魔だっているしな。そうして風呂を後にし、布団になだれ込んだのだった。風呂の後の布団は気持ちがいいなと、本心をなんとなくこぼした。悩まずとも風呂に入ることができるようになりたい。そんなことは空から湯船が降ってくるでもしない限り無理なのではなかろうか。明日も風呂に入らなければならない。
私達の人生は続いてゆくのだ。
風呂の悪魔 @otyn0308
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