十六夜に命ず

古井論理

ディーゼルノイズと着信音

 それは高校の生物部が企画した研修で行った伊賀から研修を終えて帰っている時のことだった。私は隣にいた後輩――クイズ部と兼部していて、通称はチャットアプリでのハンドルネームから取って「解放戦線」である――と世間話をしていた。

「どうだい、疲れたかな」

 解放戦線に訊くと、解放戦線は少し目を伏せてイヤホンを取り出した。

「ええ。そろそろ寝たいので少し静かにしていていただけますか」

「ああわかった」

 解放戦線がイヤホンを耳にかけ、目を閉じる。私はポケットからスマホを取り出し、画面を点けた。と、バスのディーゼルエンジンが立てるノイズの間に、微かな着信音。私の手の中でこれから起こることを暗示するかのように、スマホが激しく振動した。


犬飼拓海――畜生……

    ――一番最悪なことが起こった……


 続けざまに画面に表示される犬飼からの2件のメッセージ。彼の日頃の文章や発言からは想像できないような重ね言葉に、私はただならぬ事態を読み取った。


古井論理――なにがあった


 入力中の表示が1秒ほどで止まり、送られてきたメッセージは私の頭にクッションで殴られたような衝撃を与えた。


犬飼拓海――さゆさん危険事態

古井論理――なんだと

    ――生命に関わるか

犬飼拓海――もう疲れた、ごめんもう消えたい


      この後既読なし、通話も三分コールしたが反応なし


 私の脳裡に「自殺」の二文字が浮かぶ。過去に似たような事があったときも、私のもとには断片的で暗喩のようなものしか残らなかった。


古井論理――うわわわ


 間抜けな悲鳴にしか映らないようなメッセージを送ってしまったが、それどころではない。私は踏切にさしかかり揺れるバスの中で、タイプミスをしないように気をつけた。


古井論理――家に行け


 それからこの情報を付け加えた方がいいか。


古井論理――首をくくったのなら20分以内で志望確率が100%になる


 「志望」と誤変換したことに気づいたのは、切迫した空気に気圧けおされてメッセージを送ったあとだった。


犬飼 拓海――まじかよ


 まずもって彼から送られてくる文章とは思えない文章。よほど気が動転しているのだろう、そのあと入力中のテロップが表示されては消えていた。


…入力中


…入力中


…………


……グズグズしてる場合か。手遅れになったらどうする。

 そんな言葉ばかりが頭の中を駆け抜ける。かつて興味本位で飲んだミョウバンを溶かしたにがりを口に含めるだけ含んだような気分がした。


古井論理――なるべく早く見つけるんだ

    ――急げ


 「居場所はどこか分かっているか?」と確認しようと思ったところで、犬飼からようやくメッセージが送られてきた。


犬飼拓海――恐らく家にいると思われるんだ


 なんだ、おぼろげながらも分かっているのか。ならばなおさら「グズグズするな」。


古井論理――急げ

    ――家に行くんだ

    ――親がいるなら部屋を確認するように言ってくれ

    ――そうしなければ危ない


 続けざまにメッセージを送る。この間、わずか50秒もなかっただろう。


犬飼拓海――17:12 さゆ  『ごめん』

      17:12    [メッセージの送信を取り消しました]

      17:13 さゆ  『私もう消えたい』

      17:13 たくみ 『うん』

      17:15 たくみ 『衝動に任せて動かないように一回椅子か何かに座って』

      17:15 たくみ 『椅子なければ最悪床』

      17:17 たくみ [通話キャンセル]


      この状態


 私の脳内に「『うん』とか言っちゃ駄目だろ」という言葉が浮かび、手が打ち込みを始める。しかしそれどころではないことにはとうに気づいていた。


古井論理――まずいぞ……親に連絡!


 芝居がかった6つの点が、予測変換で勝手に出てきてメッセージに挟まる。犬飼からはすぐに返信が送られた。


犬飼拓海――親の連絡先知らんよ


 私は1つだけ、考え得る最良の選択肢を送った。


古井論理――なら家まで走れ

犬飼拓海――あ、佐藤は知ってる


 こいつは何を言ってるんだ。私は心の中で頭を抱えていた。


古井論理――ぐずぐずしていると死ぬぞ

    ――家まで自転車で行くんだ

    ――急げ

    ――好きな人だろ?

    ――知っている人が死ぬのは嫌だ

    ――君だって嫌だろう

    ――無理矢理にでも止めろ

    ――紐を切れるものを持つんだ

    ――いや、何も持たなくていい

    ――とにかく急げ


 メッセージを連続して殴り書きのように打ち込む。約5分後、電話がかかってきた。

「メーデー、メーデー」

 犬飼が少し荒めの息をつきながら、普段よりかなりトーンの高い掠れ声で喋っている。なりふり構わぬ声は、どうやら覚悟を決めたようだと察するには十分だった。

「どうした」

 私はバスのディーゼルエンジンの音に隠れるように携帯を通路側、左の耳に当てて右手で口を覆い、エンジン音に寄せた低めの小声で返事をした。

「今走ってる……」

 犬飼はやっと行動に移したようだ。私は若干の安堵と嫌な胸騒ぎを覚えた。

「わかってる。わかるか、残り2分だ。急げ」

 ときに17時31分。私が最初に提供した情報に基づくなら、17時13分以降に吊ったと仮定して18分が経過している。

「ああ、わかってる……坂きつい!」

 少しして、犬飼の息がすこし落ち着いたのを感じた。

「家にいたら突入するんだ。窓を割っても構わんだろう。というか……さゆさんはいるのか?」

「とりあえず……家には誰もいない……か?明かりがついてない、車はある……」

 犬飼の返事に、なんとなく予測していた事態を感じた。犬飼はインターホンを鳴らしたようだった。

「すみません……あの、ちょっとチャットしてるときにさゆさんの様子が怪しかったので大丈夫かな……と」

 さゆさんの母とおぼしき声が返す。

「少し前に出て行ったけど……」

「どのくらい前ですか?」

「日が落ちる前にちょっと出かけるって言って出て行ったけど……もう日も暮れるよって言ったけど大丈夫って言って出て行った」

 私は日没時刻を調べる。「16:49」という検索結果が表示された。

「マジか……実は今ネットの友人と少しトラブルになってるみたいで、こういう状況なんですけど」

 犬飼の声がマイクから遠ざかる。状況を説明しているようだった。

「少し見せてくれる?」

「どうぞ。どこ行ったんだろうな……」

 犬飼の声が再びマイクに近づいた。

「古井君、どこにいると思う?」

 私は「屋外ならば」と首吊りでない可能性に従って考えを巡らせた。

「その周辺徒歩20分以内のエリアに高さが4メートルを超える断崖、飛び降りやすそうな場所、あるいはフェンスの低い崖はないか?そこにいるとすれば足がすくんで容易には飛び降りたりできないからまだ健在かもしれない」

 犬飼は少し考えたあと答えた。

「ここら辺は山がちだけど……ないかも。わからない」

 飛び降りならば他には……川か。

「なら川だ。橋桁が4メートル以上で、乗り越えられるくらい欄干の低い橋は?」

「橋は二個。だけどどっちも橋桁は僕の頭ぐらい」

「流れは」

「どっちもゆっくり」

「川の水量は」

「小さな川にかかっているのが1つ」

「もう1つは?」

「一級河川にかかってる」

「そこは徒歩20分圏内か?」

「僕徒歩が分速100メートルだから参考にならないかも……」

「換算すればいいんだよ」

「……余裕で20分圏内だよ」

「ならそこかも」

 バスが山奥の森林に入る。来たときはここで少し通信障害が発生したな、と思い出し、通話が切れないことを祈った。

「ちょっと待って、あてがあるかも知れない」

「どこ」

「ハルさんのところかも」

「そこは近いのか?」

「わりかし近い」

「でも今から消えたいって言ってるような人が友達の家に行くかな」

「……」


犬飼拓海――すまん切らせてもらう


 メッセージが届き、通話が切られる。私は見つかることをただ祈ることしかできなかった。

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