第19話 Kiss Me Right Now!

 「え、どうして?」

 思わずききかえす。グミ先輩は暁美あけみの顔をじっと見た。

 「暁美と、離れたくなかったから」

 「えっ?」

 体の中から正体のわからない湯気のようなものがほわっと上がってきて、それが頭から溜まり、肩のあたりにつっかえ、体の内側に貼りついて、胸から上がいちどに熱くなった。

 落ち着いて!――と思う。

 「それって」

 でも声はうわずっていた。

 「わたしが頼りないからですよね?」

 「それもある」

 グミ先輩はおもしろそうに言った。

 「でもね、暁美には悪いけど、暁美といっしょにいると、心が支えられた」

 なぜ「心が支えられた」と言うのが、「暁美には悪い」のか。

 わからない。

 グミ先輩はくすぐったそうにつづける。

 「だって、暁美って、そばから見てるとおもしろいぐらいにがんばるんだもん」

 すぐに言い返す。

 「だって、わたしなんか、がんばらないと何もできないのに」

 「でも、がんばるとすごいよ、暁美って。だって、去年、天文部に入りたいって言ったとき、暁美、ほとんど何も知らなかったでしょ?」

 「ええ、まあ」

 自分の声が澄んできたと暁美は思う。

 「中学校のころ、理科全体がすごく苦手でしたから」

 いまも苦手だ。

 だから、あの喜瀬川きせがわ先生の地学も苦手で。

 「でも、いまは、観測家として必要なことはひと通り知ってる。今日、始まる前に原稿ちょっとだけ見たよ。系外惑星のホット・ジュピターのこととか、木星の衛星の生命の話とか、詳しく書きこんであって、ほんと感心した」

 「だって、今度は特別に準備したから」

 その慌てぎみの暁美の答えに、グミ先輩はいっそうほほえんだ。

 「わたし、勉強でも何でも、自分でいい加減でやめようと思ったときにさ、暁美ならここでがんばるよね、って思って、がんばったこと、あるんだ。それでたしかに、数学とか成績上がった」

 グミ先輩は眼を細くして暁美を見る。

 「数学、苦手だった。理系でそれまずいよねって思ってた。で、暁美ならばがんばる、暁美ならばもっとがんばるって自分を励まして、勉強した。そしたらね、なんか知らないけど、なんか自然にいろんなことがわかるようになったの。それは暁美のおかげだよ」

 「そんな」――と言おうとした。「そんなことないです」と。

 でも、暁美は、魔法にかかったように声が喉から出ない。

 それに、わからないと思っていたものを無理にがんばって、あとで気がついてみると「自然にいろんなこと」がわかるようになってる、という感じは、暁美も何度もした。

 グミ先輩は首をちょっと傾げて、つづけた。

 「そうやって暁美にがんばる気もちをもらってる子、多いよ、きっと」

 「そんなことないです!」

 さっき抑えたぶんがいっしょになって噴き出た。

 「わたしって、何をやってもうまくできないから」

 悲しくなる。涙が、涙腺からというのではなくて、首の底のほうから出てきてあふれそうだ。

 どうして、グミ先輩はわたしが悲しむようなことを言うんだろう。

 こんなときに。

 「だから……だから、お人形さんみたいって。実際に何かやらせてみたら何の役にも立たないから、人形みたいって」

 いや、違う。

 グミ先輩はわたしを励まそうとしてくれた。でも、わたしはそれで勝手に悲しんで……。

 「暁美」

 グミ先輩が、すぐ横で、やさしい、そっと包みこむような声で言う。

 そして、暁美は包みこまれた。

 「?」

 肩の後ろに手を回して、グミ先輩がそっと抱いてくれたのだ。

 肩の後ろの髪ごと――そのお人形のような。

 「あっ……あっ、えっ?」

 膝の力が抜ける。

 膝が震える。その震える膝で体を支えようとしても、その力が続かない!

 屋上のコンクリートの上にじかに膝をついた。

 グミ先輩は、それに合わせて、膝を揃えてしゃがんでくれる。

 屋上の囲いの壁より下になって、星空は見えなくなった。

 「だったらさ」

 体の表面からそっと滲みてくるような声が続く。

 「どうして、このお人形さんみたいな長い髪をいつまでも伸ばしてるの?」

 首の後ろで、その暁美の髪をグミ先輩が愛おしそうに撫でている。その手の、指の動き、それに合わせて弾む息づかい……。

 「……」

 「ね? お人形さん、って呼ばれるのならそれでもいい、お人形さんにどれだけのことができるか、やってみよう、っていう決意があるからでしょう? 自分のことを、お人形さん、って呼んでいるだれかを見返すとか、そんなんじゃなくてね。お人形さんでできるところまでやろう、どこまでできるだろうって、ずっと試しつづけてる。そして、実際にその限界みたいなところに行きあたらないから、いまもがんばりつづけてる」

 「そんなこと、ないです、そんなこと……」

 涙がこぼれた。グミ先輩が言っているような自分に、自分がなれたら、どんなにいいだろうと思う。

 でも、すっ、と、思いがしのびこんできた。

 「なれたら、どんなにいいだろう」と思うんだったら、なってみればいい。

 はっとして、顔を上げてみると、グミ先輩が暁美を見ていた。

 グミ先輩の顔のほうが少し上にある。外から漏れてくる明かりが斜め後ろからグミ先輩の顔を照らしている。

 グミ先輩の顔の肌は白い。見上げているだけで柔らかい木綿のような肌触りが伝わってくる。

 そのグミ先輩の柔らかさのなかに包まれて、そのまま溶けて行ってしまいそうで、心地よい。暁美はふっと気を失うように目を閉じた。

 髪ごと肩を抱いていた手を緩めて、グミ先輩がささやく。

 「Oh! Be A Fine Girl!」

 すてきな女の子になって。

 ――こまやかで、晴れやかで、けっして派手じゃないけど、輝いて見えるように上品で……。

 暁美は、まどろみから目覚めるように、細くその目を開く。

 グミ先輩はほほえみかけている。そして、まっすぐに体の芯に向かって入ってくる声で、言った。

 「つづきは?」

 Oh! Be A Fine Girl!――そのつづきは、何だっただろう?

 忘れるはずがない。

 暁美は、答えを口に出すことなく、そのことばのとおりにした。

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