第18話 グミ先輩の話

 それでも、さっき閉じ込められて以来速くなっている自分の鼓動の音は聞こえたし、ああ、観望会が終わっても木星は明るく見えてるんだ、なんていうこともわかった。

 「先輩のお父さん?」

 止まったことばを、ゆっくりと再開してみる。

 何か、変な感じがした。

 その変な感じに暁美が取り組めるようになるまで、グミ先輩は待ってくれる。

 グミ先輩。

 グミ、は、恵美めぐみのグミ、で。

 だから、先輩の名まえは、山岸やまぎし恵美。

 あ。

 「でも、苗字が違う……」

 「そう。お父さんとお母さんが、わたしの子どものころに離婚したから」

 「あ、わたしって」

 暁美あけみ狼狽ろうばいする。

 「その、何か変なことをきいちゃって」

 「言い出したのわたしのほうよ。ほら、落ち着いてって」

 いや、落ち着けと言うほうが無理だ。

 ――と考えることができる程度には、暁美は落ち着いていた。

 セリには締め出され、先輩にはびっくりするような話を聞かされて。

 グミ先輩は、大きく深呼吸すると、椅子から立ち上がった。

 この屋上は、まわりを、ひじをついてもたれてちょうどいいくらいの高さの壁で囲ってある。

 グミ先輩は、南側の壁のところまで行き、壁の上に手をついて空を見上げる。

 暁美も立ち上がって、その横に並んだ。

 夜空を見上げると、やっと気もちが落ち着いてくる。つまり、「自分が落ち着いていないことがわかるくらい」よりももっと、落ち着いてくる。

 「それで、あのとき、先輩、答えるのをためらったんですね」

 「ええ」

 グミ先輩はちょっと得意そうに答えて、暁美の顔を見る。

 肩のあたりまでのグミ先輩の髪の毛が斜めに流れ、先輩の頬にかかった。

 「お父さんもお母さんも、大学でおんなじ教室にいて、いっしょに、その天文学っていうのを勉強してたの」

 先輩は話し始めた。

 「だから、結婚してからも、ずっと夫婦でいっしょに勉強をつづけてた。それで、お兄ちゃんが生まれて、わたしが生まれて、それでわたしが小学生だったころに、お父さんがいまのオーストラリアの仕事をやらないかって誘いを受けたの。そのころ、お父さんって日本で決まった仕事がなかったんだ。大学の先生って数が限られてるからね。だから、どんなに実績があっても、なかなか決まった職に就けない」

 「ええ」

 「それで、お父さんは迷ったらしいんだ。でも、まあ、天文学者として就職できる最後のチャンスかも知れないって、お母さんも勧めて、それでお父さんは、その――あの彗星を発見したプロジェクトが動いてるスプリング・マウンテン天文台ってね、その天文台を持ってるポート・ウォーレス大学ってところに行った」

 「ええ」

 それだけだと、とてもいいお父さんとお母さんのお話だ。

 それがどうして離婚したのだろう?

 「でもね、それって、お母さんが、天文学者になる、つまり、天文学の研究っていうのをつづけるのをあきらめる、ってことだったの。それにお母さんが気がついてなかったのね。一人で、子どもを二人育ててさ、ご飯作ったりいろんなことして。しかも、天文学の内容も、観測の方法も、最近はすごい勢いでどんどん変化して行くからさ。それでついて行けなくなっちゃった。わたしは気がつかなかったけど、お兄ちゃんは、お母さんが、夜、一人で泣いてるの見た、って何回か言ってた。それで、きっかけは、何だったかな。お父さんが日本に帰ってたときに、お母さんに、いっしょにオーストラリアに来ないかって言ったときだったと思う。それで、お母さんが、いまさらよくそんなことが言えますね、とか言って、それでお父さんも意地っ張りだから怒っちゃってさ、それで気まずくなっちゃった。それで、わたしが六年生のとき、普通に学校から家に帰ってみると、離婚したから、苗字変わるから、ってそれだけ言われて。あっさりしたものだったけど、あれはびっくりしたなぁ」

 それはびっくりする。

 グミ先輩でもびっくりするだろうと思う。

 それで、うちはだいじょうぶかな、と思ってしまったところが、何か情けないと暁美は思った。

 お父さんが単身赴任なのは暁美の家もいっしょだ。

 ……だいじょうぶだと、おもうんだけどなあ……。

 いや、自分の家のことではなく、グミ先輩の家だ。

 そのとき、いまさらオーストラリアに行くなんて、と言ったお母さんの気が変わった……?

 「それで、こんど先輩がオーストラリア行くっていうのは?」

 「復縁するんだって。つまり、もとの夫婦に戻るんだって」

 他人ごとのように、でも、冷たくはない言いかたで、グミ先輩は言った。

 「だって……別れたのに?」

 「だからね」

 何かおもしろいことのようにグミ先輩が言う。

 「お父さんが倒れちゃったのよね」

 「えっ?」

 それはたいへんだ。

 「病気ですか?」

 「病気っていえばそうかも知れないけど」

 グミ先輩が笑う。

 「ほんと、めちゃくちゃな生活してた人だから。ほら、わたしたちも、こないだのペルセウス群のときに徹夜したでしょう?」

 「うん」

 ――セリは、眠っていたみたいだけど。

 「お父さんは観測家じゃないけど、やっぱり望遠鏡で観測したりする仕事で、ずっと望遠鏡のところとか、観測してるスタッフとかについてないといけないから、徹夜して。それで、昼は昼で大学で教えたりとかしてるわけだから、寝るわけにいかないでしょ。それに熱中しちゃうと寝るの後回しにしちゃう人だから、どうせ眠れないから、とか言って。うちにいたときもすごかったのよね。いま目が覚めてから七十時間め、とか自慢してた。しかも、そうやって起きてると、夜中に平気でカップラーメン三杯とか食べるのよね、それもちっちゃいのじゃなくて、どんぶりみたいにおっきいやつを。あと、なかにマーガリンがいっぱい詰まったパンとか。もちろん朝昼晩はちゃんと食べて、だよ!」

 それは体にすごく悪そうだ。

 「オーストラリア行ってからもそんなのだったんでしょ、たぶん。しかも、そういうのをうるさく言うお母さんがそばにいなくなっちゃったんだから、よけいに。それで、なんかさ、今年の六月ごろさ、台湾の天文学者の人が来て、その人がお土産で持ってきたすごく強いお酒をいっしょに飲んでたら倒れちゃって、天文台まで救急のヘリコプター呼んで、まわりみんなをすごく心配させて。だからさ、今世紀でいまのところ最大の彗星を発見した人、っていうのは、そういう人なの!」

 グミ先輩は笑っていた。

 「だから、暁美に、どんな人ですか、ってきかれて、ちゃんと答えられなかったわけ――まあ、あのときはまだ倒れてなかったけど。すごいめちゃくちゃな生活してる人で、わたしの父です、とも言えないじゃない?」

 グミ先輩は頭を少し斜めに向けて南の空を見上げる。

 暁美もその姿勢をまねしてみた。グミ先輩のばあいは軽やかだけど、自分は髪の毛が長いぶん、重い。

 ても、そうすると、グミ先輩の気もちが、すっと自分のなかに入ってきた感じがした。

 「先輩、そのお父さんが好きなんですね」

 「うん」

 グミ先輩はうなずいた。

 「それで、お母さんも、お父さんが好きなんだと思う。離婚して失敗したって思ったんじゃないかな。自分がついてないとお父さんはとんでもない生活するから、って言ってるけど、それだけじゃないと思うんだ」

 そう。グミ先輩は、お母さんも好きなんだ。

 「じゃ、グミ先輩が行っちゃうのも、しかたないですね」

 暁美が言う。グミ先輩はその暁美の顔のほうを振り向いた。

 「ずいぶん抵抗したのよ、わたし」

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