第7話 旅立ちの刻(とき)



工藤は人の良い青年だった。


学内でも珍獣と名高い狩野田宰の世話係をしている工藤を、学内、それも医学部の学生たちは尊敬の眼差しで見ていた。


工藤から見ても、宰はまさに珍獣だった。

顔も頭も抜群に良い。ただ、思考回路が別の次元にある。こだわりと思い込みが強すぎるのだ。


時折命知らずの女子たちが寄ってくることもあるが、宰はナチュラルにイラつく物言いをするので、皆水が引くように去って行ってしまう。もちろん本人に悪気はない。むしろ自分はモテモテだとすら捉えている。ついでに周りをイラつかせている自覚もない。


工藤も進んで自ら宰のサポートをしているわけではない。

ただ、なぜか工藤は宰に一回生のころから懐かれていたし、決してベータやオメガを見下さない宰に、工藤も好感を抱いていた。

恵まれた家庭に育ち、優れた能力を持ちながら、宰は誰に対してもフラットだった。

おそらく、自分が飛び抜けて優れているという自負があるため、他の人間は全て同じレベルに見えるのだろう。工藤はそのフラットさを、宰の長所だと思っていた。


しかしどうも、ひと月ほど前からフラットさは崩れてきた。

ある一人の人間に固執するようになったのだ。


狩野田宰は、恋を知ってしまった。


それから先の宰は、たとえ工藤であろうと手のつけようがなかった。

宰にはアクセルしか付いていない。彼はブレーキを母の身体に置いて生まれてきた男だった。速度調節を知らない宰は、初めての恋でアクセルをベタ踏みし続けていた。残念なことに、宰のエンジンはその都度増す回転数に耐えられるようにできていた。


なぜなら宰は、スーパーアルファだからだ。


そして今、居酒屋バイト中の工藤のもとに、その規格外の男が押しかけてきていた。

これまで見たことのない、切羽詰まった顔をして。


「なんだ、狩野田。どうした?」


時刻は午後三時。

まだキッチンの仕込み中で人手は足りていたため、工藤は店長に断り、店の前に仁王立ちになっていた宰に声をかけた。

普段財布とスマホしか持ち歩かない宰には珍しく、今日はリュックを背負っている。


宰は深刻そうに顔を歪めると、周囲を気にしながら言った。


「大変なんだ、航ちゃんが……」


航ちゃん。

その名前が出た瞬間、工藤は話を真剣に聞くのをやめた。

またいつもの妄想か、とため息を吐く。一週間ほど前にキャルメリから「航ちゃん」が退会してからは、宰もだいぶ大人しくなっていたと思っていたが、どうやらまだその執着は続いているらしい。

工藤が遠い目になったのにも気付かず、宰は続ける。


「航ちゃんに、何かあったのかもしれない……」

「……なんで?」

「今日、航ちゃんに電話してみたんだ」

「…………なんで????」


工藤の頭には疑問しか浮かばなかった。

そもそもなぜ電話番号を知っているのか。なぜ電話をするのか。ストーカーとしての道を本格的に歩み出してしまった感すらある。いや、もっと前からストーカー街道は歩いていたのだけれど、電話となると本格派である。


「キャルメリからいなくなってしまっただろう? 何か事情があるのかと思って、航ちゃんからの連絡が待ってたんだが……。ここはやはり僕から連絡すべきだな、と思ってね」

「……お前と連絡したくなくてキャルメリ退会したんだと思うけど」

「ふふ、それにしても航ちゃんの息遣い、かわいかったな……。恥ずかしがってすぐ切られてしまったけれど……」

「……こえーよ、お前」


さすがの工藤もドン引きだった。

航ちゃんの心境を思えば涙が出そうだ。


——航ちゃん、迷わず警察へ行くんだ。こいつはもうダメだ。君だけでも助かるんだ。


遠く東京に住むという「航ちゃん」に

念を送りつつ、工藤は無駄だとは分かりつつも、宰をたしなめるように言った。


「いきなり電話はだめだろ、お前。ただの取引相手なんだから」

「運命のつがいだ」

「……あー、うーん、でもさ、もしかしたら航ちゃんももう恋人とか、良い感じの人がいるかも」

「それはない!!!!」

「ひっ」


道の真ん中で大声を出した宰を、道ゆく人がちらちらと見ている。誰か助けてくれ、と祈るような気持ちで工藤は心の悲鳴を上げた。

宰はじりじりと工藤に詰め寄りながら早口でまくしたてる。


「航ちゃんからの三度目の取引メッセージの返信でそれが分かる。航ちゃんは『匂いが付いていたことに関しては申し訳ありません。抑制剤を服用しておりましたが、こちらの配慮が足りませんでした』という文章を僕に送ってきてくれた」

「……めちゃくちゃ心の距離あるじゃん」

「つまり、これがどういうことか分かるか?航ちゃんは抑制剤を飲んでいる。つまり発情期のときにそれを治める相手がいないということだ」

「……へー」

「航ちゃんは、待っててくれてるんだな。僕と出会うその日を……」

「絶対違うと思うぞ」


うっとりと頬を赤らめた宰に指摘してみるが、まるで聞いてはいなかった。こんな奴が医者になるのか、と工藤は怖気だつ。絶対こんな医者には診られたくない、と彼は強く思った。

もうそろそろ退散しようと工藤が後退りを始めると、宰は「そうだ」と何かを思い出したように声を上げる。


「工藤、自転車を貸してくれ」

「え、なんで?」

「航ちゃんに会いに行く」

「ん?」

「もしかしたら何か危ない目に遭ってるのかもしれない。電話で話してくれなかったのも不審だ。様子を見に行かないと」

「…………」


危ねーのはお前だよ。

お前が怖くて電話切ったんだよ。

そう口を開く気力もなく、工藤は胸の内で呟いた。それにしても。


「……航ちゃん、東京にいるんだよな?」

「そうだ」

「チャリで行けるわけないだろ。ていうかそもそも会いに行くな。いい加減正気になれ。親を泣かせることになるぞ」


医学部の息子がストーカーで逮捕なんて、目もあてられない。工藤は純粋な親切心で説いたが、対する宰は曇りのない瞳を瞬かせ、はっきりと言った。


「お金がないんだ」

「は?」

「航ちゃんから服をたくさん買ったから、今月はもう自由に使えるお金がない。一ヶ月の限度額は父さんと約束してるからな。今月は残り1000円しかない」

「…………」

「新幹線や飛行機は無理だ。となると自転車が一番速い。ただ、あいにく僕は自転車を持っていない」

「お前さ……」

「というわけで、工藤。自転車を貸してくれ」


何を言ってるんだ、こいつは。

工藤は困惑の境地に追いやられていた。

大阪から東京までの距離をチャリで。それは自分探しの旅をする奴がよくやるやつだ。正気の沙汰ではない。

いやしかし、と工藤は考える。

そもそも、宰はここしばらく、ずっと正気を失っている。だとしたら、この案すらもこいつにとっては常識の範囲内なのかもしれない。


「だめだ、貸せない」

「……なぜ?」


工藤はなんとかして宰の奇行をここで食い止めたいと思った。宰のご両親のため。そして遠い空の下で怯え切っているであろう航ちゃんのため。


「お前の言ってることはおかしい。冷静になれ。どうしても東京に行きたいなら、親にでも話して……」

「工藤!!!!」

「えっ」

「君は!!!! 愛するひとに会うためのお金を!!!! 親にせびれと言うのか!!!!」

「ちょっ……大声やめて……」


周囲から視線が集まり居た堪れなくなる。宰がここまで感情を露わにするのを、工藤は初めて見た。それほどまでに航ちゃんへの想いが強いのだ。でもそんなことはどうでもいいから、早く帰ってほしいと工藤は心から願った。


「見損なったぞ工藤!!!! 君は心が優しい男だと思っていたのに!!!!」

「狩野田、人が見てるから……」

「工藤!!!! 僕の想いの強さをなぜ分かってくれない!!!! 工藤!!!!」

「分かってるって、分かってるから静かに……」


とにかく工藤の連呼をやめて欲しかった。店からほかのバイト仲間も出てきてしまった。こんな奴と知り合いだなんて思われたくない、と全身に嫌な汗をかきはじめた工藤は、己の志を曲げた。


——ごめん、航ちゃん。


心のなかで土下座しながら、工藤はポケットから自らの自転車の鍵を取り出した。

工藤が人生で初めて、裏切りの味を知った瞬間だった。


「……ちゃんと返せよ。そこの駐輪場にある」

「工藤……」


いくら宰でも、チャリで東京まで行けるはずがない。工藤はそう信じたかった。けれど同時に「狩野田ならやってしまうのではないか」という恐れも抱いた。


なぜなら宰は、スーパーアルファだからだ。


「ありがとう、友よ」


宰は優雅に微笑むと、その鍵を受け取った。

信じていたよ、と呟きながら。





◆◆◆





宰は借りた自転車の鍵を開けて、颯爽と跨った。工藤が中古で買った、シルバーのママチャリ。サドルの位置が低かったので、微調整も忘れない。


リュックに必要なものは詰めてきた。

宰の体調は万全だった。


「System all green……」


そっと口にして、宰は前を見据えた。陽は傾き始めたところだった。晩秋の夜は冷える。

手袋を着けて、彼はひとつ大きな深呼吸をした。


一刻も早く愛するひとの無事を確認したかった。そして、自分こそが運命のつがいなのだと、会って安心させたかった。


宰は羽織ったアウターのポケットからスマホを取り出すと、形の良いその唇を、ゆっくりと近付ける。


「Hey,Sari」


英検1級の完璧な発音で音声アシスタントを呼ぶ。ピコン、という無機質な音にその起動を確認すると、彼は旅の相棒となるアシスタントに、朗々と指示を出した。


「今から言う住所まで、僕を導いてくれるか?」


愛するひとの住所は諳んじることができた。

ゴーゴルアースで確認したアパートの外観も、その周囲の景観も、宰のIQ250の頭脳に狂いなく記憶されていた。


なぜなら宰は……スーパーアルファだからだ。


夕陽の朱に目を細め、宰は続ける。


「もちろん、最短ルートでね」


彼の瞳は、遠く東の空を見ていた。



愛の旅は、こうして始まった。






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