望郷のプエッラ〜ある伯爵令嬢の憂鬱〜
@FuchiseA
第1話 青空に焦がれる娘
見合い会場へと疾走する馬車の小窓に顔を寄せ、オルドリッチ伯爵令嬢ソフィー・フロレンスは流れゆく景色を眺めた。
林の木々が飛びすさってゆく。外に出るのは久しぶりである。オルドリッチ伯爵家の邸宅は遥か後ろに遠ざかり、今世の母親自慢の庭園ももはや緑色の草地にしか見えない。伯爵家所有の林を抜けると木々の緑から視界が開け、突然、広い空が現れた。
真っ白な空が、窓の外に広がる。ソフィーは悩ましい小さな吐息を漏らした。冷えた窓硝子が
「冷えるからカーテンを閉めなさい、ソフィー」
「これくらい平気よ、お父様」
肩をすくめて笑ってみせ、ソフィーはまた小窓に顔を寄せた。
久しぶりに見る
だが、白い空はソフィーの不快感を他所に、まるで明るい曇天のように全体が発光している。決して眩しくはないその光は常にこの世界を照らしていた。昇りそして沈む太陽は、この世界には存在しない。かつて、いつかは見たいと憧れたオーロラも、一生見ることはできない。そもそも存在すらしない現象である。
この世界では、朝も、昼も、夜も、時間帯を指す記号に過ぎない。この世界の空はいつだって白い。只管に白い。青く晴れ渡ることも、灰色に曇ることも、黒く光を飲み込むことも、星々がきらめくこともない。ただ白い。白く濁り続けている。
ソフィーは発光している空に目を凝らした。白い空というカンヴァスに、暗く小さな穴のようなものが点在しているのが微かに見えた。遠く上方の島が創り出す影である。この世界の大地は、すべからく空に浮かぶ島として存在している。
この世界には星という概念が存在しない。ただ、空と、浮かぶ島があるばかりである。
「ソフィー」
「もう少しだけ」
「風邪でも引いたらどうする」
「これくらいなら平気よ」
上の島は暖かく、下の島は寒い。光源との距離が要因だとされている。それだけはソフィーも知っていた。ただ体感したことはない。他の島を訪れたことがないのだ。この世界の遠距離移動は、魔法と切っても切り離せない関係にある。にも関わらずソフィーは魔力そのものへのアレルギーがある。だからこの島を出ることは叶わない。
皮肉なことだった。せめて魔法が使えたなら、ソフィーだってこの世界に愛着が持てたに違いなかった。
「この辺りに面白いものなどないだろう」
「まあ、それはその通りだけど」
事実はただ横たわっている。ソフィーの葛藤は、いつも諦観へと着地する。憤っても咽び泣いても、自分の力が及ばないことはあまりに多い。どうにもならないことは分かりきっていた。
飛ぶように過ぎ去る景色を尻目に、ソフィーは出がけのやり取りをぼんやりと思い出した。
ほどほどで済ませろと言われたって困るんだよな。
ぎゅっと締められたコルセットで息を詰まらせ、ソフィーは内心で毒づいた。見合いに行く娘にかける言葉としては零点である。しかも久しぶりの外出が見合いというのは大幅な減点対象だ。
とはいえ相手は天下のオブライエン公爵家。婚約に至って欲しくはないがさりとて不興を買いたくもない、という、今世の父の気持ちはソフィーにもよく分かる。前世で日本人だった記憶があっても、白い世界に生を受けてもう十七年。いい加減、魔法と階級社会の世界にだって慣れるというものである。
たとえ魔力そのものがない、下らない希少種に生まれたとしても。
しかしコルセットを着けるとなると、話は変わる。
「ねえ……今時こんなに、締める必要、あるかしら?」
「お見合い、ですもの」
メイドは力んでいるのが分かる、歯の間から出したような声で言った。人力でコルセットを締める作業は七面倒なものである。どんな淑女でも愚痴を言わずにはいられない。メイドもメイドで内心は非難轟々である。
「さ、終わりましたわ。いかがですか?」
「ありがとう。何とか息はできるみたい。魔法仕掛けのコルセットを使えたら━━」
━━もっと楽に済んだのに悪いわね、と言おうとしてソフィーはやめた。場の空気が凍り付くのが分かったからだ。
昨年のこと。魔法仕掛けのコルセットが誤作動を起こし、令嬢の肋骨が折られるという事態が起きた。内臓も損傷してしまったという。とても有名な事件で当然ながらメーカーは自主回収に追われることとなった。幸いにも専属魔法士がコルセットを破壊し、速やかに怪我を治療したことにより、被害者である令嬢は回復したというが。
“対処が遅れれば、哀れな令嬢は上半身と下半身に分かれていたに違いない。”
有識者によるその意見は、刺激のない社交界にもゴシップ好きの平民たちにも素晴らしい話題提供をなした。
“優秀な魔法士を雇っていたのは不幸中の幸いだったという他ない。”
件の有識者は個人的見解としてそんなことまで述べた。結果、魔法士たちの地位は更に向上することとなった。
「━━ほら新商品が出たじゃない? アイリーンが便利だと言ってたのよね。羨ましいわ」
ソフィーは慌てて誤魔化しにかかった。あまりに明らかなので微妙な空気が流れたが、新商品の話題で最悪の空気になることは免れた。
コルセットに誤作動が起きたのがソフィーなら、きっと上下に分かれて死んでいただろう。事件の報道に触れたとき、誰も口に出してそうとは言わなかったし、魔道具を軒並み受け付けないソフィーには起こり得ない事態だと知っていたが、オルドリッチ伯爵邸の全員がそう思った。
その証拠に、ソフィーだけに監視体制が敷かれ、兄ヒューバートは前にも増して過保護になり、腕の良さだけで雇われているほど無愛想な庭師が心配から仕事用の魔道具を暫く使わなくなる、という事態にまでなったのだ。
回想しつつ、ソファーは朗らかに付け足した。
「コルセット自体が柔らかくて薄いんですって」
尤もソフィーとしては、事件の日に運悪く専属魔法士ピアソンが休暇だったのが、伯爵邸の者たちの不安を煽っただけのことだと理解していた。
「ねえジョイス。ほどほどって、随分難しい注文だと思わない? どうしたら良いものかしら」
話題を変えつつ、ソフィーは鏡に映っているウエストを締め上げるそれを睨んだ。コルセットの件に関しては貴族が時代遅れだ。ある新進気鋭のデザイナーの影響で、平民の若い娘たちはコルセットを捨てている。
「失神なさらなきゃよろしいんじゃないでしょうか。あたし、オブライエン公爵家から何処かのご令嬢が担ぎ出されたって、聞いたことがございます」
愚痴ってやろうと思っていたのに、にっこりと愛嬌たっぷりに笑われて、ソフィーもつられて笑った。特に笑える状況でなくとも、ジョイスの笑顔はつられ笑いを引き起こす妙な魅力があるのだ。
「失神なさるなんて、一体何をご覧になったのかしらね、そのご令嬢」
「さあ……お顔が真っ青だったのは確かだそうですので、お怒りになった訳ではなさそうですが」
「怒って失神だなんてそうそうないでしょう。お年寄りじゃないんだから」
「そうでしょうか。ところでお嬢様、結婚なさらない限りいつまでだってご令嬢ですわ」
ソフィーの部屋中、ソフィーはもちろんのことメイドたちも皆、くすくすと笑った。ドアを閉め切ってはいるが室外にも漏れ聞こえていることだろう。
「ねえ。イザベラは何か聞いていて?」
ソフィーがイザベラに水を向けると、くすくす笑いが少しずつ静かになった。ただソフィーの長いブルネットを梳る音と、ドレスの衣擦れの音、そして暖炉で薪がはじけるパチパチという音だけがする。だが、それは嫌な沈黙ではなかった。
「いつ聞いてくださるかしらとお待ちしておりました」
沈黙を破ってイザベラが答えた。鏡越しに、ソフィーの深い栗色の目とイザベラの鮮やかな緑色の目が合う。
「流石だわ」
「と、申しましても、公爵家様ともなるとなかなか情報が出て参りませんのが世の常ですが」
「仕方がないわ。社交界にも滅多に……いいえ、全くおいでにならない方だもの。私が言えた義理ではないけど」
珍しく自信なさげなイザベラをソフィーは励ました。
「どんなことでも是非教えて欲しいわ。失神したくないもの。頭の打ち所が不味かったら、貴方たちとのお茶だって、できなくなるかもしれないじゃない?」
「それは一大事ですわね」
ちゃんと乗っかってくれるジョイスの優秀さがありがたい。一人が乗ってくれたお陰でメイドたちがあれが美味しかったと会話に花を咲かせ出した。
「さて……」
止まるところを知らぬ会話を、ソフィーはそっと止めた。お喋りが止む。
「イザベラ。貴方が聞いたことを聞かせて。ここだけの秘密にするし、どんな内容でも決して貴方を責めないと誓うわ」
イザベラが利発そうな緑の目でソフィーを見つめ返す。不意に、その虹彩に怯えが過ぎった。ソフィーは、イザベラが自分の持つ情報に自信がないのではという気がした。
「やっぱり支度が終わってから聞かせてくれるかしら。まだ心の準備ができていないみたいなの」
「未来の旦那様候補ですものねえ」
間延びした相槌をジョイスが打つ。それをしみじみありがたく思いながら、ソフィーは頷いた。
漸くイザベラがソフィーに忠告したのは、二人きりになった瞬間のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます