大黒邸閻魔帳日記

大谷歩

第1話 地獄からの使者

目が覚めて、まず最初に理解できたことは、まったく何も覚えていないということだった。自分がどこの誰なのか? 今まで何をしていたのか? 好きな食べ物は何で趣味は何なのか? そして歳はいくつなのか? 昨日は何をしていたのか? それすら思い出せない。分かることは、かろうじて性別が男だということと、そして自分の顔くらいのものだった。

 ……ここはどこ? ぼくは誰?  まさに、そんな状態である。

 そんなのは小説かテレビドラマの中だけのものと思い込んでいたが、いざ自分がそんな目に遭うと、やはりというか、なんというか、まったくもって冷静になれない。

こんな事が現実にも起こりうるなんて……俺は呆然としてしまった。いやいや、そんな感慨にふけっている場合ではない。必死になって記憶を辿ろうとするが、頭の中ががらんどうの空洞になったみたいで、やはり何も思い出せなかった。

 いや、ここが病院の個室だというのは理解できる。

 狭い一室。クローゼットとキャビネットが一体化した簡素な調度品。そして点滴台が置いてある。なので病室の中だということは誰かに教えてもらわずともすぐに分かった。

 なにしろ自分はベッドに寝かされており、患者服らしきものを着用している。つまり病人なのだ。そういう常識的な事はどうやら理解できるらしかった。なので少しばかり気持ちが落ち着きを取りもどしていった。とはいえ何をどうすればいいのかなんて、さっぱり見当もつかない。この記憶喪失が一時的なものであることを願うしかない。

 やがて俺は何かを探し求めるように半身を起こして窓の外を眺めてみた。少しでも自分を取りもどすための手がかりが欲しかったからである。ちょうど窓越しに見える位置に学校らしき建物があった。味も素っ気もない鉄筋コンクリートの建造物。その日も傾きかけたグランドでは多くの生徒がランニングをしたり野球の練習をしたりしていた。それを眺めていると胸に走るつきりとした痛みを覚え、なんだか、とても切ない孤独感に襲われた。

「なんか見覚えがあるんやけど……」

だんだん気分が悪くなってきた。俺は外の空気が吸いたくなって病室の外に出てみた。ここが病院の何階部分にあたるのかは全く分からないけれど窓から見える風景から察するに、三、四階部分だろう。誰もいない閑散とする廊下。廊下の窓際には手摺が設けられていた。俺はその手摺をつかみ、体重を預けながら二三歩歩いてみた。頭がクラクラしてきた。いろんな疑問に立ちくらみ、ヨロヨロと廊下の手摺にもたれて再び体をささえ、思わずギョッとしてしまう。そう、それは、ほんとに小さな手だった。女の子のように細くしなやかな指先が目にとまり、大きく目をみはる。

 だって、それは、ぜったいに俺の手なんかじゃないはずだ。

 どう見ても、女の子の手である。いや、それとも病気のせいで急激に痩せ細ってしまったのだろうか?

 そこへキュッキュとスリッパの足音がした。

「あら摩耶君。今日は元気そうね。でも、まだ万全じゃないんだから無理しちゃだめよ」

「え? あ、はい……」

 ええっと、まやくん? 俺の名前……そんなだったかな?

 遠ざかっていく看護士さんの姿をただ見送ることしかできなかった。ますます気分が悪くなった。なかなか自由のきかない体を引きずり、近くのトイレにかけこんだ。唐突に襲われた吐き気に誘われるように勢いよくひねった蛇口で顔を洗い、ハァハァと息をはきながら前を向く。そして盛大な叫び声をあげてしまった。

「うわぁぁぁぁぁっ、誰やこいつ? なんや、この顔っ!」

 なにしろ目の前の鏡には、まったく見知らぬ顔が映りこんでいたからである。

 しかも、それは、とびっきりの美少女だった。肩までのびる亜麻色の髪。長い睫毛に、お餅のような白い肌。瞳は大きく黒目がち。サクランボのような唇がとても愛らしい。

「ああ、もしかして、俺、まだ夢でも見てるんやろか……」

 とにかく目を覚まそうと頬をつねってみた。うん、めちゃくちゃ痛い。

 とにかく、もう気がくるいそうだった。あわてて体のあちこちを点検してみた。大丈夫。股ぐらの間には大事なモノがちゃんと付いている。俺は男だ。

 と、そんなふうに股間をモゾモゾしていると、

「あのぅ、なにをやっているのです?」

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」

 まじでビビった。恐る恐るふりむくと、そこに一人の外国人とおぼしき女が立っていたのである。俺は股間をまさぐる手を止め、目を見開き、呆然と、その女に見入ってしまった。 恐らく歳の頃は二十代の前半くらいだろうか。セクシーな黒いワンピースを着ており、その上には黒くて長い毛皮のロングコートを羽織っている。唯一、白い色の目立つドレスシャツの襟元には真っ赤なカメオのブローチ。その真っ赤な薔薇のデザインがなぜか毒々しい印象を与える。とても奇抜な出で立ちである。いや、それにしても、なんて綺麗な瞳なんだろう。まるで透明度百パーセントの湖を凍らせたような深い青色だ。そして腰まである長い金色の髪に、おそろしく端正な顔立ち。

「どうして部屋にいらっしゃらないのです? おかげで、さがしましたよ。ご主人様。しかも探してみれば、なんとトイレで股間をモゾモゾと……」

 その外国人とおぼしき女が流暢な日本語で話しかけてきた。

 うーむ、プロの歌手だろうか? すきとおるようなソプラノ。その美しい声にますます緊張が高まる。いや、ちょっとした恥ずかしさに顔が熱くなった。しかも、ここはだ男性用のトイレだぞ。そこまで堂々とされると、こっちが気恥ずかしくなってしまう。

 ――いや、それよりも、今、なんて言った。ご主人様?

「かってに出歩かれてはこまりますぞ。さっさと部屋にもどりましょう。ご主人様」

 また言ったぞ。ご主人様って。

「もう自力で歩けるようですね。よかった。すでに、すべての手つづきはすんでおります。このあとのスケジュールが立てこんでおりますので、急ぎませんと――」

「あのぅ、誰かと人ちがいしてない? ……っていうか、あなたは誰なんです? いったい、これがどういう状況なのか知っているのなら教えてくださいよ!」

「あれ? 死後の体験入力がまだですか? これは、こまりましたねぇ……はてさて大丈夫ですよ。今は何も思い出せないでしょうが、すぐに記憶は戻りましょう。死後体験の記憶を上書きするのに、いったん、これまでの記憶を初期化する必要があったのです」

 言ってる意味がまるで分からない。

「……あのぅ、あなたは何を言ってるんです。それに俺はなんでこんな所にいるんやろ?俺のこと何か知ってるんですか? どうか教えてください。なぜか記憶がないんです!」

 藁にもすがる思いで俺は訴えかけた。ところがである。「――まずは落ち着いてください」と女は俺のパニック状態を無視して勝手に自己紹介をしだした。

「あっ、もうしおくれました。私、地獄からの使者で、あなた様の、お世話をするように、おおせつかりましたマリリンともうします。生まれは十八世紀のイギリスで……」

「はぁ、地獄からの使者? なんやそれ? あのさ、ここ病院やから、いっぺん医者に診てもろたほうがええんとちゃう?」

「いやはや、なんとも、ぶれいな口のききよう。ほんらいなら全身がスッカラカンになるまで血を吸ってやるところではございますが」

「あ、なにすんねん。はなせ!」 

 いきなり俺の手をひき、トイレから連れだそうとする謎の美女。あらがおうにも体に力が入らない。しかも、なんて怪力だ。そこへ先ほどの看護士さんが通りかかった。

「あら、マリリンさん。今日もきれいですね。摩耶君のおむかえですか?」

「はい、ずいぶんと、お世話になりました」

「いえいえ、とんでもない。それより摩耶君がすっかり元気になられてよかったですね」

 いったいどうなってんだ? やがて連れもどされたのは、あの病室だった。

 さっぱりわけがわからず、立ちつくしていると、そんな俺を横目に女は毛皮のコートから大きなカバンを取りだした。……さては手品師だろうか?

 それはシックなデザインの洒落たトランクケースだった。女がそれを開けると、中には着がえの服がまるで新品のように、きちんと折りたたまれて、つめこまれていた。

「さ、はやく着がえてください。すでに任務の命令がくだされてますので急ぎませんと」

「いやでも、なんで、あの看護士さんと知りあいなん? さっぱり、この状況がわからないんやけど。ううっ、なんか頭痛がしてきたぞ……」

「あっ、そろそろ死後の記憶がよみがえってきてもいいころですね。とにかく落ちついて聞いてください。驚かれるかもしれませんが、あなたは昨日まで的場貴史という人間でした。しかしながら、その人物はもうこの世には存在しません。今、現在のあなたは大黒摩耶という別人なのです。これから新たな人生が始まるのです」

「あのさ、あんた、なに言ってんだよ……」

 俺はもうこの世に存在しない? 新たな人生が始まる? いまは別人だって? それって、どういうこと? ますます言ってる意味が分からない。

 俺は立てつづけに質問を口にしようとしたが、それはできなかった。

 女はその能面みたいな顔に微かな笑み浮かべ、そのか細い指をパチンと鳴らしたのだった。と同時に激しい頭痛が俺を襲った。俺は痛みを耐えながらぎゅっと目をつむる。やがて頭がぼーっとし、思考がだんだんと薄れてきた。すると意識が一転し、空を飛ぶような感覚に襲われるや、次に目を開けると俺はもはや完全に別世界の中に立っていたのだった。

「な、なんやこれ、どうなっとるんや! ここはいったいどこやねん!」

 そこはもう病室の中ではなかった。薄暗い闇に閉ざされた山の中腹のようだった。鬱蒼とした深い森が見渡す限りを支配し、濃い霧に包まれている。そこから望むおどろおどろしい荒野は地平線の彼方まで続く不気味な山脈に囲まれている。ふと威圧感を覚えて横を向くと、なんと、その山の岩肌をえぐるようにして巨大な門がそそり立っていた。厳めしくそびえ立つ門は大きく黒光りする金属製だ。そこには様々な模様が刻み込まれていた。鬼の姿を描いた彫刻。見たこともない文字。なぜか、その文字を俺は読むことができた。

「この門をくぐりたる者、これより一切の希望を捨てて生前の悪行を悔いあらためよ?」

「はい、ここは泰山。冥府の中枢。泰山府君閻魔大王様の居城。そして、あれなる巨門こそ地獄の大門でございます」

 見れば、すぐ隣にさっきの女が立っていた。

「あ、あんた……?」

「申し遅れました。私はマリリンと申します。あなたのお世話をするよう大王様から命じられた者でございます」

「へぇ、そうなんだ……って、いやいや、ぜんぜん言ってることが分からないよ。俺はまだ夢でも見てるんやろか? それにしても地獄の門やて、いや、そんなまさか……」

 でも、なぜか腑に落ちる心地がした。

 そう、俺は一度ここへ来たことがあるような、そんな気がするのだ。

「いえ、これは夢のようであって夢ではありません。今、あなたの頭の中では死後に体験したことが再生され、新たに記憶が更新されようとしているのです」

 死後に体験したことが再生……?

 そして次の瞬間、様々な事が過去の記憶となって一気によみがえったのだった。

 

 そう、俺の名は的場貴史。地元の中学に通う十三歳だ。

 さっき病室の窓から見えていたのは俺の通っていた中学校だった。

 そして住んでいたのは、大坂のとある下町の古い商店街である。

 そこは数年前までは活気に満ちた町だった。小さな私鉄駅から神社へ抜けるアーケードの下には様々な店が建ち並び、かつては大勢の買いもの客でにぎわっていた。

 そんなアーケードの中ほどに俺の生まれ育った家があった。

 それは創業五十年以上もの歴史を誇る古い老舗の洋食屋だった。親父はそこの三代目で、若い頃には有名なホテルで修行したこともある腕のいい料理人だった。とくにポークカツやハンバーグが好評で、他県からもわざわざ食べにくる人がいたくらいである。

 それが二年ほど前から駅前の再開発が進み、やがて、そこに巨大な商業施設が誕生した。 その一階は商店街が束になっても敵わない大きなスーパー。二階から三階にかけてはファッションブランドや有名外食産業が経営するレストランが並び、さらに四階にはシネマコンプレックスや大型書店が幅をきかせ、他にも様々な専門店がテナント入りしていた。 いわゆるショッピングモールというやつだ。

 おかげで、それまではパッとしなかった駅前は見ちがえるようなにぎわいを見せ、一方、昔ながらの商店街はそのみすぼらしさを際立たせていった。やはり瞬く間に客足が途絶え、一つまた一つと店が消えていった。商店街の活気はみるみるうちに風化し、閉じられたシャッターの音が寂しく響く光景だけが残された。そりゃ誰だって古くさい商店街よりも明るくて華やかなショッピングモールで買いものをしたいに決まっている。

 といっても、自分たちの生きていく場所はそこにしかない。その場を奪われて、いったいどこで生きていけと言うのだろう。だから父は頑張った。他県にも評判の洋食屋。チェーン店には真似のできない味を売りに店を維持しようと必死に働いた。

 そんな父を母もよく支え、俺も店を手伝い協力した。助けあって生きる。以前の活気は消えても、その心意気があれば、まだなんとかなると信じていたのだ。

 だけど無理だった。店の経営は日に日に悪化し、雇っていた従業員も解雇せざるをえず、ただ一人、皿洗いの学生バイトだけしか残らなかった。

 それでも将来店を継いで、もう一度活況を取りもどすんだと俺は父を励まし続けた。でも結局、そんな子供じみた夢は世間の荒波にさらされ、はかなく消える運命だったのだ。

 そう、その頃、インターネットに不謹慎な画像を投稿する若者が増え、なにかと批判のやり玉に上がっていた。飲食店などで使う大型冷蔵庫の中で素っ裸になり『今年の猛暑もこれでヘッチャラ』などというコメントをSNSにのせた大学生が世間の怒りを買い、なぜか大きな社会問題に発展していたのだ。

 その動画をアップした当人は、ほんの出来心の悪戯を徹底的に糾弾され、さらにはマスコミの標的にもなり、ついにはそのバイト先まで特定される異常な事態にもなっていた。

 もちろん、そんな騒動に自分たちが関わっていたなんて知らなかったし、その火の粉が自分たちに及ぶなんて考えもしなかった。

 それはある一本の苦情の電話から始まったのである。


「おたくさぁ、従業員にどういう教育してんの?」

 その声は少し離れた所にいた俺の耳にも届くほど鋭いものだった。

 電話に出た母は戸惑っていた。

「あの、なんのことでしょう? うちの従業員が何か? え、インターネット? いえ存じません。あの不衛生と言われましても食材の管理はきちんと行っていますし。……え、反省の色が見えない? そう仰られましても、私どもにはいったい何のことか……」

 通話口で途方に暮れる母の声に俺は嫌な予感を募らせた。母は溜息をつきながら電話を切った。でも、すぐにまた電話の音が鳴った。また苦情だった。何が起きているのかも分からず次々にかかってくる電話に対応するしかなかった。それは深夜まで続き、回数も日を追うごとに増していった。その頃には俺たちも世間で何が起きているのかをようやく知った。さてもニュースで報じられた学生というのがあろうことかうちのバイトだったのだ。

 しかも、彼がSNSにのせた動画は、うちの店で撮影されたものだった。

 おかげで苦情は毎日続き、ついに店を閉めるしかない状況にまで追い込まれた。それでも閉じたシャッターに悪戯をされたり苦情や嫌がらせの電話が鳴り止むことはなかった。

 そして父はそのやりきれぬ思いを、しだいに酒にぶつるようになっていったのである。

「ふざけんな。あんな写真で、なんでうちの店やと分かったんや。そりゃ俺がバイトの教育を怠っていたのは悪いかもしれんけど、ここまで世間に叩かれるようなことか!」

「ネット内のマナーを取りしまる連中がおるんや。馬鹿なコメントをのせたり感心できない画像を投稿した奴を特定して断罪するそうや」

「単なるガキの悪ふざけやないか! 不衛生ってんなら、ちゃんと冷蔵庫は洗浄したし、ちゃんと謝罪もしたやろが! なんで俺たちが、こんな目に遭わなあかんのや!」

「それでも、そういう不始末を起こした店はすべての信用を失うんだよ、最近じゃ……」

 その瞬間、父に殴られた。もうそこには、かつて俺が憧れた父の姿はなかった。

「おまえまで俺を責めるんか! バイトの皿洗いが勝手にやったことやろが!」

 俺は殴られた頬をさすり、そういう世の中なんだよ。と小さく反駁することしかできなかった。それから父はますます酒に溺れた。そして連日の苦情電話についに母もおかしくなり、かかってくる電話を放置して一日中ぼーっとしていた。

「もうすぐ神社のお祭りね。うちでも何か特別なメニューを考えないといけないわ……」

 まだ商店街が笑顔と活気に満ちていた頃の記憶でもよみがえっていたのだろう。

 やがて、そのままそこから出られなくなってしまったかのように母は日に日に虚ろになり、父はますます手が付けられなくなっていった。

 俺はどうしたらいいのか分からず、頭を抱えてオロオロするしかなかった。そんな状況では学校へも通えず、すっかり人が変わった両親の様子を心配することしかできなかった。だって、まだ中一だぜ。そんなガキに何ができるってんだ? まるで呪いをかけられたような家の中で膝を抱え、世間の荒波にガタガタと怯えて過ごす毎日だった。ただただ静かに息を殺し、ただひたすら堪え忍ぶことしかできなかった。母のむせび泣く声と父の暴力に怯えながら、まるで地獄のような日々をやり過ごすことしかできなかった。はたして、そんな風に日がな一日じっとしていると、やがて夜が訪れ、不安に疲れた俺はようやく眠りにつくことができるのだ。昨日も俺は日が暮れると同時にすっぽりと布団にくるまり、世界の全てから自分を遮断した。皮肉にも無情な闇に抱かれている間だけ、束の間の安らぎを得ることができたのは、やはり思考を停止するほかに、その痛みに耐える方法を知らなかったからだろう。とはいっても、やはり目が覚めるとまた地獄の一日が繰り返される。そんな絶望が永遠に続くものと、とっくに諦めていたのかもしれない。そして、ついに恐ろしいことが起きてしまったのだ。そう、それは昨夜のことだった。俺は異様な気配に目を覚まし、気持ちが悪いほど寝汗をかいていることに違和感を覚えた。ただし、その時はまだウトウトとしていたのもあり、しかも世界がまだ闇に包まれていたのもあって、そのまま眠ってしまおうと、もう一度目をつむったのである。ところが望むべく安眠は訪れず、かわりに煙が目に染み、その痛みに今度こそバッチリと目が開いてしまったのだ。

 再び開けた瞼の向こうには恐ろしい光景が映し出された。

 そう、月明かりに薄ぼんやりとする部屋の中がモクモクとした煙に包まれていたのだ。

 さらに少し開けた扉の向こうにも揺らめく炎の姿がかいま見え、その恐怖に俺は慌てて部屋から飛び出し、階下へ向かう踊り場へと避難しようとした。

 でも、もうその時には、すでに逃げ場もないほど全てが炎に包まれていたのである。

 そこから先は何も覚えていない。

 きっと、こうして俺の人生はそこで幕を閉じてしまったのだろう。


「うん、俺の身に何が起きたのか……今、思い出したよ……」

 深い溜息とともに、俺は胸がえぐられるような悲しみを一気に吐きだした。

 しかし、そんなものを吐き出したところで気持ちが楽になるわけでもない。

 こんな現実を思い出すくらいなら、いっそのこと記憶を失ったままでいたかった。

 しかも、そこへ追い打ちかけるようにマリリンが衝撃の事実を重ねる。

「まことに、ご愁傷様なことです。あなたは昨夜、商店街を襲った火事でお亡くなりになられ、真っ黒焦げになってしまわれたのでございます」

「……うん、改めて言わなくても、もう思い出したんだけどね。つまり、その火事で俺の家族はそろって焼け死んでしまったというわけやな……」

 もうここまで思い出せば、だいたいの憶測はつくというものだ。

「……しかも、その火事の火元は、どうせ、うちの家やったんやろ。最近のお袋は、かなりおかしな状態になってたもんな……」

「ええ、そうでございます。ただ幸いにして他に犠牲者は出ておりませのでご安心を。ですが、そのおかげで、あなたは、これからもっと辛い現実を直視しなくてはなりません」

「え、それって、どういうこと?」

「それでは先に進みましょうか。ここからさらに先へと進んで、死後体験の記憶を復活させなければなりません。それが、あなた様に科せられた使命でもありますから」

 俺の疑問には応じずマリリンはさっさと目の前の巨門をくぐり、どんどん歩を進めていく。俺もマリリンに導かれて門をくぐり、その先へと進んだ。やがて、おどろおどろしい光景が目の前に広がった。同じように地獄に堕ちた亡者らしき人々が炎を吹きあげる護送車から次々に下ろされ、見るからに恐ろしげな姿をした化け物たちに連れさられていくのだった。とはいえ、不思議と恐怖のようなものは感じられなかった。いや、それよりも心が悲しみに満ちており、もはやどうにでもなれといった心地だった。それに親父や、お袋がどうなってしまったのかも気になって仕方がない。なにしろ、ここは地獄なのである。なぜ自分がここにいるのかも分からず一歩踏み出すごとに不安が増していく。そんな気持ちを知ってか知らずか俺のすぐ横を歩くマリリンが、なぜかおもむろに解説をしだした。

「あの亡者どもを導いているのは地獄の極卒たちで、『鬼』と呼ばれる方々でございます」

「ふーん、鬼? いやでも、あれって、どちらかっていうと妖怪とかの類じゃないの?」

 たぶん気を紛らわせたかったというのもあったのだろう。俺は気もそぞろに質問を口にした。目の前を行く『鬼』と呼ばれる方々は俺の知っている鬼の姿をした者もいるが、なかには河童や化け猫や狐や狸。それに見たこともないような異形の姿をしている者もいる。

「まぁ鬼族の妖怪が最も多いので、そう呼ばれていますが、この地獄では他にもさまざまな妖怪たちが、いろいろな仕事にたずさわっております」

「へぇぇ……」

 そんなマリリンの説明に俺はどう返事していいのかも分からず、ただひたすら戸惑いを表情に浮かべ、その恐ろしげな光景を虚ろな思いで眺めていた。

「さても妖怪とは人の心が生みだす怪奇現象。長い年月をえて妖力を宿し、人に害をなす存在となった悲しきもの。それゆえ放置すれば人界を乱し、いろんな悪さをいたします。ですからこれを退治し、浄化せねばなりません。そのようにして怨念から解放された物の怪を『妖怪変化』と呼び、その後、彼らは仏のしもべとして働くことが許されるのです」

「ふーん……」俺は目をゴシゴシとこすり、それから再び、先ほどの鬼たちへと視線を向けなおした。まさに、それは本で見たことのある百鬼夜行図の有様だった。

「やっぱり、ここは地獄なんやな。すごく解りやすい地獄やけど……」

 でも、そんなイメージは、その直後にぶち壊された。

 またもや見えていた景色が突然に変わり、再び意識がまた別の場所へと飛ばされてしまったのだ。そこは先ほど遠くに見えていた大きな宮殿の中だというのはなんとなく分かるのだが、どうも、その造りが現代的すぎて少しばかり驚かされた。

 そこはまるで会議室のような場所だった。

 そんな一室に簡素な机が整然と配置され、これまた見るからに高級そうなスーツや、お洒落な洋服を身につけた男女が、いささか事務的な椅子に腰を下ろして静かに座っていた。

「さて、時間がもったいないので、少しばかり記憶を早送りします。妖怪については、また後日、おいおい説明をいたしますので、それについては、どうか、ご納得くださいませ」

「それは別にかまへんけど…。それより、ここどこなん……?」

「ここは冥府大帝殿の中にある亡者の法廷です。そこに居並んでおられるのは地獄の十王と呼ばれる方々で、向かって右奥から秦広王、初江王、宋帝王、五官王。左奥から変成王、泰山王、平等王、都市王、五道転輪王と続き、さらに正面奥に坐しておられる御方こそ何を隠そう地獄の盟主たる閻魔大王様でございます」

 ……ん、地獄の十王だって?

 はて、どっかで聞いたことがあるぞ。うーんと、なんだっけ? あ、そうだ。商店街の先にある神社の近くに十王寺って名の寺がある。その寺に祀られているのが確かそんな名前の方々で、年に一度のお盆の日に本尊たる十体の仏像が公開されることで有名だった。

 俺も両親と墓参のついでに拝見したことがある。

「でも、俺が知ってる十王様って、冠に道服姿だったよ。それにもっとこうなんていうか厳めしいというか怖そうっていうか、あんなスラっとした感じの兄ちゃんや姉ちゃんやなくて、その恰好もスーツ姿じゃなかったけどな……」

「ご主人様、いつの時代の話をしてらっしゃいます? 地獄も日々進歩しているのですよ」 ……進歩? そんな場ちがいな言葉に俺はさらに戸惑った。

「いやまぁ、そう言われたらここは地獄の法廷とやらだし、彼らもちょっと小粋な裁判官と思えば納得できなくもないけど、でも一番奥にいるあの子が閻魔様って言われても……」

 だって、そこにいるのはどう見ても小学校六年生くらいの女の子だ。しかも、他の十王様たちは皆、大人っぽく洗練された恰好をしているのに彼女一人だけがフリルやレースのいっぱい付いた漆黒のドレスを着ているので、やけに目立っている。

「あれって見まちがいでなきゃ、ロリータなんとか……ってやつだよね。しかも、その上にゴスのつく……」

「はい、とてもよくお似合いですわ。なんて可愛らしいのでしょう」

 うん、すごく似合ってるっていうのは、そのとおりだ。その滑らかな肌はフォアグラのような色白で、その瞳の輝きは高級キャビアにも劣らない。ぷりっとした唇は新鮮なイクラを散らしたサーモンマリネのごとし。それらの素材が浅草海苔で仕上げたような漆黒のドレスに包まれ、まさに高級感あふれるオリジナル手巻き寿司といった風情である。

 と、そんなことを思っていると、いきなり怒号が飛んできた。

「おいこら、そこの坊主、わらわのような美女を捕まえて、ぼーっと見とれるのならまだしも、それを食材にたとえて悦にひたり、あまつさえヨダレを垂らすとはいったい如何なる感性をしておる。貴様の頭の中は胃袋でできておるのか!」

 先ほど紹介にあがった閻魔大王様とやらが不機嫌そうに喚き散らしていた。

 はて、こりゃいったい、どうなってんだ。今、心の中を読まれたぞ。

「あのさ、これって死後の体験をもう一度、復活させてるって言ってなかった?」

「はい。私のナレーション以外はまったく同じ体験を繰り返しておりますが、その時に感じた気持ちも再生されておりますので、まるで今体験しているかのように感じるだけでございます」

 なるほどね。じゃぁ心を落ち着けよう。

 ところが次の瞬間、すさまじい圧力に襲われた。それはまるで横殴りの暴風だった。透明な空気の壁が何十発も体にぶち当たっては砕け、さらに相撲取りの張り手を何発も喰らったような重圧に俺は大きくよろめいた。だが、こんな場面で尻餅をつくわけにもいかないのでなんとか踏ん張り、その衝撃を耐え切った。

「ほう、わらわの霊力をまともに受けてその程度ですむか? ふむ、わらわを食いものにたとえる剛胆さも気に入った。その食いしん坊根性に免じて無礼は許してつかわそう」

「大王様の御慈悲には感謝します。我が主は、生前、レストランの跡取り息子でございましたゆえ少々食い意地が張っております。まことに失礼なことをいたしました」

 マリリンが深々と頭を下げる。俺はその横でまっ赤な顔をしていただろう。これって本当に死後の追体験なの? 勝手に心を読まれたことや少女の発する猛々しさを畏れるより、いきなり初対面で食いしん坊がバレたことへの羞恥心のほうが勝っていた。

 でも、そこは将来料理人になりたかったんだから仕方がない。

 料理人になるには必要な資質だと思うんだけどなぁ。

 そう思いつつ俺は正直な気持ちを口にした。

「でも、やっぱり俺の思い描いていた閻魔様のイメージとは、かなりギャップがあるんやけど……」

「そう言われましても、彼女が百六十代目の大王様にちがいありません」

「えっ、百六十代目? ってことは、もしかして閻魔様って世代交代するってこと?」

「そりゃしますよ。日本の首相ほどではありませんが」

「いや、そうやなくて。死後の世界がほんまにあるとしても、そこにいる十王様とやらは神様やろ。神様は不老不死やろ。だから、その役職も永遠不滅やと思ったんやけど……」

「正確に申せば神様ではありません。かつて古代の神々であった方々が仏に仕えるようになり、『天部』という名の仏様に加えられ、使命を授かったのです。それいらい、その役職は天界に住む者たちによって受け継がれてきたのです。そのような者たちを『天籍者』といいます。ですが、その者たち、天界に住む人々にも、もちろん寿命はあります。さて現在の平均寿命はおよそ千年くらいでしょうか」

「へぇぇ、長生きなんだねぇ……。ところで、今から何が行われんの?」

「もちろん裁判です」

「えっ、裁判だって! あぁ、もしかして俺、なにか悪いことしたか?」

「いえ、ちがいます。裁判を受けるのは、あなたではありません」

 そんな会話をしているうちに、二人の男女が鬼に引きつれられて姿を現した。

「あっ! 親父、お袋っ!」

「――た、貴史っ!」

 親父とお袋も驚いているような、それでいて怯えているような表情をしていた。

 死後の世界だというのに全身か凍るような感覚を味わった。

「さて的場信二。的場孝子。おぬしらの罪は明らかだ。ともに心神喪失における錯乱に負け、一人は酒に溺れて家族に暴力をふるい、一人は絶望に耐えきれず家に火をつけ無理心中をはかった。その身勝手な行いにより我が子にまで残酷な所業を及ぼした罪は決して軽くはないぞ」

 そう言ったのは、先ほどマリリンが紹介してくれた閻魔大王様だ。

「ですが不運に継ぐ不運が要因なら情状酌量の余地もあると思います。止むに止まれぬ事情は考慮せねばなりません」

 十王様の一人が言った。

 その優しげな面差しは観音様のような慈愛に満ちていたが、さりとて、その身にまとうドレスはとてもゴージャスだ。最近の地獄はどうなってんだと困惑せずにはいられない。

 いや、今は、それどころではない。これって、やっぱり裁判なんだ。

「ち、ちょっと待ってよ。親父もお袋も地獄に堕ちることは確定かよ。そんなの酷いじゃないか! 親父もお袋も、ちゃんとまじめに生きてたし、悪いことなんてしてねぇよ。そりゃ確かに酒に溺れて暴力をふるった父さんも心を衰弱させて家に火を放った母さんも無罪放免ってわけにはいかないんだろうけど。でも、それは追い詰められてのことなんだ」

「ふむ、親をかばう子の気持ち。分からなくもない。が、なぜじゃ、そなたは、この両親のせいで、まだ生きられたのに若くして死んだのじゃぞ。これっぽちも恨みはないのか?」

 まるで値踏みするように一瞥する大王様に負けじと踏ん張り、俺はその威圧と対峙した。

 恨みなんてあるわけがない。確かに親父には殴られた。お袋はかなりおかしな事になっていた。でも、どちらも大切な家族なんだ。二人が死んでしまった事に悲しみはすれど恨む気持ちなどまったくない。それよりも自分の不甲斐なさが身に染みて涙が出そうになる。

 俺が大人だったら親父もお袋も救えたかもしれないのに何もできなかった。

「恨みなんかあらへん。俺にとっちゃどっちも立派な親やった。最後にちょっと人生に失敗しただけや。なぁ頼むよ。許してあげてよ。それに、そんなこと言うなら俺にも罪はある。結局、俺は父さんや母さんの支えにはなれへんかったんや。父さんや母さんが辛い時にオロオロしてばかりで、その心が潰れていくのを、ただ見てることしかできへんかった」

「そんなこと言うたらあかん。罪を犯したのは俺たちや。すまん、俺がだらしないばかりにお前までこないな目に遭わせてしもて。なんて情けない父親や。許してくれ!」

「貴ちゃん、ごめんよ。母さん、今やっと目が覚めたよ。どうかお願いします。私たちはどうなってもかまいません。この子だけは、どうかこの子だけは、なんとか生かしてあげてください!」

 母の泣き叫ぶ声が俺の胸に突き刺さった。地獄の法廷がしばし静まりかえる。

 どの十王様たちの表情にも、やり切れない悲痛さのようなものが浮かんでいた。

 そのことがやけに心を圧迫した。やがて最奥の玉座から閻魔大王様の声が響き渡る。

「では判決を言い渡す」

 それはまさに地獄の盟主にふさわしい凛然とした声音だった。

「さて、度重なる不幸に心を病んでいたとはいえ無理心中の罪は重い。同じく家族を守る責務から目を背け、酒と暴力に溺れた罪もまた等しきなり。よって叫喚地獄から始める懲役二百年の禁固刑が相応しいところじゃが、酌量の余地もあると認め百年ほど減刑する。しかし、我が子まで巻き込んだ罪はまた別じゃ。その罪状を加算すると大灼熱からの投獄もやむなしと言いたいところだが……」

「ですが、我が大王……。大灼熱は叫喚地獄と並び、そこは人界においても極刑に処せられるほどの罪人が投獄されるべき監獄です」

「分かっておる。その両名はそこまで罪深き者ではない。むしろ昨今ますます殺伐とし、世知辛くなってきている人間社会の犠牲者であろう。……そこでだ、貴史よ」

 大王様が俺のほうに目筋を向け直すや少しだけその表情をやわらげた。その微笑から春の木漏れ日のような慈しみの情念があふれ出ているように感じられた俺は、この闇に包まれた厳格な世界に一条の光を見たような心地になり、少しだけ心を落ち着かせた。

「そなたの親を想う気持ち、重々に感じ入った。そこで、そなたが親の罪をともに贖うのであれば父母の願いを叶えてやってもよい。つまり再び人界に戻してやろうぞ」

「……な、何を申されるのですか、大王様? すでに死した者をよみがえらせるなど、そう簡単にできるものではありませぬぞ。彼はこの裁判に参考人として招致されただけで、この後すみやかに天界へ送られることが決まっております」

「だが、そうなれば父母は地獄。子は天界。その魂は引き離されてしまおう。さりとて、この者たちの絆はまだ失われてはおらん。その想いを引き裂くは忍びない。よって親の罪を贖う機会を与え、その働き次第によっては罪が減るよう取りはからおうと思うておる。うまくいけば減刑により親子そろって天界への転生も叶うであろう」

「とは申されましても貴史殿の肉体はすでに炎に焼かれ、親子ともども荼毘にふされており、人界にはもはや居場所などございませんぞ」

「そこは別の肉体を用意する。その者の魂は家族とともに天界へ逝くことを希望しておるゆえ、その者の体に魂を移し替えようと思う。まったく別の人間になるが致し方あるまい」 なんか勝手に話が進んでいく。それをただ聞いていることしかできなかった。

「して、そうまでして貴史殿に何をさせたいと大王様は仰るので?」

「うむ、皆の者よく聞くがよい。昨今の地獄は人界における犯罪の増加で人手不足……いや、妖怪不足が深刻じゃ。特に人界捜査官は人手が足りぬ。一人でも多く捜査官を増やしたいが、それにかなう強き霊力の持ち主はそう見つからぬ。先ほど試したが貴史は我が霊力を撥ね除けるほど、その魂魄が強力じゃ。よって、わらわは貴史を地獄の捜査官に任命し、人界へ派遣したいと考えておる。すでに彼には天籍が与えられておるゆえその資格もあろう。しかも今回の懸案にある大黒家と貴史は遠い親戚で結ばれておる。それゆえ今回の被害者である者の肉体と魂魄を再融合するのに適しているわけじゃ。さても事件はすでに起きており、さらに、その裏には不穏な輩がいる。それを貴史に解決させたいのじゃ。どうじゃ貴史。決断するのはおぬしじゃぞ?」

「貴史殿、お断りなさい。そなたにはすでに天界へ逝く資格が与えられているのです。生前そなたは親を手伝い、それなりに勉学に励み、時には虐められている友人を助けたりと、まことによき善行を積まれてきた。その功績により天籍を与えられたのです。天界は人界とは比べものにならない極楽。なにも苦労の多い人界なんぞに戻る必用もあるまい」

「あの、俺……いえ、ぼくが、その仕事をがんばれば父さんや母さんの罪を減らしてもらえるんですよね?」

「だめよ、断って貴史。あなたには天国へ逝く権利があるのよ」

「そうだぞ。父さんと母さんは罪を犯したんだ。これが当然の報いなんだ」

「当然なんかじゃない! 生きている間もあんなに苦しんで、なのに死んでからまた苦しむなんてあんまりだ。分かりました。大王様。俺、その仕事がんばります」

「よくぞ申した。その決断に報い、まずは懲役年数をぐんと減らしてしんぜよう。後はそなたの努力しだいで量刑も軽くなっていくことを、この大王自ら約束しようぞ」

「貴史、あんたって子は……私たちがあんなむごい仕打ちをしたっていうのに……」

「貴史、貴史、たかしぃぃ!」

 両親の泣き叫ぶ声を耳にしながら俺は意識をとりもどした。そして、そこは再びあの病室の中だった。そんな俺の目の前に、なんともいえない表情をしたマリリンが立っていた。

「俺……すでに死んでたんやな。そのあげくに、まったくの別人に生まれ変わってるやなんて、もう驚きをとおりこして夢うつつの気分やわぁ……」

「まぁ、正確にいえば『反魂の術』です。しかも、この人界において天籍者は不死身です」

「うわぁぁ、勢いで、がんばりますって言っちゃったけど、俺、大丈夫かなぁ?」

「心配はいりません。私どもがついておりますから」

「……私ども?」

「はい、この病院の駐車場に、もう一匹おります。ともあれ、すでに、さまざまな手続きなどは終えておりますから、急ぎましょうか、大黒摩耶様――」

「ああ……それが、今の俺の名前なんだね」

「そうです。まぁ、いろいろ突然ですが、ご納得いただけましたなら、まずはお着がえを」

 そう言いながらマリリンが黒いコートの中から取り出したのは大きなトランクケースと、これまた大きな姿見の鏡だった。あのコートの中身はどうなってんだと疑問に思わなくもなかったが、しかし、それ以上の驚くべき事態に俺は思わず叫び声をあげてしまった。

「うわっ、なんやこれ! ほんまに、まったくの別人になっとるやないか!」

 そして、そのまま絶句する。なにしろ、その鏡に映っていた姿はどう見てもとびっきりの美少女なのだ。肩までのびる亜麻色の髪。長い睫毛に、お餅のような白い肌。瞳は大きく黒目がち。サクランボのような唇がとても愛らしい。

「仕方ありません。ご主人様の体は昨夜の火事で真っ黒焦げ。いかに地獄の力をもってしても修復不可能。それに大王様も仰っておられたでしょう。新たな肉体を用意すると……」

「せやけど、これはいくらなんでもないで……どう見ても、これ、女の子やん……」

 俺はかなり不安になり、股間のあたりをモゾモゾとまさぐってみた。どうやら性別までは変わっていないようだ。ちゃんと大事なものはそこについている。

「まぁ、どうしてこうなったかについては、後ほどまた説明いたしますので、とにかく、お着がえを……」

 マリリンが急かす。まぁ色々と納得いかないこともあったが、とりあえず覚悟を決めるしかないかと俺はゆっくりと頷き、改めてトランクケースの中を確認してみた。

 見るからに高級そうなお洒落なシャツやズボンが、そこには用意されていた。

 その中からマリリンが今の季節がらにあった――つまり秋らしい服装を選んでくれた。

「ええっと、ポール・スミスのTシャツにフードパーカー。ズボンはリーバイスのブラックデニムなどいかがでしょう? まさに完璧なコーディネイトとしか申せません」

「あのさ、なに言ってんのか、さっぱりやけど。ちょっと後ろ向いててくれへんかな?」

 そう言ってから俺は服を着がえ、その完璧なコーディネイトとやらに変身した。

「――で、これからどこへ行くのん?」

 似合ってるかどうかは別にして着心地は悪くない。

「大王様の言葉を思いだしてください」

 そう言いながらマリリンはトランクケースと鏡を再び黒いコートの内側へと収納した。

 まったく、どうなってんだ、あのコートの中身は?

「あぁ……そういや、俺、地獄の捜査官とやらに任命されたんだっけ……」

「そうでございますとも。すでに最初の任務が与えられておりますので急ぎましょうか」

 そんな返答もそっけなく、マリリンの白い指先が病室の引き戸にかかる。

 そしてガラガラと音をたててドアが開き、俺の新たな人生が幕を開ける。

 と、思いきや、そこへ数名の看護士さんが通りかかった。

「きゃーっ、摩耶くん。今日、退院なんだって、おめでとう!」

「やーん、超かわいぃっ。超おしゃれっ!」

「ふふふ……カラーコーディネーターに簿記に宅建、英検三級。通信講座でさまざまな資格を取った、この有能秘書にかかればチョロイものでございます」

 見れば廊下の先に立つその有能秘書とやらが、こちらをふり向き、なぜか自信まんまんのドヤ顔である。俺は看護士さんらに揉みくちゃにされながら、これから始まる人生そのものに初めて大きな不安を感じたのだった。


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