紅炎

 それから数日後のことだ。

「父上。いらっしゃいますか」

「レセーンか。機嫌は直ったか?」

「直るとでもお思いですか」

 悲嘆に暮れ、ザッハータ一派の所業に憤り、暫く出てこなかった彼である。おまけにいざ出てきてみれば、妹のエリーファやら、監視役であろう一族の者やらにずっと付き纏われるのだ。苛立ちを隠そうともしなかった。

「それで、何の用だ」

「託宣です。神殿まで来て頂きたく」

 ザッハータの目が、あからさまな不審の色を隠すことなくレセーンを睨んだ。

「託宣だと?」

「今から参ります。嘘だとお思いなら連れを同行させても構いませんが、拒めば父上の御身に関わります」

 レセーンはあくまで淡々と告げる。選択肢を与える気は更々なかった。

 祖霊の呼び出しには必ず応じなければならぬ。それが掟。ザッハータは端から信じておらぬだろうが、掟を破れば当人のみならず赫血の全員が何らかの報いを受けることになっている。その前に当人を一族から追放、つまり殺せばその限りではない、とも。

 元よりザッハータと一族の他の者が結託したのはひとえにラサンテという共通の敵を駆逐するため、そのラサンテがいなくなった今、ザッハータが掟を破ったと知れれば皆、すぐさま手のひらを返すだろう。

「どうなさいますか。誰かお呼びになりますか」

「無用」

 ザッハータは、レセーンの性格もよく解しているつもりでいた。魔術、剣技共に優れた技倆を有することは知っていたが、所詮そんなものは個人の武勇。争いを嫌い、私欲をほぼ持たぬ。裏の世界でも悪名高きラサンテとは違い、人脈も、他人を籠絡して味方につけ、上に立とうという気概もない。弟の庇護の許に、安穏と暮らす隠者。傀儡にはうってつけのよくできた異端児、そんな認識であった。事実、その通りであった。ラサンテさえ、関わって来なければ。

 ザッハータは、明らかに普段と違うレセーンの態度を、未だ機嫌が悪いせいだろうと受け取った。

「そうですか。では、お願い致します」

 父を伴い、神殿へと向かうレセーン――暗黒に閉ざされた迷路へと入っていくとき、彼の瞳もまた海淵の青い闇を宿していた。初めて手を汚すことに、欠片の迷いもなかった。


 虚ろな足音が時を刻む。踊る鬼火が、狂宴へと導く。

「どうぞ」

 神殿に入り、祭壇の前まで進む二人。懐からナイフを取り出し、レセーンは指先を少し切って血を垂らした。

「……父上の番です」

 ナイフを受け取ろうと、ザッハータが手を差し出す。

 次の瞬間、手首が落ちた。


 迸った血が跳ねる。祭壇にこれでもかというほど血が降りかかる。

「託宣だ、ザッハータ。死ね」

 剣を手に、忽然と現れてそう告げたのはラサンテであった。


「レセーン、貴様!!」

 言うが早いか、己を謀った息子に掴みかかろうとするザッハータ――そこに割り込むラサンテの刃。

「俺を見ろ、ザッハータ。貴様を殺すのは俺だ……貴様を呪うのは俺だ!!」

 剣閃が新たな血飛沫を上げる。もう片方の手がごとりと地に落ちる。魔力を込めた斬撃は傷口を焼き、組織の再生を許さぬ。

 壁際に退いたレセーンは、ザッハータを拘束せんと術を張る。妖しく輝く青い瞳がザッハータを縛る。

 噴き出す血は鎌となって宙を裂いた。斬り払われようと障壁に阻まれて霧散しようと、再び凝結してラサンテに向かってゆく。その数は増えてゆくばかり――

 しかしラサンテは攻撃の手を緩めぬ。幾つか命中し、身体が裂けようとも構わずに剣を振るい、それどころか、己の血を鎖に変えて鎌を絡め取り、飲み込んでゆく。

「くたばれ、老いぼれ!!」

 苛烈さを増す紅の瞳。烈しく燃え盛る炎。横薙ぎに一閃、ザッハータの両足首を断つ。そして片翼の抱える眼球に、剣を突き立てる。

 耳を劈く、おぞましい叫声――そして潰れた眼球から、ずるずると赤黒い触手が飛び出した!

「化け物めッ」

 容赦なく斬り捨てれば、散らばった切れ端がびたびたとのたくり、芋虫のように蠢いてラサンテに群がる。その間にも新たな触手が伸びてくる。炎の蛇で迎え撃ち、蛭のように吸い付いてくる夥しい数の虫を焼き払い、狂ったように回るもう一つの目玉を潰す。

 激痛の中、何故ラサンテに対抗できぬのだろうとザッハータは必死に疑った。彼の知り得る限りでは、彼の息子はここまで強大な力を持ち合わせてはいなかった。ラサンテが極めたのは剣、対するザッハータが磨き上げたのは魔術による攻撃の術。剣は魔術には勝てぬ、故に負けるはずはないと信じていた。しかし実際に戦ってみればどうだ? 全くもって歯が立たぬ。

 これがグレントールに憑かれる前のラサンテならば、事の趨勢はまた変わっていただろうが、彼に与えられた邪悪なる力は、ザッハータとの力量差を補って余りある。それどころか、遥かな優位を生んだ。

 幼き頃から凶暴な王者として、弱者を踏み躙る側で過ごしてきた嘗ての魔王は、このとき初めて、恐怖と言うものを感じていた。

「どうだ、信じられぬか。苦しいだろう、恐ろしいだろう!! とくと味わえ、復讐の味をな!!」

 剣を捨て、のたうつ触手を素手で引き千切り、食い千切ってラサンテは笑う。その手を、牙を、全身を真っ赤に染めて。ありったけの嘲りを込めた嗤笑で以て、正気を打ち砕く。狂気を呼び覚ます。

「苦しめ。そして死ね、永劫の苦痛と共に死ね!!」

 殺戮の、狂気を――


 どくり。


 辺りに立ち込める、噎せ返るような血の匂いが魔物を呼ぶ。

 一帯を染め上げる紅が魔物を呼ぶ。

 猛る復讐心が、憎悪が、怒りが、侮蔑の快楽が、魔物を呼ぶ。


 どくり。


 拍動と共に、四肢の先まで侵される。抗い難き衝動に。

 弾ける狂笑。苦悶の呻き。身を捩る哀れな生贄、耳障りな絶叫。限界を迎えたのか、ザッハータの黒く硬い表皮はぼろぼろと剥がれ落ち、真っ赤な真皮が覗く。そこにぼこぼこと浮かび上がる無数の眼球――それを片端から鋭い爪で貫く。レセーンはぴくりと顔を引き攣らせた。ラサンテの呼吸が早まる。裂けた口から笑声が迸る。

「おい、ラサンテ、もう……」

 制止の声は絶笑に掻き消される。血に飢えた魔物は止まらぬ。断末魔が途切れても尚、ひたすらに切り裂き、殴打し、血を浴びる。

 レセーンは戦慄した。

 弟が抱いた憎しみの深さは理解していたつもりでいたが、流石にこの乱行は目に余る。ザッハータは既に息絶えて久しい、何も原型を留めぬほど破壊する必要はない。

「ラサンテ。十分だ、それ以上は……」

 冒瀆を止めぬラサンテの肩に手を掛け、揺さぶる。血濡れた顔が振り向く。

 そのとき何が起こったのだろうか――レセーンは、鈍い衝撃を受けて倒れ伏した。父親の屍、と言うより残骸の横に。血溜まりの中に。

 閉ざされた闇の中には暫くの間、壊れた笑声だけが響き渡っていた。

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