ハンバーグ②
三等客が満足そうに自席へ帰った頃には、京都駅。神戸駅を発車してから、まだ一時間ほどしか経っていないことが信じられない怒涛の忙しさである。
しかし、発車時間になっても列車が動かない。
何があったと首を傾げていると、都合よく車掌が食堂車に飛び込んできた。
「機関車が動かなくなった。別の機関車で後ろから押して動かす」
とだけ言って去ろうとしたので、ハチクマさんがすかさず「何でだい?」と呼び止めた。
「死点といって、三つのシリンダーが変なところで止まって固まったんだ。車輪を転がせばシリンダーも動けるところに……ああっ、もう急ぐから詳しい話は後で!」
すると隣の線路を古めかしい汽車がチャカポコと走ってきた。玩具のようで何とも頼りないが、ちょっと押すだけなら十分なのだろう。
テーブルの皿を片付けていると、微かな衝動を感じた。続けて汽笛が鳴ったので、ポンコツ玩具の準備が整ったのだと思われる。
車掌が再び現れて「すまん、ハチクマ」と声を掛けた、その瞬間。
限界まで蓄積された高圧蒸気が踏ん張っていたピストンを突き動かした。連なるリンクが狂ったように鞭打って、目にも留まらぬ勢いで大車輪を回転させ、レールをえぐり火花を散らせた。
機関士による必死の操作で何とか地に足つけたものの、暴れ牛と化したC53は鼻息荒くレールを蹴り上げ、巨体を激しく震わせた。
連なるだけの客車たちに、
厨房のハチクマさんがカウンターに隠れて見えなくなると、私の視界が車窓のように高速で流れはじめた。
食堂に、甲高くけたたましい悲鳴が響き渡る。
手すりを掴む車掌を除いた私たちは、床をゴロゴロと転がって、身体をあちこちにぶつけ、ついには力なく突っ伏してしまった。
呆気にとられた車掌が我に返り
「怪我はないか!」
と絶叫すると、ところどころから
「……大丈夫……」
と、うめき声が聞こえてきた。
大丈夫ではないものの、職場で寝ている場合ではない。身体を起こして目を凝らすと、阿鼻叫喚の地獄絵図である。
粉々になった皿が、床に散乱していた。悲鳴を上げていたのは、人だけではなかったのだ。
「皿を抑えていなかったか……すまん」
命よりも大事だと蓋した鍋に被さって、冷蔵庫の扉を足蹴にしていたハチクマさんは、車掌の首根っこを片手で掴んで修羅のごとく睨みつけた。
「……挽き肉にする気か……」
「すまん、本当にすまん。皿の手配の投げ文は、こっちでやっておくよ、本当にすまん、ごめん」
車掌が震える声で言ったので、ハチクマさんは唇を噛み締めつつ車掌を釈放した。
誰ひとり怪我をしていなかったのは不幸中の幸い、とは言え、三等客に出した卓上の皿が食堂の床を、積み上げることしかできなかった定食客の皿が厨房の床を覆っている事実は、悲惨にして不幸な状況であった。食器棚と流しに無事なものがあったものの、ほんのわずかな数しかない。
新しい皿を積み込めるのは名古屋駅、到着は二時間ほど後である。
総出で破片を片付けていると、二等車の方で紳士が入店を躊躇しているのに気が付いた。
「これは……えらいこっちゃ。私は座っとったから無事やったけど、あんたら大変やったなぁ」
「ちょっとお待ちください! もうじき終わります!」
そうハチクマさんが声を上げると従業員は皆、耳を疑った。この状態で店を開けるのかと、目を見開いて狼狽してしまう。
「もう昼飯時じゃない、きっと大丈夫だ」
ハチクマさんはそう言うが、本当に大丈夫だろうか。私たちは眉をひそめずにはいられない。
お待たせ致しました、と席に案内するなり紳士は期待に胸を膨らませて、揉み手をしながら注文をした。
「ハンバーグをパンで」
皆が蛇に睨まれたように固まった。全身に視線が刺さったハチクマさんは、後に続かなければ大丈夫だ、と皆に無言で返事をしたが不安は募るばかりである。
そう思った矢先、二等車の方からぞろぞろと客がやって来た。先ほどの三等車集団による占領を見て、出直そうと思っていたそうだ。
事情を説明すると、あれはひどかった、それは災難だ、と納得してもらえたが、空腹に敵うものはなく、誰ひとり立ち去ろうとはしないのだ。
パントリーとレジの三人は皿を洗い、
先輩のウェイトレスが、淡々と注文を通す。
「カレーライスおふたりさん、ハムライスおひとりさん、チキンライスおひとりさん」
客が皆、事情を察して皿一枚で済むものを注文してくれたことにハチクマさんはホッと顔を緩めていた。
しかし、皿洗いを終えたパントリーとレジは、残酷な通告を行うのだ。
「……席の分しか、使える皿がありません……」
そこへ説得しきれなかった私が、死刑宣告でもするように注文を通す。
「……チキンカツレツとパンおひとりさん、シチュードビーフとパンおふたりさん、フライドフィッシュとパンおひとりさん……」
みるみる青ざめる厨房の様子が、次第に霞もうとしていった。
「すまないが全員、一皿で済むものに変えてもらうようお願いできないか」
「でも、もうハンバーグが通っていますので」
「しかし皿が足りないんだぞ。変えてもらうか、待ってもらうかしないと」
血の気が引いたパントリーに小声で懇願されたものの、私は食堂と厨房の板挟みになり困惑するしかなかった。瞳を潤ませているものが、今にも溢れてしまいそうだ。
奥歯をギリギリ噛み鳴らした末にハチクマさんは、石炭レンジ下部のオーブンに、ハンバーグをフライパンごと突っ込んだ。
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