ハンバーグ①

 銀座にできたハンバーガーショップに行きたい、と言ったのは母だった。昭和四十六年のことである。


 まだ五十代という若さだが、俺が産まれた直後に父が戦死し、女手ひとつで俺を育て上げるなど若い頃の苦労が多かったのと、去年初孫ができたせいなのか、年齢の割に落ち着いている。

 どこかへ食事に行こうか尋ねると、割烹かっぽうや中華料理など、ゆっくり食事ができる店ばかりを希望していた。

 まだ若く元気なのだから、ハンバーガーを食べたいと言っても不思議ではないのかもしれない。が、息子の俺にとっては意外過ぎる要望だった。


 デパートの一階に収まったアメリカ生まれのその店は大盛況で、母はひたすら興奮気味に「凄いのね」と繰り返し、月の石でも見たかのように瞳を輝かせていた。いつも穏やかに微笑んでいる人で、妻はもとより息子の俺でも、こんな顔は見たことがない。


 包み紙を開いて、しげしげとハンバーガーを見つめると「懐かしいわ……」とつぶやいたので、俺は思わず身を乗り出して

「母さん、食べたことあるの?」

と尋ねると、首を横に振り

「食べたことはないの。でも……」




 昭和九年十二月一日。

 十六年もの歳月と六十七名もの犠牲を払って、熱海~三島駅間に悲願であった丹那トンネルが開通した。

 天下のけん・箱根を迂回していた東海道本線は、国府津こうづ~熱海駅間の熱海線を取り込んだ上、これに合わせて移設された三島駅経由に変更されて、従来の国府津から山北、御殿場、沼津回りの線路は御殿場線として独立した。


 同時に拡大する需要に応えるべく、一等と二等のみで編成されていた特急富士に三等車が、三等のみだった特急櫻には二等車が連結された。

 特急燕も三等客車を二両増やした十両編成で運転されたが、距離短縮と勾配緩和により東京~大阪駅間の所要時間は八時間にまで短縮された。


 しかし長大トンネルに蒸気機関車では、乗務員も旅客も窒息してしまう。

 東京駅から国府津駅までだった電化区間は沼津駅まで延長され、この区間における旅客列車牽引は、すべて電気機関車に置き換えられた。 

 それはわずかな時間を惜しむが故、電化区間も蒸気機関車で運転し、機関車交換を名古屋駅だけに絞っていた特急燕も例外ではなかった。

 またこれを期に、型落ちだが高速にして信頼が厚いため、運行開始から使われてきたC51型蒸気機関車が、特急燕から撤退したのである。

 このトンネルの開通は、東海道に大変革をもたらしたのだ。


 神戸駅。

 昼の発車に備えてテーブルを飾り付けている私が新米ウエイトレスだと、車掌が気付いた。含み笑いをしながら車掌が近づいて、自慢げに

「今日の汽車は凄いんだ」

と、胸を張った。

 何が凄いのかわからず「はぁ」と生返事をすると、機関士に弁当を持っていくようハチクマさんに頼まれた。ついでに汽車を見てきなさい、ということらしい。


 確かに驚かされた。

 巨大な車輪の上に筒型のかまがズドンと載っている姿を想像していたが、それは鯨かナメクジの化け物のような、ぬめっとした形をしていた。流行りの流線型というやつだろうが、目の前にそびえる真っ黒な壁に圧倒されて、危うく本来の仕事を忘れかけるところだった。


「機関士さん、助士さん、お弁当をお持ちしました」

「おっ、今日は別嬪べっぴんさんだがね。すまんのう」

「凄い汽車ですね」

「他のはワルシャート式弁装置ちゅうてシリンダーが二つなんだが、こいつはイギリスで開発されたグレズリー式弁装置ちゅうのが前に着いとって、シリンダーが三つあるんだわ。よう走るし揺れんのよ。富士や櫻ではとっくに使っとったかまだが、丹那トンネルができたお陰で、超特急燕にも使うことになったんだわ。こいつで燕をく日を、どんだけ待っとったことか」


 キョトンとした私の顔に、答えを間違えたことに気付いた機関士は、取り繕うように話を続けた。

「そんなかまでも、この形はこいつ43号機ひとつだ。お嬢さん、ついとるわ」

 社交辞令的に「いい汽車なんですね」と言うと機関士も機関助士も「うん、まぁ……」と言葉を濁し、もうじき発車だから乗るように、と逃げるように話を打ち切ってきた。


 三等車から乗り込んで食堂車に向かっている間

「今日のウェイトレスは美人だ」

「あとで食堂車に行くよ」

「待っていてね」

などと軟派たちに声を掛けられて、終始困惑させられた。

 立ち去る前に一礼しよう、そう思って仕切り扉に背を向けると、軟派たちは首を垂らして財布の中身を確認していた。


 どうだったかい? とハチクマさんが尋ねたが「凄かったです」としか答えられなかった。汽車も電車もみんな同じに見えてよくわからない、というのが本音である。

「あの七五三っていう汽車……」

「C53だよ」

というやり取りで、食堂車が笑いに包まれた。


 運転台は灼熱地獄である。甲組と呼ばれる特急を担当する機関士・機関助士には、火力の強い練炭が与えられた。強烈な熱量が膨大な蒸気を生み強大な出力を産み出すのだが、それと引き換えに目の前のボイラーと投炭口からの凄まじい熱に襲われる。

 しかも、この流線型機関車に限っては、空気抵抗低減のため運転台と炭水車の隙間が幌で密閉されており、熱の逃げ場がどこにもない。

 機関士・機関助士ともに顔を歪ませているが、それは暑さと汗のせいだけではない。重大な懸念がひとつあって、祈る気持ちがそうさせていた。


 さて、食堂車である。

 昼の定食客がいなくなり、一品料理の案内に出ようとチラシを持って一等車に向かおうとした、その瞬間。

 反対側の三等車から、待っていましたと言わんばかりに精鋭たちがなだれ込み、あっという間に席を埋めてしまった。軽口を叩きつつ目を皿のようにしてメニューを見ては、なけなしの金で注文できる料理を探している。

 一等、二等が優先だから追い返そうと思った途端、節操なく一斉に注文するものだから成す術もなく、下げた皿を洗う暇もない。彼らの予算に叶ったものが飲み物や軽食など、すぐに済むものばかりだったことだけが唯一の救いであった。

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