ハチクマ②

 若いコックは「ええっ?」と頓狂とんきょうな声を上げると、麻布ネルをギュッと握ってコーヒーを絞り出し、一気にあおって飲み干した。

 何度見ても慣れないコックの悪癖、熱くないのかとパントリーは呆れ顔である。


 石炭レンジに投炭し、火を強めてから食堂の方を覗いてみると、コートの男がぺこぺこしながら青年にメニューを勧めている。

 妙な様子のふたりであったが、コックは一切気にしていない。天皇陛下が来店したわけでもあるまいに、料理の前では身分の上下や垣根など関係ない、とでも言いたげである。


 今の時間からして、お茶か軽食が注文されるだろうと予想を立てて、コックはコーヒーカップを取り出した。

「シチュードビーフ、おひとりさん」

 目を見開いてカップを仕舞った。

「あとコーヒー、おひとりさん」

 目を見開いたまま、再びカップを取り出した。そしてコックは、誰にも聞こえないように

「参ったな……」

とつぶやいて、弱火にかけている寸胴鍋をゆっくりと掻き回していた。


 パントリーがコーヒーを淹れ終わってもコックは険しい目つきで鍋を掻き回し、不透明な琥珀の沼でゴロゴロと肉や野菜を漂わせている。

 ウェイトレスに「シチューはまだですか?」とせっつかされて、ようやく慌てふためき目を泳がせながら、それをスープ皿に盛りつけた。

 コーヒーはコートの男、シチュードビーフは青年の前に並べられた。重厚にして定期的な振動を受けてコーヒーはかすかに波打って、シチューは期待にふるふると震えている。


 従業員たちは平静を取り戻していたが、コックだけが険しい表情を保ったまま、じっと食堂を見つめている。


 シチュードビーフを口につけた瞬間、青年の眉がピクリと跳ねると、コックは両手で顔を覆って静かに悶えた。


 コートの男がすかさず手を挙げる。

 男の小言を聞いたウェイトレスは、シチュードビーフを厨房へと下げてしまった。

 青年は、申し訳無さそうに困惑している。


 全従業員が怪訝な顔をして、下げたシチュードビーフを取り囲む。列車食堂の緊急事態である。

「味が変なようだから下げてくれ、とおっしゃいまして……」

「昼に出した時は、変な味どころか美味いと言って頂けたぞ?」


 皆が一斉にシチューを指につけて、味を見る。


「変な味……するか?」

「そもそも私たち、毎日ここにいてもシチューは滅多に食べませんね」

「でも、あのお客は我々より食べる機会が少ないだろう。きっと何かあるんだよ」


 コックの膝から力が抜けて、カウンター下へとしなびていった。

「あんた、また何かやったのか!」

 驚愕のあまり絶叫したのはレジである。コックは力なく立ち上がり、しおれた顔で弱々しく告白をはじめた。

「半端の赤ワインがあったので入れた。夕定食の時間に合わせたため、煮込みがわずかに足りなかったのだ」

 揺れる車内で規定量を注げなかったパントリーは、肝を縮ませ視線をそっぽに投げていた。余りをこれ幸いと鍋に入れたのはコックである。


「毎度毎度勝手な真似をして! 勘定が合わなくなったら、あんたどうしてくれるんだ!」

 その剣幕と鬼の形相に、コックはぺこぺこと頭を垂れて腰を折り、必死に弁明を繰り返す。

「そこは合うようにしている、ちゃんと計算しているのだ、勘定は狂わないから、ね、ね」

 計算が合っていれば文句はないと、レジは唇を固く結んだまま続く言葉を飲み込んだ。


 しかし、ここは食堂だ。金さえ合っていれば、それでいいわけではない。状況を動かさなければと口を開いたのは、コックのお陰で命拾いをしたパントリーのふたり。

「で、どうしますか?」

「煮込みが仕上がるまで待ってもらう?」

「出したコーヒーが冷めるまで待たせることにならないか?」

「おかわりのコーヒーをお出ししましょう!」

「そういう問題じゃないんだよなぁ」


 侃々諤々かんかんがくがくの流れを断ち切ったのは、この問題の根源たるコック自身。石炭レンジの前に立ちフライパンを強火にかけると、いったい何を始めるのかと皆の注目が集まった。


 スープ皿にライスを盛り付け、フライパンに手をかざし温度を確かめる。頃合いだ、と顔をわずかに緩めると、ベーコンを二枚焼き始めた。

 脂が溶けて弾ける音、立ち上る肉の香りに従業員一同が思わず魅了された。が、この先の展開を空想し、一瞬にして薄氷が張った。


 ぐったりと横たわっていたベーコンは、熱さに耐えかねて隆々と起き上がる。

 これで終わりと思うなよ、そう容赦なく裏返すと香ばしい焼き色が露わになって、コックは不敵な笑みを浮かべた。

 ベーコン自身から溶け出した脂によって、両面とも揚げ焼き状態になっている。弾ける脂の隙間を縫って、今にも白旗を上げそうだ。

 コックは、生卵をひとつ取り出した。

 厨房にうっすら漂う緊張感は、音を立てて弾け飛び、辺り一面に撒き散らされた。


「ちょっと待て、あんた正気か!」

「やめろ!」

「何やっているんだ!」

 青年は騒がしい厨房の様子を案じつつ、コートの男が浮かべる得意げな笑みに、ムッツリとむくれていた。

「シチュードビーフは、あのままで構いませんでした。食堂に迷惑です」

「いいえ、些細なことでも異変があれば対処するのが、私の務めです」

「今日だって、ひとりで帰ってよかったのです。それをわざわざ、神戸で待ち構えなくとも……。私は、もう子供ではありません」


 口を尖らせる青年を、コートの男が身体を屈めて、小さいながらも強い口調で諭していた。

「失礼を承知で申し上げます。ご自身のお立場をお考えください。子供扱いしているわけでないことは、おわかりでしょう」

 青年は返す言葉が見つからず困っていると、やめろ、正気か、気は確かか、の大声援に見送られコック自ら給仕にやって来た。


「ハチクマさん!」


 ウェイトレスの悲鳴むなしく、コックはふたりの前で立ち止まり、屈託なく微笑んだ。

「シチュードビーフは仕上げ前でございました。そのようなものを提供してしまったこと、誠に申し訳ございませんでした。代わりのお食事をご用意させて頂きました。お詫びも兼ねて、お代は結構でございます」

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