列車食堂

山口 実徳

ハチクマ①

 ずいぶん昔の話だが、風変わりな食堂が日本中の羨望の的となり、津々浦々にまで洋食を広めたことは、知っているだろうか。

 そこにはこれまた風変わりなコックがいて、何というか、色々と騒動を巻き起こしていたそうだ。


 そう、残念ながらそのコックから後年、聞いた話ばかりなのだ。

 彼も嘘は言っていないだろうが、私や彼に記憶違いがあるかも知れない。申し訳ないが、そこは承知してもらいたい。

 コックの話は長くなるから、後でゆっくり話すとして、まずは食堂の話からはじめようか。


 奥行きは二十メートルばかりあるが、幅は三メートルにも満たない、鰻の寝床のような店内だ。明るく目に優しいクリーム色の壁紙が一面に貼られているから、窮屈には感じない。


 この三分の二ほどが食堂で、ふたり席と四人席が左右に振り分けられた計三十席。どの席にも窓があって、食事をしながら景色を楽しむことができる。各テーブルの窓上にはランプが備え付けてあるから、ディナータイムは優雅な雰囲気だ。

 景色や宵闇に飽きたら、ウェイトレスが飾ってくれた季節の花を愛でるといい。これも各テーブルにあるだろう。


 店の突き当たりを見てごらん、酒瓶が並んだカウンターがあるだろう? あの奥が厨房で、幅二メートル、奥行き六メートルほどと窮屈ながら、そこで作られる料理はホテル並みと評判なのだ。


 その片隅は廊下になっている。この先が入口だが反対側にもうひとつあって、こちらは直接食堂に入る格好だ。

 一方が入口で、もう一方が出口だと思ったかい?

 そうではない、どちらからも客が出入りするのだよ。入口がふたつあるなんて、変だろう?


 利用する際には、時間に注意しておくれ。定食は三交代制で、昼は午前十一時から四十分、夜は午後五時から五十分の制限時間を設けている。

 時間に縛られずに過ごしたければ、定食は諦めなさい。一品料理の時間なら、食事だけでなく喫茶、バーとして利用することができるから。

 ただ案内される順番は決まっている。政財界のお偉いさん、官僚や重役や金持ち、庶民は最後で早い者勝ちだ。恨みたくなる気持ちもわかるが、そういう時代だと理解してくれ。


 そんな店がどこにあるのか? それは困った質問だね。

 これから語る昭和八年ならば東京、横浜、名古屋、大阪から神戸。そこから西は下関や長崎、鹿児島まで。北に目を向ければ仙台や青森、函館に札幌、稚内まで。金沢に新潟、日光や鳥羽、出雲大社の近くにまで来てくれる。


 あるんじゃない、来るんだよ。

 どうやって来るかって?

 それは……見てごらん、ちょうどやって来た。

 ……おや? 

 あなたは運がいい、風変わりなコックに会えるかも知れないよ。折角だから、ちょっとお邪魔してみよう。


 黒光りする巨大なかま濃尾平野のうびへいやの水田を西から東へ切り裂いた。遥か遠くの山裾にまで広がっている若苗を、高速回転する大車輪、吐き出される高熱の水蒸気、鞭打つリンクが軽快に威圧する。


 この蒸気機関車なる代物に連なる客車四両は、四人一組の箱型座席が並んだ車内に、庶民を押し込む三等車。

 組んだ足をポンと投げ出す不届き者を、相席客が煙たがっている。車掌が来れば説教される子供のように脚を行儀よく揃えるが、過ぎてしまえばまた、ひょいっと投げ出してしまう。


 一両空けて、二等客車が二両。転換椅子にゆったりと身をゆだねる姿から、気持ちと金銭の余裕が垣間見える。何せ、三等の倍するからね。

 それなりに地位ある人ばかりではなく、近頃は朝鮮や満州で稼いできた成金と呼ばれる連中が増えている。長らく利用してきた客や二等車専属のボーイらは、彼らの尊大な態度に怪訝な顔を覗かせていた。


 最後尾を務める一両が一等車。料金は三等の三倍だが、二等と違って金さえ払えば誰でも乗れるものではない。それなりの地位があって初めて乗車できるのだ。

 そういうわけで、贅の限りを尽くした個室も、肉厚のソファーが整然と並ぶ豪華な展望室も閑散としており、一等車専属のベテランボーイも退屈そうにたたずんでいる。


 一等車の一番後ろ、展望デッキに絵入りの丸看板がげられており、そこには「つばめ」と書いてある。

 これが昭和五年に誕生した特急燕。東京~大阪駅間を、それまでの特急より二時間二十分も短縮する八時間二十分で結ぶ、鉄道省が誇る韋駄天列車だよ。三等級すべてが揃う特急も、これが唯一だ。


 話が長くなって、すまなかったね。それじゃあ、さっき飛ばした客車を案内しよう。


 ここは列車食堂。


 定食の時間が終わり、まかないを済ませた昼下がり。コックだけが厨房にこもり、他の従業員は適当な席について、食休みを取っていた。

「夕方の定食も予約でいっぱいだろうなぁ」

 パントリー(食器洗い配膳人)のひとりが溜息のようにつぶやくと、もうひとりがたまらず溜息を漏らした。


「わかっていて忙しいならいいですよ」

 ふたりのウェイトレス(給仕)が彼らを笑顔でなだめて、ねえと顔を見合わせた。当初はウェイターだったが、男手が足りなくなってきたのと、やらせてみたら評判がいいので、多くの列車食堂に女性が進出している。


「そうそう、予約のない一品料理客が並ぶのが一番大変だ」

 面倒な計算が無事に終わり、丸縁眼鏡の向こうで安堵の顔を見せるのはレジ(勘定方)。


 しかし、まだ少し懸念が残っているようで

「それに今日は……」

 五人揃って厨房の方を不安そうに覗き込むと、かすかな気配を背後に感じて、全員が一斉に立ち上がった。

「いらっしゃいませ!」


 薄いコートを羽織った眼光鋭い男と、うとましそうに口を尖らす二十歳はたちに満たない青年が、二等車側の入口に立っていた。

 案内する間もなく男が青年を席に着かせると、すかさずメニューを求めてきた。


 緩みきったところに突然の来客、それも少し怪しい様子のふたりに皆が浮足立っている。パントリーが厨房に戻り「お客です」と声を掛けたが、コックは呑気にコーヒーをれていた。

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