新町夜話
武田武蔵
新町夜話
夕霧の好いた相手が女衒であった。唯それだけである。
その怪しげな女衒が置屋に出入りし始めたのは、新緑の萌える時分であった。派手な着物姿の、断髪の女衒は女将と幾分気が合うた様子で、事在る毎に顔を見せた。中々姿形の良い男であると、"彼"が表れる度、置屋の女郎達は挙ってその姿を一目見ようと二階の自室や回廊より中庭を見下ろしていた。
「いやぁ、京や江戸は大変な事になってるってぇこのに、この界隈は変わりゃあしねぇなァ」
煙管を吹かし乍、縁側に座った女衒は云った。
「大阪は硬い防壁が在りますさかい、そう簡単には落ちまへんえ」
茶を啜りつつ女将が答える。
「はて防壁なんざ見えねぇが」
「お金どす、おかね。賄賂」
「金は天下の回りもの、て事かい」
「どうですやろ、瀬名はん面白い事云いまんなぁ」
「そうかい」
と、瀬名と呼ばれた女衒は笑い声を立てた。
その様子を二階の自室より見下ろし乍、夕霧は小さく溜息を吐いた。好いた男は己等素知らぬ振りで女将と喋り込んでいる。話した事は無い。唯時折ちらと此方を見上げる仕草が、愛おいしいと思って了う。抱かれるのならば、彼の様なひとが良い、いつの間にかそう思うようになっていた。
「阿呆かいな…」
今度機会を狙い話し掛けてみようか。そんな算段に、再び溜息が出た。
新町遊郭の中で、夕霧は現在太夫の地位に在る。太夫とは上天神の上位で、最高の地位である。揚屋に呼ばれる事も多く、自由は少ないものであった。
かの女衒と話す事が叶ったのは、それから数日後の事であった。買い付けてきた少女等を 、女将が吟味している隙に、階段を音を立てぬ様に降り、縁側に座る彼へと近付いた。
「……瀬名はん、」
叶わぬ思いを打ち明ける様に、恐る恐る夕霧は声を掛けた。
「なんだい」
と、瀬名は振り向いた。漆黒の髪が、昼の陽射しに透けて見えた。
「お、夕霧太夫だったかなぁ」
「うちの事、知ってはるの」
傍らに腰掛け、夕霧は問うた。
「ここいらじゃ有名さ。上天神から太夫になったばかりだってなァ」
と、煙を庭へ吐き出し、
「太夫道中、俺もチラッと見たが綺麗だったぜ、」
「ほんま? 嬉しいわァ」
「で、その太夫様が俺に何の様だい」
「瀬名はんと仲良う成りたい。それだけや」
「仲良く?」
「せや、」
夕霧は身を乗り出した。
「うちじゃァ、あかん?」
「そんな事ァ無いぜ?」
細い瀬名の指が夕霧の顎を捉えた。
「太夫に気入られるなんざ、俺も中々捨てたモンじゃあねえってぇ事か」
その儘顔が近付き、接吻されるのだと夕霧は束の間眼を閉じる。
「見てたぜ、いつもお前が俺を見下ろすのを」
そう囁き、瀬名はしかし額に口付けた。
「どないして唇やないの」
不満気に夕霧が訊ねると、
「買ってもねぇのに唇を頂くなんざいけねェや」
女衒はにやりと笑った。
それから間を見計らっては、互いに言葉を交わす様になった。瀬名から聞く外の世界の話は至極魅力的であり、廓しか知らぬ夕霧の心を束の間躍らせた。例えそれが血生臭いものだとしても構わなかった。唯、この女衒に寄り添うている時間が、夕霧は好きであった。
「瀬名はん、」
と、その肩に凭れ係り乍、夕霧は問うた。
「どないしてうちの事買うてくれへんの?」
「女は抱かねぇ主義なんだ」
ちらと此方を見遣り、瀬名は云った。
「いや、抱けないってぇ事かな」
「何でや」
「気が付かなかったかい?」
夕霧の手首を取り己の胸に寄せ、
「俺ァ女だよ。身体だけな」
「嘘や…」
触れた仄かな胸の膨らみに驚き、夕霧はかぶりを振った。
「だから、お前ェを愛してはやれねぇ」
「せやったら…」
喘ぐ様に夕霧は言葉を継いだ。
「せやったら、せめて口吸うて」
「それはお客の役目さ」
瀬名が優し気に、掴んだ手首を離す。
「太夫の意地や。惚れた相手に唇の一つも差し出さへんやなんて」
手首を掴み返し、女郎は云った。
「好きやねん、貴女はんの事が」
「好き? 俺を?」
聞き慣れた笑い声が夕霧の耳に届いた。
「なんで笑うん」
「こんな出来損ないを好いて呉れるなんてな――判ったよ」
と、強く抱きすくめられる。その儘、唇に柔らかなものが宛がわれた。
互いに接吻を交わしたのはそれきりであった。
その後聞いた話に因れば、夕霧太夫は下田屋と云う問屋の若旦那に身請けされ新町を去り、瀬名という女衒も江戸へ発った儘戻ることは無かったと云う。
今や面影もない花街の、伝え聞いた物語である。
新町夜話 武田武蔵 @musasitakeda
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