雨上がり、赤らむ心。

中州修一

雨上がり、赤らむ空。

私の愚痴を聞いてほしい。


傘を差しながら、私は足早に駅へと歩く。

雨は降っているけど、雨は止みかけで雲の隙間からは高く上った日の光が溢れているのが見える。


ペシャンコになった前髪も、ビショ濡れになったお気に入りのロングスカートも、今は気にならない。

いや、気にしない。


だって私は悪くないから。

私はずっと我慢してたんだ。


……今日は本当は、幸せな日になるはずだったんだ。


久しぶりに彼と会える予定ができて、彼の家にお邪魔する予定になっていたのに。

私は、一緒に遊んだりゴロゴロしたりちょっとになったり……色々したかった。


実際はそうなる前に喧嘩しちゃったんだけど。


私はおもむろにスマホを取り出し、彼とのメッセージのやりとりを見る。新着メッセージはない。


『お昼ご飯何がいい?』

『なんでもいい』


最後のやりとり、この6文字の飾り気も何もない6文字に、私はどうしても腹の底で燃え上がるものを感じた。


ーーーーーーーーーーー


『あの日』の事はどちらからともなく和解し、もう彼らの間では語られる事はなくなっていた頃。


そして新たな生活を始めた県営住宅のその一室。

生まれて間もない子どもをリビングで寝かしつけた若い夫婦は、ダイニングで少し遅めの食卓を囲もうとしていた。


「仕事も大変なのに、いつも家事まで手伝ってくれてありがとうね」

「ママもパートで大変なんだから、一緒だよ」


互いを思いやる温かい言葉を掛け合っているのは、形のない大切な気持ちをなんとか表現しようとする姿勢、単に「愛」の裏返しとも言えるだろう。


子どもに早く自分達の事を呼んでほしくて始めた慣れない呼び方も抜けないまま、彼らはやかんに水を汲み火にかける。


若い夫婦は調理場には赤と緑のカップを並べる。


「ママはどっちがいい?」

「どっちでもいいよ」

「じゃあ俺こっち」


パパは『緑のたぬき』を手に取った。


「え、緑なの?赤じゃなくて?」

「うん、悪かった?」

「悪くないけど、昔は赤しか食べなかったじゃん」

「そうだったか?」


パパは癖っ毛な髪を触りながら答えた。

子どもを寝かしつける時の忙しさとは相反して、ゆっくりと落ち着いた時間が彼らの間を流れていく。


油がうっすらと付いた換気扇が回る音が2人の間に割り込もうとした時、髪の毛から手を離しながらパパは言った。


「でも、いつだったか、こっちの方が好きになったんだよな」


お湯を本来の線の手前で止めて封をしたパパは、首を捻りながら緑のたぬきを手にテーブルへと向かって行った。


「へー……あ、まさか『あの日』から?」

「あの日?」

「初めて喧嘩した日」

「あー……あれね?覚えてる覚えてる」

「それ絶対覚えてないじゃん」


パパを追いかけるようにして、ママは緑のカップにお湯を注ぎ、蓋の上から箸を乗せる。


ママが食卓に移動して腰をかけるまで、パパは結局『あの日』を思い出すことはなかった。


思い出に浸るママとは裏腹に、固まった表情のまま唸るパパ。


お互いのカップから溢れ、立ち上る湯気越しに見るお互いの顔は、どうしようも無く当時の、煙となって飛んでいったあの頃を思い返させる。


「めっちゃ気になるんだけど」

「何が?」

「初めて喧嘩した日」

「あー」


ママは意地の悪そうな笑みを浮かべる。


「そう大した話じゃないよ」


その笑みが当時を思い出す優しいものに変わるまで、そう時間はかからなかった。


「あの日は雨が降ってたんだけどね」


ーーーーーーーーーーー


『お昼ご飯何がいい?』


左手で傘を差しながら、右手でスマホを操作し、彼にメッセージを送信する。

今日は久しぶりに会う彼と家で遊ぶ予定になっていた。


特に何をするわけでもないが、逆に予定の決まっていない、何が起こるかわからないドキドキ感が楽しくて好きだ。

私はスマホと傘を手に持ち、彼の家の最寄駅から彼の家へと向かっていた。


彼の家へと向かう道中には、コンビニがある。まだお昼を食べていなかったし、彼から要望があればそれを買っていきたかった。


歩いていると、右手に握ったスマホが震える。


『なんでもいい』

「……なにそれ」


とても短い彼からの返信に、私は少し足を止める。

「なんでもいい」と言うなら、アイスでもいいのだろうか?レジの横に売られてるよく分からん饅頭でも買って行ってやろうか。


ここまで考えて、流石にこれは屁理屈だと思った。私を信用して、ある程度の範囲内で「なんでもいい」と言う事だろう。

ここで変な意地を張ってギクシャクするのはごめんだ。


私はそう1人で考えていたが、やはりモヤモヤとするものは腹の奥に溜まっていた。



その後私は、コンビニで『緑のたぬき』を二つ買った。


カップラーメンなら男子は好きそうだし、私は『緑のたぬき』のかき揚げが大好きだったから、もし彼も『緑』を食べたいと言っても私も『緑』を食べられる。


だから『赤』は買わなかった。


しかし、それが間違いだったのかもしれない。


そのまま歩いて行って、通っている大学のすぐそばにある学生寮。

一階にはロックのかかったロビーがあるため、彼に電話してロビーまで来てもらう。


「いらっしゃい」

「うん」


整えられた癖っ毛を触りながら、彼は私の荷物を持ってくれた。そのまま短くあいさつを済ませて、エレベーターに入り、部屋を目指す。


その間は特に会話もなかった。久しぶりに会ったが、話したいことがあればいつもメッセージでやり取りしていたから。


付き合いはじめてもうすぐ半年が経過するが、私たちの間にはどこか長く連れ添っているカップルのような距離感があった。

私はこの距離感が好きだった。安定しているような、落ち着くような。そんな気がするからだ。


「お邪魔します」

「はい、どーぞ」


小綺麗に整えられた廊下、キッチンを抜け、ワンルームの小さな部屋に入る。

部屋は整理されていたけど、そもそも部屋が小さかったから座る場所は少なかった。


「先にお昼食べちゃおっか……はい、これ」

「ありがと……ってえ?」


彼は『緑のたぬき』が二つ入ったビニール袋を覗くと、短く声を上げた。


「『たぬき』だけ?しかも二つ?」

「え、そうだけど」

「俺『たぬき』嫌いなんだよね」


彼は右手で頭を掻きながらそう言った。

かろうじて心の声は漏らさなかったが、その時の私は相当すごい顔をしていただろう。


「なんでもいいって言ったじゃん。」

「なんでもいいよ?ただ嫌いって言っただけ」

「嫌いなんじゃん。」

「嫌いっていうか、俺は『きつね』の方が好きってだけ。」

「ならそう言ってよ!」


彼に対して声を荒げたのはこれが初めてだった。


「あ、ごめん……」


謝ったのは彼ではなく私だった。普段からあまり声を出さない方だったので、自分自身に驚いたのだろう。


「別にいいけど」

「……何その言い方……」


彼はビニール袋を持ったままキッチンへ向かうが、私はついては行かなかった。


完成した『たぬき』を食べる2人の雰囲気はぎこちないものだった。

私はかき揚げの味を感じないまま、本当は夜までいる予定だった彼の家を後にした。



ーーーーーーーーーーー


「あー!あったあった、懐かしい」

「あの日はその後の雰囲気最悪だったんだからね」

「ごめんごめん……って、もう5分くらい経っちゃった?」


パパは慌てて蓋を開ける。元々お湯を少なめに入れていた分、かき揚げの下に眠る麺が圧倒的な存在感をカップの中で出していた。


「あーあ、やっちゃった」

「ママのせいだからね」

「なんでよー」


若い夫婦は、リビングで寝ている子どもを起こさないように小さく笑い合う。

ママは自分のカップの蓋を開けながら、反省するように笑った。


「でも、私ったら相当細かいことで怒っちゃったね」

「俺もあの頃は相当生意気だったよ……いただきます」

「いただきます」


パパは少し膨らんだ麺を啜り、ママは油揚げを一口齧る。


「んー、美味しい」

「ねー」


言葉を多く交わさないのは、学生時代から変わらない。

しかし夫婦の積み上げてきた時間は、互いの想いを吸い込んで膨らむくらいには長かった。


「かき揚げ食べる?」

「食べる!」


煙が交差し、また交わる。


若い夫婦は、食べ終えるまで一言も言葉を交わす事はなかった。

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雨上がり、赤らむ心。 中州修一 @shuusan

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