第2話 飛鳥探偵事務所
「おい、店番が寝てんじゃねぇよ」
男の声に目を覚ます。瞼の裏や耳の奥に広がっていた夢の断片的なイメージが、小さく砕けて、離れていく。
薄く目を開けると、ボサボサでフケまみれの頭と無精髭に覆われた顔がこちらを覗き込んでいる。探偵だ。今帰ってきたところらしい。
「飯は?」
ソファの上で寝返りを打つ。寝たふりをしたまま頭上の時計に目をやる。時刻は午後六時半を回ったところだ。いつのまにか眠っていたらしい。
「寝たふりして誤魔化しても無駄だ。飯作るのもお前の仕事だろうが。サボった分、給料から引いとくからな」
「給料なんて、一度ももらった事ねぇよ!」
「奇遇だな、俺もだよ」
手元にあったクッションを掴んで、探偵の顔目掛けて投げつける。
「おぉ、怖っ!何キレてんだよ?やだやだ、ヒステリーだ。あー腹減ったな。働きもしねぇ助手なんて雇うんじゃなかったなぁ」
背中越しに、電話の受話器をあげる音が聞こえる。
「あ、オレオレ。……あ?いや違うって。……わかったよ、次の仕事で金が入ったら一番に払う……え?なに?……いいだろ、腹減ってんだよ……そうそう、いつもの!」
チン、と受話器が置かれる。
ソファの上に起き上がり、探偵の方を振り返る。
しわくちゃの黒いスーツに、白のシャツ。ネクタイなんてものはしていない。シャツの襟元には得体の知れない茶色いシミが付いている。ボサボサの髪に無精髭。足元の革靴も傷だらけでぼろぼろ。もはやぱっと見は浮浪者だ。昭和のドラマじゃあるまいし、探偵を名乗るにしてももう少しまともな格好はできないものか?
「お前な、雇い主をそんな目で見るんじゃねぇよ」
「雇い主ったって、一度も給料なんてもらってねぇって言ってんだろ」
「何言ってんだ!寝床を与えて、飯を食わせてんのは俺だぞ?それにお前が言ったんだろ?給料はいらねぇって」
「いらねぇなんて言ってねぇよ!依頼料の代わりに働くって言ったんだ!」
探偵はいつもの笑みを浮かべる。片頬を上げて、いかにも皮肉が効いてます、という笑みだ。
「それでサボってたら世話ねぇな」
私は目の前のローテーブルに置かれた灰皿を掴んで振りかぶる。探偵は大袈裟な動きで窓際の机の後ろに隠れた。
「やめろ!頼む!撃たないでくれ!」
探偵はなんでも悪ふざけにしてしまう。真面目に怒るのが馬鹿馬鹿しくなる。灰皿をローテーブルに戻す。この探偵事務所で助手として働き始めてからはや一年、こんなやりとりを延々繰り返している。思わずため息が漏れる。机の影から探偵が顔を出す。
「ため息をつくと幸せが逃げるんだぞ?」
再び灰皿に手を伸ばしたその時、事務所の入り口が開いた。入ってきたのはリュウさんだった。手にはチャーハン二皿と小さなわかめスープが載ったお盆。リュウさんはこの雑居ビルの一階で中華料理店をしている。電話で頼むと出来立てがすぐに届く。特急のデリバリーサービスだ。
「坊主も懲りないな。こいつに怒っても疲れるだけだぞ?」
事務所を見回してリュウさんが笑う。テーブルの上にお盆を置く。
「めしだ、めし!」
気がつくと探偵がテーブルの横までやってきている。チャーハンの皿に手を伸ばしたところで、リュウさんがお盆ごと取り上げる。
「あんた、今うちにツケがいくらあるか覚えているか?」
「そんな細かいこと、いちいち覚えてないね」
探偵は再びそろりそろりとお皿に手を伸ばす。
リュウさんは器用にお盆を片手で支える。空いた手で探偵の手を叩き落とす。
「二万七千五百円。チャーハン五十杯分だぞ。きちんと覚えとけ。いいか、次うちに注文するまでにツケが残ってたら、お前は出禁だからな」
「わかったよ、うるせぇな。次の仕事で金が入ったらちゃんと払うって言ってんだろ。あてだってあるんだ。安心しろって」
「こっちは毎回そうやって待たされてんだ。安心なんかできるか」
リュウさんはお盆をテーブルに戻す。探偵はチャーハンに飛び付き、立ったまま掻き込み始める。
「行儀悪りぃなぁ……。食い終わったら皿はちゃんと持って降りてこいよ。じゃあな、坊主」
リュウさんは事務所を出て行く。
「……ったく、疑り深い人間ってのはやだねぇ。ちゃんと払うって言ってんのに」
探偵は窓際の椅子にどかっと腰を下ろす。
チャーハンの匂いが部屋に満ちてくる。私も急激に空腹を感じる。テーブルのチャーハンに手を伸ばす。
「チャーハン代も給料から引いとくからな?」
「給料がどうこう言うけど、働き始めてもう一年だぞ?お前の依頼料いくらだよ。何もしてくれないなら俺だってもう出て行くからな!」
「あー、どいつもこいつも金、金ってうるせぇな。ちょっと待ってろ、今計算してやっから」
探偵はチャーハンを一気に口に入れ、スープで流し込む。スーツの内ポケットから手帳とボールペンを取り出し、何かを書き出していく。
「ほら、これだ!」
紙をくしゃくしゃに丸め、こちらに向かって投げる。紙はフラフラと宙を舞って、私のチャーハンの上に落ちる。
「ちょっと!」
紙を取り上げる。油の跡がついている。シワを伸ばして中を読む。
――時給五百円。一日七時間、月二十日勤務。月収七万円。
――家賃月五万円、前払い生活費一万円。月控除六万円。
――差引給与月一万円。
――年間十二万円。
――依頼料、十五万円。差引三万円の不足。
「ほらよ、それで満足か?きちんと助手の仕事をこなせばもうちょっとで依頼料に届くんじゃねぇの?サボってたらしらねぇけど」
探偵はいつもの笑みを浮かべている。その顔を見て怒りが込み上げてくる。夢の残滓が浮かぶ。母さんの顔。叫び声。
「もういい!よくわかった!あんた、いつまでもそんな適当なこと言って、私を都合よく働かせる気だろ!私はもう出て行く!自分で母さんの仇を見つけてやる!」
探偵は私の剣幕に目を白黒させる。
「大きな声出すなよ。自分で見つけるって当てはあんのか?十六のガキが一人で街をフラフラしてたらあっという間に補導されるぞ」
「うるせぇな、あんたが信用できねぇから出て行くって言ってんだよ!」
「そうかい、それじゃあ仕方がねぇな」
探偵は椅子をぐるりと回して私に背を向ける。本当に出て行っていいと思っているのだ。
この一年、私は一体何をしてきたのだろう。悔しさで目が熱くなる。なんでこんな男を信用してしまったのか。小汚くて、ズボラで、デリカシーのないこんな男を。
チャーハンを一気に口に入れ、スープで流し込む。しょっぱい味が口いっぱいに広がっていく。
ソファから立ち上がり、クローゼットからボストンバックを引っ張り出す。いつでも出ていける様に荷物はまとめてある。
「……おい」
探偵が口を開く。どうせ戯言だ。無視だ無視。
「ちょっと聞けよ、真面目な話だ」
思わず顔を上げる。いつものおちゃらけた声じゃなかった。
「俺はこれから三日、事務所を開ける。大きな仕事だ。店番しろって言いたいところだが、実はもう一個仕事がある。これがお前と関係がある案件かもしれない。お前とお前の母親にな」
「……どうせいつもの調子いい嘘だろ」
「嘘じゃない」
探偵は机の引き出しから封筒を取り出す。指でつまんで、私の方へ投げる。無駄に格好をつけるところがムカつく。床に落ちた封筒を拾う。中を見ると、一枚の写真と金が入っている。金額は三万円。写真は老人が一人写っている。背景は青果コーナーだ。スーパーで買い物しているところを隠し撮りしたらしい。
「そのじいさんはお前の事件の関係者らしい」
「こいつは犯人じゃねぇよ。犯人はもっと若かった」
「関係者だって言ってんだろ。そいつを調べれば何か手がかりが掴めるかも知れない」
「何かってなんだよ?それに、
「何があるかはわからん。それを調べろって言ってんだ。何があるかわからん以上、
「なんで俺がそんな不確かな話に乗らなきゃならない?」
「乗るかどうかは好きにしろよ。だけど、他に何か手がかりがあるのか?もし他に理由がいるならこうしよう。お前が俺の代わりに三日間そいつを調査して、何があったか報告すれば、それでお前からの依頼料はチャラにしてやる。正式にお前の母親を殺した犯人を探してやるよ。それでどうだ?」
「なんであんたがそこまでする必要がある?」
「実入りがいいからに決まってるだろ。そのじいさんを調べて欲しがってる奴がいる。そいつは金払いがいい。そして、そのじいさんはたまたまお前の事件に関わっている、
なんだよ?自信がないのか?一年も俺の助手をしてきて、じいさん一人を調べることもできないのか?」
探偵を見つめる。その顔には例の笑顔か浮かんでいる。
どこまでもムカつく奴だ。
「それで、さぁ、どうする?」
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