55 舞い戻る
ソニアの視界が回った。ふわりと体が宙に舞う。
服の中に不意に入ってくる空気が肌の温度を下げて、背筋の冷たさは今の状況を端的に示していた。馬車から押し出された瞬間をスローモーションに感じ、その一秒後がいつまで経っても訪れないような気さえする。
「……っ!」
しかし現実において『時間』というものは、人間が生んだまやかしの絶対的な秩序。一秒後は一秒後に必ず訪れる。
(身を……守らないと……!)
それはソニアも分かっていたし、彼女の本能もしっかりと理解していた。体に纏っていた魔力膜がソニアの思い描く通りに機能する。
「っ!」
ソニアは宙に投げ出された自分の体勢を感覚で理解すると、すぐ右ひじに魔力を集中させた。そして落下と共に右ひじを勢いよく地面に叩きつける。
――体が跳ねた。地面をえぐった感覚はあったものの、痛みはそれほどでもなかった。なんとか、魔力で右ひじを防御することができたようだ。ソニアは跳ねた体で、前に行く馬車を見据える。
このままでは馬車には戻れない。ウィズは『馬車に追いつけ』と言った。落ちても無傷でいろ、なんてことは言っていない。
後ろにはエイジャの乗る馬車が付いてきているが、それに拾ってもらうことは考えなかった。ウィズがそういう意味で言ったのではないことぐらい分かっている。
「いけっ……!」
ソニアは地面に再び落下するよりも先に、ポケットからブレードフック付きのワイヤーを取り出すと、ウィズが駆る馬車へ放った。それは馬車の後ろに引っかかり、ソニアの体を繋ぎとめる。
これで何とか馬車に置いて行かれることはなくなった。
ソニアがそれに一息つくもつかの間、彼女の体は宙にあるのだ。すでに足の下には地面が流れていた。体勢を立て直す時間もなく、足に魔力を込める。
今度は肘という不安定なものではなく、足で地面を蹴った。ソニアは高く跳んで、馬車を見下ろすまでの高度に到達する。手に持ったワイヤーの長さが限界になって、ビクンとソニアの体を引き戻そうとした。
「く……!」
引っ張られる衝撃がソニアの全身に走る。だがそれはあまり障害にはならない。ソニアは落下しつつも、そのワイヤーを手繰り寄せて馬車に戻ろうとする。
しかしそれでは全く馬車へ近づくことができなかった。再び地面が迫る。そこでソニアは決心したように、足に魔力を込めた。
また地面が足のすぐそこまできている。ソニアはタイミングよく、近づいてきた地面に蹴りを入れて、自ら前へ飛び出した。
「……!!」
体が前に跳ぶ。その勢いでワイヤーが手から離れ、完全に放り投げられた構図になった。ソニアが飛んでいく先は馬車の助手席辺りで。
「うぐっ!」
ソニアは奇跡的にも、ウィズの隣の助手席に落下した。その際に頭を打ち、ソニアは悲鳴を上げる。
「さすがだね」
吹っ飛んできたソニアをウィズは見向きもせずに、そう微笑んだのだった。
◇
「さすがだね」
空中から隣の助手席へ戻ってきたソニアに、ウィズは微笑んで声をかける。視線は馬車が走る先を見つめていた。視線は落とさない。前を向いたまま。――手綱を握る腕が
「……っ! ウィズ……」
「いや凄いよ。荒い訓練だったけど、本当に戻ってくるとはね」
戻ってきたときに頭でも打ったのだろうか。頭を手でさすりながら起き上がるソニアだった。そんな彼女にウィズは褒め言葉を贈る。
「その調子ならアジトに乗り込んでも大丈夫そうだよ。……フィリアさんが君を雇った理由、なんか分かってきたな」
ウィズは確かな安心をもとに、そうぼやくように言った。
ソニアなら戻ってくるだろうとは思っていたが、実際に戻ってきてくれて安心したのも事実である。フィリアや自分と比べると、確かに見劣りするソニアであるが、彼女は『アーク家』のフィリアに雇われた護衛だ。ただの凡人ではその立場にはたどり着けない。
その予兆はウィズも悟っていた。今までの付き合いの中でも、光りそうなところは何度も見てきた。フィリアもそこに注目したのだろう。
(……しかしなぁ)
手綱を片手にまとめ、震える腕を震える腕で押さえつけながら、ウィズはぼーっと回想する。今、荒いやり方ではあるものの、ソニアの才能を少し引き出したわけであるが、ウィズはどこか引っかかっていた。
(今の感じ……。どこか、知っているような気が……)
馬車から落とされ、戻るまでにソニアは全力で魔力を使用した。その時、ウィズが感知した感覚――どこか既視感があったのだ。
既視感といえど、それはとても小さい。けれどウィズは知っている。どこかで、これと似たような魔力――いや、雰囲気というべきだろうか――を目の当たりにしていた。
「ウィズ……ちょっと」
「うん?」
そんな追憶を引き出そうとしているウィズに、ソニアが話しかける。
ウィズは考えるのを一旦やめて、仕方なくソニアの方を見た。
――直後、彼女の拳がウィズへ飛んできた。
「ぐはっ!」
完全に油断していた。手綱から手が離れ、今度はウィズが馬車から押し出される形となった。普段ならば、こんなことにはならないのだが、今回は少し不注意が重なってしまった。
ソニアが怒鳴る。
「ウィズの、馬鹿!」
しかしウィズは、さっきのソニアと同じように馬車の外へ完全に投げ出されたわけではなかった。ソニアは押し出されたウィズの手を握りしめ、繋ぎ止めていたのだった。
ソニアは続ける。
「危ないじゃん! 何してるのさ! 流石のボクだって、これは怒るよ!」
怒った表情でウィズを引き寄せ馬車に戻したソニア。フリーになった手綱は彼女のもう一方の片手に握られていた。
ウィズはは魔力を使い方を肌で感じさせるために、あえてソニアを馬車から突き落としたのだ。それは危険すぎるし、一歩違えばソニアは大怪我ものだった。彼女が怒るのも無理はない。
無理はないが。
「まったく……! もう、こんなことばっかしてたら嫌いになっちゃうからね! 次はちゃんと事前に話してよ!?」
「う……ごめんなさい……」
プンスカと怒鳴るソニアに、ウィズは真摯に頭を下げるしかない。
――彼女が怒るのも無理はないが、それもウィズは分かっていた。怒るであろうと、それが危険な行為で
それなのに。
(……焦って盲目的に『善人のウィズ』を演じすぎたか……)
それなのに、その行為を実行してしまった理由。考えられるのは、ユーナ奪還の目標を成し遂げるためにはソニアの魔力の使い方を改善する必要があった、ということ。
ゆっくりと教えている時間はないと、ウィズは思っていた。だから危険で突発的な方法をソニアに使ってしまったというわけだ。
(クソ……なんでこんな、焦燥があるんだ……!)
ウィズは頭を下げながら、悔しそうに唇を噛んでいた。
「……」
ソニアがじっと、握りしめたウィズの腕を見ていることにも気づかずに。
――その、震えが止まらないウィズの腕を。
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