第2話 葉栗鼠島の砂浜

 東京都・葉栗鼠島はりすじま


 亜熱帯気候のこの島は美しい海に取り囲まれており、夏のレジャースポットとして年々人気を増している。この年の七月も、島南岸にある海水浴場は盛況であった。

 日差しのぎらつく南岸の船着き場に、一隻の船が到着した。東京本土とこの島とを結ぶ定期船である。


「南国って感じ。ハブとかいそう」

「向こうの斜面に見えるの何?」

「ソーラーパネルっしょあれ」


 船から降りた少年たち五人が、取り留めもなくお喋りしている。彼らを牽引する若い男は、それを背中で聞きながらぬるいため息を吐いた。

 この眉毛の濃い精悍な顔つきの若い男は、中学校教員の雪丘ゆきおかいつきである。水泳部の顧問である彼は、夏の合宿を行うために、部員である後ろの五人を連れてこの島にやってきたのだ。

 男の大きな背中は力なく丸まっており、内心の暗雲を表出させている。雲一つない青空とは裏腹に、男の表情は曇りきっていた。


 その理由は、水泳部の置かれた状況に由来している。


 先月、三人の部員が他校生と喧嘩して、相手を負傷させてしまった。そのことで、水泳部の夏の大会への出場が辞退となってしまったのだ。

 この処分によって、目標をなくした残りの部員たちは完全にふてくされてしまった。以前のような意欲をなくし、練習でもどこか締まらない雰囲気が漂い始めたのである。それだけでなく不自然な病欠(仮病を使っているのかも知れないが、証拠がない以上何も言うことはできない)が増え、練習に部員が揃うことさえ稀になってしまった。

 それゆえに、この夏合宿も何だか物見遊山のような雰囲気になってしまった。顧問の雪丘はまだ若く、彼らを引き締めるにはいささか教師としての経験や威厳が不足している。


 水泳部が宿泊するのは、南岸の海水浴場にほど近い旅館であった。旅館の白い外壁は日に焼けて褪せたかのように黄色がかった色合いをしており、この建物の年季の入りようを言外に語っている。


二頭にとうさん、今年もどうかよろしくお願いします」

「いやいや、何もない島ですが、ゆっくりしていってくだされ」


 水泳部員たちが客室に入ったのを見届けた雪丘は。旅館のオーナー二頭の招きで応接間に通された。二人は向かい合う形で、ソファに腰を下ろした。テーブルには二頭が今しがた淹れた緑茶が置かれている。


「今年の水泳部はどうですかな。事件のことは聞き及んでおりますが」

「はい……その後も色々ありまして……」


 この旅館はずっと前から水泳部と懇意の間柄であり、歴代の水泳部員たちは皆二頭とこの旅館の世話になってきた。二頭はまさに水泳部の歴史の生き証人とも言うべき人物である。


「まぁ、気を落としなさるな。わたしも来てくれて嬉しいですよ。こんなご時世ですし、旅館うちもなんだか寂しくて」


 雪丘と二頭が話している頃、水泳部員たちはどうであったか。彼らはすでに旅館の客室にはいなかった。


「やったぜ海だ!」

「あそこの水着の姉ちゃんエロくね?」

「お前部屋でシコるなよ」


 一旦は旅館の部屋に腰を落ち着けた水泳部であったが、案の定、旅館に着いた水泳部員たちは羽目を外した。強化合宿という目的も忘れて、海パン姿で海水浴場へと繰り出してしまったのである。

 南岸の砂浜には、多くの海水浴場が思い思いに遊興していた。海水に身を浸す者もいれば、浜辺で寝そべり日光に体を晒す者もいる。

 五人の水泳部員は、そのまま一直線に海へと突入した。嗅ぎ慣れない磯の匂いが、先ほどにも増して彼らの鼻をついた。


「もっと向こう行こうぜ!」


 マンボウのようにひょうきんな顔をした部員が、沖の方を指差した。海を見る機会などそうそうない内陸育ちの彼らは、海水に身を浸したことで完全に調子づいていた。その一言によって、五人は競うように沖を目指して泳ぎ出したのである。


「遅いぞ、こっち来いよ」


 先ほど他の部員を煽ったマンボウ顔が、後ろを向いてなおも仲間を煽っている。二年生である彼は、部員の中では一番有望視されていた。だからこそ、自分に何の責任もない事件のために出場停止処分を受けたことは彼の意欲を大きくそぎ落とした。仲間を砂浜に誘って勝手に旅館を抜け出すよう先導したのは彼であったが、それは彼なりの鬱憤晴らしのようなものであった。


 だがこの時、彼は気づいていなかった。人々に仇なす怪物が、水をかき分けながら忍び寄っていることに……


「……ん?」


 急に、背中を大きな波が襲った。それは全く突然のことであった。

 水を被った頭を震わせながら、おもむろに後ろを向く。その時ようやく、彼は接近するを視認した。


「さ、サメだ!」


 四つの背びれが、一直線に向かってきていた。その背びれが何であるかは、海を見たことのないこの少年でも理解できる。

 視界に収めたときにはまだ、二十メートルほど離れたところにいた。そんな背びれが、あっという間に距離を縮めてきた。


「え、サメ!?」

「マジだ!?」


 水泳部員たちは、一斉に岸に向けて泳ぎ出した。とはいえ、陸の生き物が海の王者に泳ぎで勝てるはずもない。いくら水泳部員であっても、それは同じことである。

 水泳部員とサメ、両者の距離は瞬く間に縮まった。浜辺はまだ遠く、海水をかき分けて急接近するサメから逃れることはほぼ絶望的だ。


「げぇっ……」


 マンボウ顔の部員が、カエルの潰れたようなうめき声を虚空に残して海中に没していった。彼の流したものであろう赤い血が、ぶわりと海中に広がっている。

 他の四人の部員たちは、後ろを一切振り返らずに泳ぎ続けた。彼らの耳には、手で水を裂く音に混じって、大勢による悲鳴が聞こえている。サメが迫ってきている――そのことは、海水浴客たちに広く知れ渡ったのであろう。


「ジョーズだ! ジョーズ!」

「人食いザメだ逃げろ!」


 海水浴場はパニックに陥っていた。迫りくるサメから逃れようと、人々は一目散に浜辺へと駆けていく。


 海から陸へ……そんな人々の流れに逆行する、一つの人影があった。

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