世界一かわいそうな、あの子へ

澄田こころ(伊勢村朱音)

第1話 雪山

 眼前に広がる世界は、くすんだ白に支配されている。上も下もわからない。雪が荒れ狂う山を俺はひとり、さまよっていた。

 朝は青空がのぞいていたのに、昼をすぎたころから急変。日が落ちる寸前、ビバークできそうな岩棚を見つけた。ヘッドライトを照らしながらスコップで雪洞をほる。大人ひとりが入れる雪洞を一時間かけてほった時には、運動不足の体は悲鳴をあげていた。


 登山用の小型テント、ツエルトを雪洞内に設置。尻に銀マットをひき体育座りをして、ガスバーナーを燃やしやっとひと息つく。

 青く燃える炎をながめ、ぼそりとつぶやいた。


「このガスバーナーが、一晩もてばいいけど」


 ガスが切れたとたん、ツエルトの中はたちまち氷点下まで気温がさがる。そうなれば、明日の朝には凍死か……。つまみをしぼり、炎をいくぶん小さくする。すこしでも熱気を体に近づけようと、両足でガスバーナーをはさんだ。


 悲惨なこの状況に似つかわしくないニヒルな笑いはひげ面をゆがめ、くだらない自問が脳裏によぎる。


 俺が死んだら愛子とひなは、悲しんでくれるだろうか。

 いや、こんな大みそかに雪山へいったバカな男だと笑って終わりだろう。三歳になったばかりのひなは、父親の死が理解できないかもしれない。


 実家へ帰っている愛子とひなを昨日訪ねて、ひさしぶりにふたりと会った。愛子の足にまとわりつき、ひなは近づいてこない。関心を引こうと土産に買ってきた絵本を差し出した。愛子から、毎晩読み聞かせしていると、いぜん聞いたことを覚えていたのだ。


 俺の顔を不思議そうに見て、ひなは絵本の包み紙をやぶく。しかし中からあらわれた表紙を見ると、とつぜん泣き出した。わけがわからぬ俺は、愛子の顔色をうかがう。


「この絵本、このあいだ図書館で借りたのよ。でも、最後がかわいそうだから大嫌いになったお話しなの。陽介さんはそんなこと、知らないわよね」


 皮肉な笑いとともに、愛子は封筒に入った書類を俺へつきつけた。離婚してくれといって。

 せっかく、大みそかを家族水入らずで過ごそうと思っていたのに。我が家に妻子を連れ帰るどころか、ポケットの中には離婚届。

 一晩悶々としてリュックの中に装備を押し込み、逃げるように夜明けを待たず山へむかった。


 何が悪かったのだろう。ツエルトの中、膝にのせたリュックを抱きしめ自問自答を繰り返す。

 仕事を理由に、子育てを手伝わなかったことか?

 でも、それはしょうがないこと。俺が金をかせがなければ、たちまち生活はゆきづまる。


 いぜんは愛子とふたりで山へのぼった。ひなが生まれた後は、俺ひとりでいったことか?

 ひなが大きくなったら、三人でいっしょにのぼろうといったじゃないか。だから、今はしょうがないと。


 脳内に不服気にうなずく愛子の顔が浮かぶ。俺が何かいうたび、愛子の顔はくもっていた。内心は吹雪のごとく荒れ狂っていたのだろうか。


 ああ、そういえば昨日、離婚してくれといった愛子の顔はとても晴れやかだった。俺という存在が消えたほうが、愛子にとって喜ばしいのか。

 グローブをはめたかじかむ手は、すりぬけていく何かを必死でつなぎとめようと、リュックを強く強くにぎった。


 感覚がにぶっている手のひらに、四角く硬いものがふれた。さして興味もないのに、反射的にリュックをあけて中身を確認する。ペットボトルの水、非常食、割りばし、コッヘル(携帯用なべ)にタオル。それらの中にまぎれて、あたたかなオレンジの色調のかわいらしい絵本が出てきた。


 朦朧とした頭で装備をつめこんだ時、この絵本もいっしょにいれたのか。一番大事なスマホを忘れたというのに。ひなに拒否された絵本を山へもっていき、愛子やひなといったつもりになりたかったのか。


 俺も、いろいろ終わっているな。こんな情けない男、この世から消えた方がいいんだ……。ほら、ちょうどいいことに眠気がおそってきた。そりゃそうだ、昨晩は一睡もしていないのだから……。


 抵抗することなく目をつぶり、深い闇の底へとひっぱられていった。


     *


 ふと気づけば、そこは雪山ではない。

 雪がちらつく鉛色の空の下、三角屋根のレンガの建物がたちならぶ外国の街並み。それらを見あげて、俺は石畳の上にリュックを背負って立っていた。

 茶色や金の髪の人々はあたたかなコートを羽織り、足早に目の前を通り過ぎていく。


 俺は死んで、天国にでも来たのか? あの通行人たちは天使なのか?

 天国のイメージからずれた場所だけれど、好奇心から一歩足をふみ出す。ちゃんと硬い石畳を踏みしめる感覚がある。そろりそろりと歩き始めた俺の耳へ、少女の声が流れこんできた。


「マッチ、マッチはいかがですか?」










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